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 学校の廊下を、彼方と二人で歩いていた。頭の中がしのぶのことでいっぱいなのは彼も同じなのだろう。そこには沈黙しかなかった。

 彼方は、周りの様子をうかがい始めた。落ち着かない態度だった。。

「彼方くん?」

「桜庭。今聴こえてきている」

 雪乃は体をこわばらせた。コートの男が襲ってくる気配はなかったので、とりあえずほっとして歩みを早めた。余計なことを考えないようにしようと努めるが、声は雪乃に届かないので確かめるすべはなく、その点については半ば諦めていてもいた。

 屋上へと続く階段の踊り場まで来た。彼方が壊したという屋上への扉の南京錠は真新しくなっていて、くすんだ扉とちぐはぐだった。人気はなく、話をするには適していると思われる。

 彼方は『聴こえる言葉には意味がある』と言った。ならば、今から話すことにも意味があることになるのだろうか。いや、あるに決まっている。昨日見たしのぶの顔が細部まで思い出され、そのうつろさが雪乃の心を乱した。

「昨日の夜、声が聴こえてきた。きみが俺と初めて会ったときのこととか、ユングの話をしていることとか、昔……以前の記憶が言葉になってまとめられてた」

「確かに、それ、思い出したよ」

「うん。俺が覚えていることと違うところもあったけど、おおむねその通りだった」

 言葉を切った。次になにを続けたいのかは、雪乃にはわかっていた。

「その後、きみは見た。しのぶに、会ったんだろう?」

 家から誘い出すように雪乃の目の前に現れたしのぶ。ただ雪乃をじっと見つめてから、風のようにいなくなってしまった。実体のある幻なのか、それとも……。

「会ったよ。会ったっていっても、しのぶはなにも言わなかった」

「わかってる」

「ねえどうして?どうしてしのぶが私の前に来たの?」

 彼方にわかるはずがないのに、口が勝手に動く。

「どうだろう。幽霊なのかもしれない。あいつには双子なんていないんだから」

「それに、私はしのぶのことを見間違えたりしないよ。あれはしのぶだった。絶対そうだよ」

「そうか……。幽霊だとして、なんのためにきみの前に出て来たんだろう。きみに会いたいんだったら、もっと長くいればよかったのに。なにか話せばよかったのに。一也くんがいたからかな?でもあいつは一也くんとも仲がよかったはずだ。どうもわからない」

 二人は考え込んだ。しのぶと過ごした日々が脳裏を巡って、涙が出てきそうになった。どうして出てきたの?どうしてなにもいってくれなかったの?

「ねえ、今も声が聴こえてるんだよね?私がしのぶと会ったことも聴こえてきたんだよね?」

「そうだよ。話していることがフィードバックしてる」

「だったら、あのコートの男と関係があるってこと?」

 無関係なのだろうか。二つの事件は別々に原因を持っているのか。いや、なんだかそれはしっくりこない推測だ。

 彼方はうなずいた。

「かもしれない。ずっと考えていたよ。声を送ってくるやつが誰なのかはこの際置いておくとして、きっとそれには目的があるんだって。だとしたら、しのぶが出てきたのにも意味がある。もしかしたらさ、あいつはなにかを言いたくて出てきたんじゃないか。俺たちになにか警告したかったんじゃないか」

