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 自宅の勉強机で数学をやっていたが、とても集中できる精神状態ではなかった。教科書を閉じて、窓の外を見ると、月が闇夜を照らし、怪しい町並みを作り出していた。自分の部屋がさながら結界のように思われ、ここから出ると現実が始まるのだと憂鬱な気持ちになった。

 チリン、と鈴の音が鳴った。猫のニアが、勉強を終えたのを察したのか、ベッドから飛び降りて雪乃の膝の上に乗ってきた。顎の下をかいてやると気持ちよさそうに目を瞑り、人の気も知らないでと思いながら雪乃は笑った。

 謎は依然としてなにも解決していなかった。コートを着込んだ蜘蛛男は誰なのか、あの旧日本兵は何者なのか、そして彼方に聴こえてくる声の正体はいったい何なのか。考えれば考えるほどわからなくなってくるので、その点は彼に任せた方がいいかもしれないと思う。なら、自分にできることは一体なんなのだろう。

 ニアが膝から降りてまたベッドに戻った。

 雪乃を彼方が助けてくれたのは嬉しいし、感謝もしているが、何故彼なのだろうかという疑問もわいて来る。むしろ、逆なのかもしれない。何故自分が彼方の声の中心になっているのかという方が、適切なのだろうか。

 彼方と自分の関係。それがいつ始まったことなのかは、今でもはっきりと思い出すことができる。でもその後自分たちになにがあっただろうか。自分と彼はどういう会話をしていただろうか。

 あれはまだ中学生の頃。しのぶの部屋であったことだった。


 外は風が強く吹き荒れていた。嵐が来るのかもしれない。

『大丈夫かなあ』

 しのぶは外を見てつぶやいた。雪乃は曖昧に返事をしながら、出された麦茶を一口含んで飲み下した。

 雪乃はしのぶの家に来ていた。マンションの七階にあるしのぶの家は、ブルジョアを思わせるような豪勢さがあり、彼女の部屋も広々としていて生活感.が希薄だった。巨大な棚には大量のDVDが並べられていて、ロフトの下には専用の脚立が保管されていた。絨毯はいかにも値が張りそうにふかふかとして、大きなテレビとスピーカーを置いてもなおスペースが広く余っていた。小さな冷蔵庫があるが、一般家庭用のものを置けるくらいに物が少ない部屋だった。多くのゲーム機だけが無駄に場所をとっているように見えた。

 中央のガラス張りのテーブルでしのぶと学校であったことを話していた。彼女とは中学で知り合い、会ったその日から馬が合って誰よりも親しい友達になった。中学のその時期は始めてのことが山積みで、責任と自制が押し付けられる一方で、新しい世界が開けるような爽快さがあり、話題は尽きることなく湧いて出た。

 快活なしのぶだったが、他の友達と違ってその悪口に嫌味がなかった。むしろ悪口ばかり言っているからこそそれが基準になり、欠点を挙げることで逆にその人の評価がそこから転落しなくなるので、言われた方も文句を並べる一方でどこかほっとするのだった。雪乃も婆くさいとか、つまらないとか散々いわれたが、そのおかげで多少の中傷には動じなくなったというか、肩の荷がおりるような気がしていた。当のしのぶも、たまに反撃されては怒っていたが、楽しく怒っていた。おそらく彼女なら何をやっても人に好感を与えるのではないかと思われるような、そんな稀に見る女の子だった。誰とでも仲良くなれたし、誰とでも喧嘩ができた。

 常に人の中心にいて、人気者といっていいしのぶだったが、男の子から告白されるということはなかったらしい。だがそれは、男の子の方が、自分が彼女を好きなことに気がついていないだけであって、実際彼女は多くの男子を魅了していたのだと思う。中学生の男の子はどこか素直ではなく、しのぶのような活発な女の子を好きになっては負けであると考えるような、妙なこだわりがある気がする。男の子はこの時期から見えないなにかと勝負し始めるのだろう。実際、高校生になってからしのぶは急にモテ出した。それはしのぶが変わったのではなく、男の子の方が自分に目覚めたのだ。しのぶはいつもしのぶだった。

