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雪乃と彼方はしのぶの家へ向かっていた。街の大きな道路を少し外れた辺りに見えてきた高層マンションが、それである。
「聴こえてきたよ」
彼方が言った。やっぱりだ。これから行くしのぶの家になにもないのだとしたら、声など聴こえてこなくていいはずだ。前へ進むための道筋が見えてくるようで、雪乃は気を引き締めた。
彼方はどこか浮かない顔をしていた。なんでも、雪乃がしのぶが死んだときのことを思い出したことが、聴こえて来たのだという。無理もない。暗い気持ちになるのは雪乃も同じだ。
マンションの玄関にあるインターフォンに、しのぶの家の番号を入力する。彼女の母親にはすでに話が通っていて、すんなり中に入れてくれるはずだ。
『あー、彼方くんに雪乃ちゃんね!入って入って!』
玄関が開く。底抜けに明るい声だった。
「行こう」
エレベーターの中では会話がなかった。声のせいで、せっかく時間が死の悲しみを洗い流してくれているところがぶり返してしまったので、しのぶが入院している間の部室でのような、互いに依存し合うような静寂が戻ってきたのだった。
ついに部屋の前まで来た。しかしどこかためらわれた。急に緊張に襲われて、二人はまごついた。ここまで来てなにをしているのだろう。早く目的を果たさなければ。そう思った時、扉ががちゃりと開いた。そこで、雪乃は息を飲んだ。
そこからは、しのぶが顔を出していた。
いや、違った。それは彼女の母親の国木田さなえである。相変わらず、しのぶがそのまま歳をとったような、ほとんど生き写しの姿だった。
「よく来たねえ。さあ、入んな。ほら、なにしてんの、辛気臭い顔して」
彼女の勢いに押されて、放り込まれるように中に入った。
「いやあ、久しぶりだねえ。言ったとおり、部屋はそのままにしてるからさ。前に雪乃ちゃんも来たよね?あの子の部屋なにもないように見えるけど結構わけのわかんないもんいっぱいあってさあ。片付けるの面倒くさいじゃん?それにきみたちみたいにたまに友達が来てくれるんだったら『しのぶ記念館』として残してもいいかなって。見られて困るもんなんか持ってないでしょあの子。困るとしてもあたしは知らないけどね、あはは。コーラ飲む?飲むよね?後で持ってくからさ。適当にくつろいでてよ」
マシンガンの言葉をいきなり浴びせられ、雪乃と彼方はあっけにとられた。この家に来るときはいつもこうで、パワフルなさなえは人を圧倒するのだった。あのしのぶも『お母さん、うるさいってば』と焦っていて、そんな彼女を見るのが新鮮でおもしろかった。
雪乃と彼方の緊張はどこかへ行ってしまった。どことなく漂っていた暗い空気もさなえに吸い込まれていった。一年ぶりに、しのぶが三人の間にどういう影響を与えていたのかを思い出して、切なくも嬉しい気持ちになった。
「でもさ」
さなえは続ける。
「まだ、しのぶがあの部屋にいるような気もするんだよね。変かな?」
しのぶの部屋の前まで来た。二人は首を振る。
「あはは、感傷ってやつかな。ところでさ、あんたたち付き合ってるの?」
不意を突かれてびっくりする。
「ち、違います」
二人の声が揃った。雪乃の心がざわついて頭が混乱した。
「ふーん?」
しのぶそっくりのいたずらっぽい笑みを浮かべるさなえ。
「じゃあ、ごゆっくり」
さなえは姿を消した。
「すごい人だな、相変わらず」
「なんか、なつかしいね」
しのぶの部屋を開けると、以前となにも変わらない光景が目に飛び込んできた。大量のDVD。絨毯。テレビとスピーカー。ロフト。
そして窓。ここからしのぶが紙をぶちまけて、映画研究会が始まったのだった。あの日とほとんど同じ。欠けているのはしのぶだけだった。
「さっそく……始めようか」
彼方も感じ入っていたのか、声は低かった。
「でも、なにから始める?隅から隅まで探すんでしょ?」
「そうだな。だとすると……」
大量のDVDが陳列されている棚を見上げる。
「DVDの中身もチェックするのか?」
「そこまでは無理だよ。パッケージを開けるだけにしよう」
「それでもすごい量だな」
「手分けすれば大丈夫だよ。私、あっちとこの棚を見るね」
「わかった。俺はこっちだ」
まるで警察のガサ入れである。気が遠くなるが、やるしかない。
さっそく作業を始めると、さなえが部屋にコーラを持ってきて、テーブルに置いていった。まだ、仲いいねえ、などと言ってにやにやしていたので、頬が熱くなった。
雪乃の担当を半分ほど消化したところで、妙なものを見つけた。
「なんだろ」
その声を聞いて、彼方がこっちにくる。
それはエッチなDVDだった。
「あいつ、なんでこんなもの持ってるんだ……」
彼方は呆れたように言った。
「あの変態め。こんなものどうするんだ」
「でもおかしいよ。映画のDVDの中にこういうのが混じってるなんて」
「それもそうだな」
にわかに緊張が走った。このDVDに何か手がかりがあるのだろうか。それを裏返して見てみると、動画の内容が紹介されていた。なんというか、エッチだった。彼方は目をそらす。
「あいつ……」
彼方は怒っているようだった。男の子はこういうものは見るのではないのだろうか。それはともかく、雪乃はそのパッケージに手をかける。
「開けるよ」
「うん」
ぱか、とそれが開かれると、一切れの紙が床に舞い落ちていった。
「あ、なんだろう」
雪乃は拾い上げてみた。そこには、文字が書かれている。
『彼方の』