 突飛な意見ではあったが、今までの異常事態を考えると、あながち的外れではないかもしれない。

「でも、なにを?」

「わからない。コートの男に気をつけろっていうことならわかりきってる。……もしかしたら、あいつは他になにか知っているのかもしれない」

「知っているって、しのぶは一年前に死んじゃったのに……」

「幽霊として知ったのかもしれない。ああ、頭がおかしくなりそうだ。テレパシーに加えて、幽霊まで出てくるのか」

 その言い方に、カチンと来た。まるでしのぶを化け物呼ばわりしているみたいではないか。彼方はうろたえるようにした。

「化け物なんて思ってないよ」

 雪乃の心を読んだらしい。どうにも、話がしづらい。恥ずかしさが先に出てきてしまう。

「とにかく、あいつに今起こっていることのヒントがある気がする。しのぶに秘密があるんだよ」

「どんな?」

「わからない。でも調べる必要があるだろう」

「なにを調べるの?幽霊のしのぶを探すっていうの?」

「どうしよう……」

 よい案が出なかった。こんな常軌を逸したことに対応するなど、自分たちにできるのだろうか。誰にも相談できない。こんなことを話したら、頭がおかしいと思われてしまうだけだろう。しかし、本当に彼方に聴こえる声とはいったいなんなのだろうか。こんなに遠回しに情報をぶつけて、いったいどういうつもりなのか。雪乃たちは自分で考えることを強制されている。なにか手はないか。危機的な状況を脱する手がかりがなにか……。

 そこで、雪乃はあることを思い出した。

「なにか思いついた?」

「うん。あのね、しのぶの部屋って、今もそのままにしてるんだって。しのぶのお母さんが言ってたよ。だから、そこを調べればなにかわかるんじゃないかな」

「なるほど。望みがあるかわからないけど、とりあえず探してみようか」

「うん。お母さんが許してくれればいいけど……」

「大丈夫だと思う。あの人はしのぶにそっくりなんだ」

 これからの行動が決まった。目標がはっきりすると、気分が楽になる。

「ねえ、まだ聴こえてる?」

「聴こえてるよ」

徒労に終わるかもしれないが、今も声が聴こえているということは、それなりに意味があることなのかもしれない。期待は膨らんでいく。雪乃はこの際限のない不安から早く解放されたいと思った。

「なあ、最近変わったことがあったか?俺に聴こえていること以外で……」

 だしぬけに彼方は言った。

「うーん、彼方くんになにが聴こえてるのか細かくはわからないから、どうだろう。しのぶを見たことがやっぱり変わってたよ。なにか気になるの?」

 彼方は眉間に皺をつくった。

「ああ。俺のことなんだけど……なんだか、最近誰かにずっと見られているような気がするんだ」

「声が聴こえるからそんな気がするんじゃなくて?」

「そうかもしれない。でもそれともちょっと違う感じが……」

 そこで、下のほうで足音がした。見ると、知らない男子生徒二人がこちらをのぞき込んでいた。彼らはいやらしそうに笑うと、『ひゅ~』と言っていなくなった。

 彼方を見ると、真っ赤だった。そんな彼をみていると、自分までもが恥ずかしくなってくる。彼方はまだ雪乃のことが好きだというのだろうか。自分がどういう態度でいればいいのか、誰か教えてほしいと思った。

 教室に戻ると、授業が始まった。ここ最近はいつもだが、教師の声はろくに耳に入らない。一年前、しのぶは死んだ。そのときのことは、一生忘れないだろう。だがどうしてしのぶがあんなことを言ったのか、それは今でもわからない。


 雪乃は彼方と部室に二人でいた。口数は極端に少なく、ほとんどが無言で過ごされた。挨拶以外は一言も喋らない日もあった。二人は、しのぶが余命を宣告されたことにうちのめされているのだった。

 彼方はその頃、常に青白い顔をしていて、ちゃんと食事をとっているのか心配になるほどだった。だが雪乃の中の、心配のほとんどがしのぶに向けて使われた。話すこともないのに、毎日部室に二人が集まるのは不自然に見えただろう。今思うと、自分は誰かに慰めてもらいたかったのだ。しかし、一番苦しいのはしのぶなのに、そんなことを思うこと自体が裏切りのようであり、意識から遠ざけていたのだった。彼方はどうだったのだろうか。やはり、雪乃と同じだったのか。そのことに気を回している余裕は、その時の雪乃にはなかった。

 雪乃は一人でしのぶの見舞いに行った。病院の清潔な白が眩しく、しのぶもこの中にいれば死ぬことはないのではないかと錯覚させるほどに、よさそうな病院だった。

 廊下を抜けて病室へ行く。しのぶは個室だった。ドアを開けると、しのぶはベッドに寝転んで本を読んでいた。そこから目を上げ『よう!』と陽気に言った。

 彼女は本当に明るかった。死の淵にいるにもかかわらず、ほとんど普段と変わらないようにきさくで、逆にこちらが勇気付けられるような、転倒した気分にさせられた。しかし彼女は確実にやつれてきており、それに気づく度に胸が苦しくなった。