 話の途中で、しのぶが思い出したように言った。

『そういえばさ、雪乃に会わせたいやつがいるんだよ』

『会わせたい人?違う学校の人?』

『いや、同じだよ。組は遠いけどさ』

 雪乃の通っている中学は生徒数が多いので、顔も見たことがない生徒がたくさんいた。部活動もやっていないし、交流の場がなかったというのもあるだろう。

『どうして?どんな人?』

『いやまあ……とにかく会ってみてよ。名前は栗島彼方っていうんだ』

『彼方ちゃん?かわいい名前だね』

 初対面の人と話すことは得意とはいえなかったが、嫌いでもなかった。どんな人なんだろうと思いをはせながら、会話を再開し、時間をつぶした。

 十五分くらいすると、人が来たようだった。母親の声が呼び、しのぶは『待ってて』と言って部屋を出て行った。しばらくすると足音が聞こえてくる。どきどきしながらドアの方を見つめた。

 扉が開き、しのぶが入ってきた。

『ほら、入りなよ』

 栗島という人はためらっているらしかった。人見知りするタイプなのだろうかと考えていると、ようやく姿を現す。

 雪乃ははっとした。その人は軽く会釈をした。女の子とばかり思っていたのに、それは男だった。背は高めで、落ち着いた雰囲気のある人だった。しのぶを見ると、彼女は目をそらした。雪乃は腰を浮かせて言った。

『あの、はじめまして。桜庭雪乃です』

 男はぼそぼそと応える。

『どうも。栗島彼方です』

『何、ぷー、お見合いみたーい』

 しのぶははやし立てるようにしたが、雪乃と彼方が見ると、黙った。

 三人で席につく。本当にお見合いみたいだった。しのぶをきっと睨むと、彼女は言う。

『ほら、何か話題ないの?趣味とかさ』

 しのぶは彼方を見た。

『趣味……映画鑑賞かな』

 彼方はこちらに目を合わせないで言った。

『私も、映画好きだよ』

 しのぶはぱん、と手を叩いた。『よっしゃあ、共通の話題発見。トーク開始!』

 彼女は完全に楽しんでいた。にやにやしているのがうらめしかった。

『どんな映画が好きなの?』

 仕方なく雪乃が切り出した。

『うん。『ライフ・イズ・ビューティフル』とか』

『ああ、あれ。私も好きだよ』

 何とか会話が繋がった。『どこがよかった?』『やっぱり悲惨な状況でも明るさを失わないところとか』などと続いていく。

 話していると、彼が感じのいい人だということがわかった。最初の印象は無愛想だったが、それは緊張していたからそう見えただけらしい。話は要領が良くて、こちらに気を使う様子も見せた。

 雪乃は気になって尋ねてみる。

『ねえ、二人はどういう関係なの?なんの知り合い?』

 しのぶと彼方は顔を見合わせた。しのぶが応える。

『どういう関係っていってもねえ。無駄に付き合いが長いだけでよくわかんないな。幼馴染って感じかな』

『幼馴染?うーん』彼方は首をひねる。

『漫画みたいなのとは全然違うけどね』

 ドアがノックされた。しのぶが応じると、彼女の母親が麦茶と彼方用のコップを盆に乗せて入ってきた。それを置いて『ゆっくりしていってね』という言葉を残して去っていく。

 雪乃は二人を見比べてみた。幼馴染か。しのぶはそんな者がいることなんて一言もいっていなかった。だが彼女ならば小学校のころから人気者だっただろうから、男子の友達がたくさんいても不思議ではなく、たくさんいるからこそ話さなかったのかもしれないと思った。

 しのぶが麦茶をぐいとあおった。すると、彼方がフキンを持ってテーブルに残ったコップの水滴をさっと拭った。

『そういえばあんたさ、この前貸したDVD返せよ』しのぶが言う。

『いや返しただろう。一昨日学校で』

『そんなこと言って、本当はなくしたんだろ?弁償。千円な』

 嘘をついているのはしのぶなのだろう。この時はまだ長い付き合いではなかったが十分に察することができた。するとまたしのぶが麦茶をあおる。彼方はまたテーブルをさっと拭いた。

この二人は見るからに気安い。彼方が大雑把なしのぶに世話を焼いているのも、どこか立ち入ることがためらわれるような、独特な二人の世界のたまもののように思えた。本当に仲がいいんだな、と雪乃は微笑ましく思った。