雪乃は彼方を見た。
「違う、俺じゃない!いたずらだよ!しのぶのいたずらだ!」
雪乃はじっと彼方を見る。
「本当だよ!ああ、なんだか言い訳に聞こえる……しのぶのやつ……!」
雪乃はDVDを元の位置に戻した。雪乃は言う。
「でも、これがいたずらだとしても」
「いたずらだよ」
「うん、わかったよ。これがね、しのぶからのメッセージなんだとしたら、他にもそういうのがあるかもしれないよね」
彼方の顔色が変わった。
調査を続行する。DVDは調べつくしたが、手がかりになるようなものはなにもなかった。他に紙切れなどはなかったし、中身のディスクもすべてプレスされたもので、しのぶがなにかを残した形跡は見つからなかった。もしかしたら、DVD・Rにしのぶの映像でも残っているかもしれないと思ったのに。
仕方なく、他を探した。テレビ台の中や、ロフトの上にあるダンボールも見たが、それらしいものはない。残るは、クローゼットの中だけになった。
中を開けてみると、そこにはゲームソフトや映画関連のグッズが大量に押し込まれていた。パンフレット、ポスター、フィギュアに設定資料集。しのぶは本当に映画が好きだったんだな、と今更ながらに思った。一つ、部室にあったのと同じプラスチックの書類棚があった。一番上を開けてみると、そこにはあの日に外に放り投げた、映画の感想を書いたコピー用紙と同じものが出てきた。
「あいつ、続きをまだ書いてたんだな」
それらにざっと目を通してみる。しのぶらしくない美しい文章で、映画の内容が綴られていた。だが、それ以外の情報はなかった。もしかしたらどこかに暗号でも隠されているかもしれないと詳しく見たが、ちょっと見ではそれもわからない。
「昔から、本当によくここで一緒に遊んだよ」
彼方は読みながら言う。
「でも今考えるとなんだか不思議だ」
「どういうこと?」
「あいつって、自分のことをあまり言わなかった気がする。この部屋をこんなに調べてみても、しのぶを知らない人だったらただの映画好きの人としか思わないだろう。男の部屋か女の部屋かもわからない。子供の頃は気づかなかったけど、この部屋は少し変だよ」
「そうかもしれないね。女の子の部屋っぽくないね。しのぶらしいとは思うけど」
「うん。あいつはいつも人のことばかり気にしてた。クラスの友達、先生、両親、芸能人、映画の登場人物。人のことばかり話していた。でもそれなのに、不思議とあいつは自分勝手に、気ままに生きているように周りに感じさせるんだ。今になってやっとその錯覚に気づいた。俺はもしかしたらと思うんだ。あいつは自分の痕跡を残さないようにしてたんじゃないかって。死ぬとわかっているから、自分を初めから殺していたんじゃないかって」
「そんな!そんなの悲しすぎるよ」
そういいながら、雪乃は心当たりがあった。しのぶはきっと彼方のことが好きだったに違いない。自分が長くないとわかっているから、その気持ちを押し殺していたとしたら?
彼方は顔をそむけた。見られるのがたまらないといった様子だった。今雪乃が思ったことが通じたのだろうか。そうだよ。しのぶはあなたのことが――。
「探そう。もう少しで終わりだ」
彼方は追いやられるように、他の引き出しを開けた。少し強く、乱暴に。
「ん?なんだ、これ」
雪乃は身を乗り出して、彼方が持っているものを見た。それは封筒だった。正面に文字が印刷されてある。
『ニアの冒険』
ニア?ニアとは、雪乃が飼っている猫の名前である。その冒険とはなんだろう。記憶に引っかかりを覚えた。なにか自分は覚えている。彼方も顎に手を当ててなにやら考えていた。封筒は糊付けされておらず、中に便箋が入っているようだった。
「見てみようか」
彼方は封筒に指を入れた。取り出して、おずおずとそれを開いてみる。
そこにはこう書かれていた。
『テレパシーの場所。柳の根元』
テレパシー!
まさか。これはやはりしのぶからのメッセージだろうか。だがテレパシーの場所……。それを多分自分は知っている。思い出せ。テレパシーは、たしかにあった。
「思い出したよ」
彼方が言った。
「ニアの冒険、テレパシー……そう、あれはテレパシーだった。覚えているだろう?ニアを助けに行ったときだ。あそこに、確か柳の木があったはずだ」
「ああ、ニアが逃げ出した時。私も思い出した。確か彼方くんが……」
「そう。これはここに行けっていうことだ。しのぶがなにかを残しているんだ」
「本当に?」
「多分。一つ言えることは、今この便箋のことが、細かく俺に聴こえてきているっていることだ。少なくとも、この声を頼りにするなら、行くしかないね」
道が開けたように感じた。しのぶが、しのぶがまだいる!彼女の意思が死後もまだ続いて、雪乃たちを導こうとしているようで、たちまち心強くなって来た。雪乃はここ数日の憂鬱が嘘のように元気付いた。頼れる人がいた。この現象から抜け出すために糸口を、しのぶが用意してくれていた。
「疑問は増えたけどね。どうしてしのぶは生前にこんなものを残したのか。もしかしたらなんの関係もないことなのかもしれないけど、もし関係あるんだとしたら、しのぶはきっと……」
彼方は言葉を選んでいた。
「きっと、不思議なやつだったんだ」
とにかく、あの場所へ行かなければならない。だが、今日はもう遅いので、明日にすることにした。一筋だけさして来た光明。これを逃しては、永遠に決着がつかないのではないかと思われた。きっと、すべてが上手くいく。しのぶの笑顔を思い出して、雪乃は久しぶりに安堵を覚えたのだった。