 しのぶは本を白いテーブルに置いた。見ると、三島由紀夫だった。

『学校どうよ』

 興味津々といった感じで彼女はみんなの様子を聞きたがった。雪乃はそれを話すことで自分が彼女を助けているような気になって、その時だけは少しだけ気分が上向いた。しのぶは終止元気で、病気など吹き飛ばしてしまうかのようだったが、そんな彼女を前に笑顔を心がけながらも、そんなに気を使わないで、無理しないで、と心の中で叫ぶ日々を送っていた。彼女の振る舞いが、明るさに死を連想させるような刷り込みを与えることになった。その頃は、人の笑顔を見るたびに、しのぶを思い出すようになっていたのだ。

 会話がぷつりと途切れ、窓から入り込む風が沈黙を運んできた。雪乃は果物を切ってやろうとバスケットに手を伸ばす。

しのぶは、表情を変えず、窓の外を見た。そして言う。

『あたしが死んでもさ、生きてたことには違いないよね』

 泣きそうになった。鼻の根が痛んだ。

『そんなこと言わないで……』

 しのぶは微笑む。穏やかな顔だった。

『あたしはさ、知ってたんだ。長く生きられないこと、ずっと子供の頃から知ってた』

 それを聞いて、雪乃は驚いた。知っていて普段からああやって人に接していたのだと考えると、彼女の精神力はなにかを超越しているように思えた。しのぶの達観は、どれほどの人間に影響を与えたのだろうか。

『大阪に住んでたことがあるんだけど、その頃ね、親が話してるのを聞いちゃったんだよ。おかしいとは思ってた。いっつも病院通いだったからね』

 それほどの長い時間、しのぶは死に向かい合って生きてきたのだ。いつだってしのぶは暗い感情を少しも見せなかった。こんなことをなにげないようなしのぶの口調で聞いていると、自分はいったいなんで生きているのだろうと考えてしまう。

『あたしはさ、もう死ぬのなんて覚悟してたんだよ、とっくに。だからそんな顔しないでよ』

 気を使われている。どうして私はこんなに駄目なんだろう。

『それにさ、考えてることがあるんだ』

『……なに?』

『あたしは生まれ変わるよ。生まれ変わってみせる』

 しのぶはにかっと笑う。いつも誰かの生まれ変わりだと言って、彼方を辟易させていた。それには、意味があったのだった。

『又会うぜ。きっと会う。滝の下で』

 なにかのセリフだろうか。

『雪乃、あたしね、あんたに憧れてたんだよ』

 雪乃は黙った。なにをいっているのだろう。私に憧れていたって?

『う、嘘……』

『嘘じゃないよ。雪乃、あんたはね、天才だよ。ただの優等生なんじゃなくてね。あんたは誰とも違う。誰もあんたを操ることなんかできない。だからそんなに悩まなくてもいいんだよ』

 胸から暖かいものがせり上がってきた。しのぶは雪乃の悩みをとっくに見抜いていたのだった。憧れていたのは雪乃の方だ。しのぶのようになりたいといつも思っていた。彼女が自分に憧れていたなど、想像もできない。しのぶの気持ちの一番暖かい部分が垣間見えた気がして、その言葉は鮮烈に記憶に刻み込まれた。

 しのぶはその後いつものように馬鹿なことを言っては、雪乃を笑わせようとしていた。絶望は見えなかった。それは雪乃にとっても救いだった。

 だが雪乃が帰る寸前で、しのぶがなにげなく口にしたことの輪郭はくっきりしていた。

『彼方はこないのかな』

 雪乃は病室を出た。

 彼方はなかなか病室に来ないらしかった。来ても他の人と一緒で、口数は少なく、以前のような話はしていないのだという。雪乃には怒りに近いものがふつふつと沸き上がって来た。

 雪乃は部室へ行く。ドアを強く開けると、中の彼方が驚いたような顔をした。

『桜庭、どうし……』

『ねえ、なんで行ってあげないの?』

 彼方は雪乃に威圧されているようだった。自分の顔は恐かったかもしれないと思う。

『行くって……』

『わかってるでしょ!しのぶのところにどうして行かないの?』

『それは……』

 雪乃は今になって、この時のことを反省している。彼方は日々弱っていくしのぶを見ていられなかったのだろう。彼は幼馴染だ。長い時間を一緒に過ごしたからこそ、しのぶが変わってしまうのが耐えられなかったのだ。だが後悔はしていない。彼方はやはり会いに行くべきだったのだから。

『行ってあげて。会いたがってるよ。彼方くんに一番会いたいんだよ』

 言いながら、ついに雪乃は泣き出してしまった。熱い雫が次から次へと流れ出てきて、視界が淡く曇った。鼻水をすすると喉がヒクついた。

『あなたが行かないでどうしてしのぶは死んでいけるの?しのぶ言ってたよ。絶対に生き返ってみせるって。それは死んでもあなたに会いたいからじゃないの?あなたと映画の話をしたいからじゃないの?お願いだから行ってあげて。お願いだから……』

『わかった、わかったよ。行くから。泣かないでくれ』

 彼方は見たこともないくらい弱々しかった。

『わかってる。行くのが、俺の義務だよな』

 頭に血が上る。

『義務?しのぶと会うのが義務だっていうの!なに、それ!』

『違う、違うんだ桜庭……』

 雪は体をそむけ、部室から出た。彼方が追ってくるが、ドアをそのままばたん!と閉めて、歩き去った。

 雪乃は腹が立って仕方がなかった。自分だってしのぶに学校の話をすることに義務感を覚えているくせに。彼方が鏡になって、許されない自分の醜さが反射していた。雪乃は自分に腹を立てていたのだ。

 それからいつもの通りしのぶの見舞いに行った時のことだった。

 ここであったことが、すべての運命を決めたのかもしれない。

 しのぶの様子がいつもと違っていた。よりやつれた顔で、目が充血し、どこか鬼気迫るようで、雪乃は狼狽した。

『ど、どうしたの、しのぶ』

 しのぶはしばらく雪乃を睨みつけると、凄まじい気迫で、雪乃の腕を掴んだ。

『雪乃。聞いて』

 そのようなしのぶは見たことがなかった。荒く息をつき、正常な判断力があるかも怪しかった。ナースコールに目を走らせるが、しのぶは『駄目!』と言った。

『聞いてくれよ、頼む』

 懇願だった。彼女の慌てふためくような動揺が雪乃にも伝染してきて、怯えが生まれていた。

『どうしたの、どうしたのしのぶ』

 突き上げてくるような焦燥があった。どうしよう、どうしよう。雪乃は怖かった。

『遺言があるんだ』

『遺言……?そんなこと言わないでよ……』

 初めてしのぶの前で泣いてしまうかもしれないと思った。変わり果てたしのぶが見ていられなかった。

『聞いて。雪乃にしか頼めないんだよ』

『わかったよ……。言って』

 腕を掴む手に力がこもった。

『雪乃、彼方と付き合って』

 自分の耳を疑った。『え?』

『あたしが死んだら、あいつと付き合ってあげて。頼むよ。後生だ』

『そんなこと……どうして……』

『約束して。絶対に付き合ってよ。約束だから。約束だから!』しのぶの声は強くなっていった。『そうじゃないとあいつが壊れてしまう!だから約束してよ、ねえ!付き合ってくれないと――絶好だから!』

 そこまで言うと、しのぶは大きく息を吸い込んだ。それから徐々に落ち着いていく。手から力が抜けていき、それを離した。雪乃はなにも考えられなかった。思考と思考が上手く繋がらず、しのぶの言っていることの意味を理解することができなかった。どうしてそんなことを……。しのぶは完全に息を整えて、きまり悪そうに座りなおそうとする。

 その時だった。

 ドアの前で靴がすれる音がした。雪乃は自分が、何故それが誰のものであるのかを感じ取れたのか、今でもわからなからない。

 雪乃は咄嗟にドアを開けた。すると、人が走っていく音がした。

 病室を出ると、彼方の後ろ姿が見えた。

雪乃は後を追って走る。人とぶつからないように注意できる自信はなかったが、なんとか間をかいくぐっていった。彼方はエレベーターに乗り、ドアを閉めた。

『待って!』

 雪乃は階段を降りていった。だが途中で足がもつれて転んでしまい、看護師に助け起こされると、その手をはねのけて、窓の外を見た。すると、表玄関から出た彼方が走り去っていくのが見えた。

 病室に戻った。しのぶは蒼白の顔をしていた。

『彼方だったの?』

 雪乃の様子を見て、悟ったらしかった。平静を取り戻したしのぶは、深く深くため息をつき、一言つぶやいた。

『聞かれちゃったか』

 かつてないほど、悲しそうだった。

 それから短い月日が流れ、しのぶは死んだ。葬儀に参列しているとき、雪乃はただ呆然とすることしかできず、涙が流れてこなかった。彼方の姿が見えたが、彼も周りが見えていないようにふらついていた。学校の友達はみな泣いていた。大量の黒い服の大人たちも、辺りをはばからず泣いていた。一也も、ひっくひっくと嗚咽を漏らし、彼女との別れを惜しんでいた。華やいだような人が死ぬと、現実そのものに穴を穿つような、大きな結果が現れるのだと、雪乃は一人で学んでいた。虚しい学習だった。

 大きく引き伸ばされたしのぶの写真はやはり笑っていた。『みんなあたしが死んだくらいで泣くなよ』と言っているようだった。

 世界がすべて変わってしまったように思えた。しのぶのいない世界は世界ではない。その時の雪乃はそうとしか考えられなかった。取り残された者たちはその場に立ちすくみ、なんの導きのないままでいる。歩き出すまで、時間しか慰めることはできない。誰もいなくなってしまったも同然なのだから。

 雪乃は何日ぶりかで部室へ行くことにした。鍵を開けて中に入る。

 部室は綺麗になっていた。それは、私物のほとんどが取り除かれているからだった。よく見ると、彼方の私物もなくなっていて、そこにあるのは自分のものだけだった。からっぽの部室は、雪乃の心のようだった。

 雪乃は泣き崩れた。もうあの日々は帰ってこない。しのぶはもう笑わないし、叱ってもくれない。映画の話をしているときの楽しそうな彼女が目に浮かび、液体に溶け込んで下っていった。

 それから彼方は雪乃から離れていった。しのぶを失った悲しみと、彼女にかけられた情けによって傷つけられた彼のプライドがそうさせたのだろう。雪乃は、しのぶは彼方のことを好きなのだと思っていた。にもかかわらず、雪乃に彼と付き合えと勧めた。彼女はどういうつもりであんなことを言ったのだろうか。自分が死ぬから、せめて二人が一緒になってほしいと思ったのだろうか。そんなの、悲しすぎる。だがどちらにしろ、彼女の思いはついえた。彼方が離れていったのには、雪乃への気遣いもあっただろうと思われる。雪乃がしのぶの意思を尊重し、彼方と付き合おうとするかもしれないと。彼方はそんなことを自分に許すような人間ではなかった。

もう誰にも、雪乃と彼方との距離には干渉できないのかもしれない。


「桜庭。これ解いてみろ」

 教師に指名され、我に返る。黒板まで行って問題を解きながら、今までしのぶの死を考えないようにしていたのだと気づいた。悲しすぎるから、振り返らない。卑怯さにいらついた。雪乃でさえここまでに悩まされるのだから、彼方はいっそう辛い思いをしたに違いない。彼の暗さに加えられたさらなる暗さが、今の精神に巣食っているのだと思うと、いたたまれなくなった。彼は、しっかりとお別れを言えたのだろうか。思い残すことなく、しのぶと最後の時を過ごすことができたのだろうか。

 昨日見たしのぶを思い出す。彼女はなにを言いたいのだろう。なにかを、言い残したのだろうか。

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