『ねえ、二人ってどうやって知り合ったの?』

『ああ、学校は違ったんだけどね』彼方は言う。『ばったり出くわしたというか。それが運のつきかな』

『どういう意味じゃい』しのぶは彼方の手を掴み、テーブルにあったペンを人差し指と中指の間に差し入れて、その二つの指を握った。

『痛てて!痛い!本当に痛いからそれ』

『うりうり』

 雪乃は笑って見ていた。『どこで会ったの?』

『小学校二年の夏休みだったな。俺は毎日のように通ってる映画館に一人で行ったんだ』

『二年生で、一人で?』

『うん、まあ。いつものことだよ。何回も見てる映画なんだけど、その日も見てた。マイナーなやつで、俺もあんまり意味はわからなかったんだけど、映像の雰囲気とかが、なんだか好きだったんだ。そうしたら、同年代くらいの女の子がいるのがわかった。その子も一人で来てて、珍しいと思った。映画が終わって外に出たら、そいつが俺の前に立ちはだかって言ったんだ。『帰さない』って。恥ずかしい話、小さい女の子なのになんだか怖かったんだよ。馬鹿だから、ヒットマンかもしれないとか思った。映画の見すぎだな。それがしのぶだった』

『こっちとしても珍しかったからね。気になったんだよ』

『話してみると結構話せるやつでさ。あのときは盛り上がったな。学校は違うって言ってたけど、話し足りなかった』

『こいつの家雪乃んちに近いんじゃなかったかな。ここまで来れるから、学校が終わったあとによく二人で、この部屋で映画を見てたよな』

『馬鹿みたいに映画ばっかり見てたな。大人の映画なのに。その頃からこの部屋には映画のDVDがたくさんあったから、始めて来た時は感動した。これを全部見てやるって燃えたよ』

 過去をなつかしむ二人の様子が、うらやましくて、少し疎外感を覚えた。

『そうだ、あんたまだ日記つけてる?あの隠してるやつ』

『つけてるよ。俺が小学生の頃から、その日あったこととか見た映画の感想とか書いてるんだ。いつか役に立つかもしれないと思ってね』

 几帳面な性格なのだと思った。

『今度見せろよ』しのぶが言う。

『やだよ。お前こそ何か書いてただろう』

『あたしは見せてもいいぜー。あんたみたいに女々しくないから』

 そういってしのぶは立ち上がった。クローゼットの方に歩いていき、開けて中をごそごそと探り出した。『これこれ』彼女は分厚いコピー用紙の束を二つ手に持って戻って来て、テーブルにどしりと置いた。

『これ、何?』雪乃は尋ねた。

『見た映画の感想。彼方と同じだよ』

 一枚手にとってみると、紙を縦に使い、横書きで細かい文字がびっしりと印刷されていた。上に大きく題名が書かれ、下に簡単なあらすじと感想が続いている。

『お前にしてはマメだな』

『うるせ』

 しのぶはなにやら腕を組んで、紙を眺めていた。その表情は仏頂面だったが、それが彼女がなにかをたくらんでいる時の表情なのだと雪乃は気づいた。彼方も気づいたらしく、しのぶをじっと見ていた。

 おもむろに、しのぶは立ち上がった。そしてよし、と声を出すと『彼方、窓開けてよ』といった。

『なんで。風強いぞ』

『いいから』

 窓が開けられると、勢いよく風が吹き込んできた。するとしのぶはコピー用紙の束をすべてわしづかみにして、近づいていった。雪乃と彼方もわけがわからないままそちらへ歩いていく。しのぶは紙をまた睨みつけるようにする。

 彼女の目が光った。しのぶはいきなり助走をつけて窓まで走って行き、持っていた紙の束を外に放り投げた。

『あっ!』

 雪乃と彼方は声を発した。コピー用紙を空中でばらばらになり、花びらのごとく空をさまよい始めた。じきに強風がそれらをあおり、はじけるようにして四散していく。風を形どった粒子の蛇が、うなりながら街の上空を踊り、そのまま遠ざかっていった。

『何してんだよ、お前』

 彼方が詰め寄る、しのぶは何でもないように答える。

『あの紙をさ、拾った人が読んだら、映画に興味を持つかもしれないじゃん。あたしは種をまいたんだよ』

 しのぶの望みを聞いて、雪乃ははっとした。この普段と違う謎めいた表情は、しのぶの、誰かと価値観を共有したいという強い願いによるものらしい。彼方に初めに話しかけたのも、そのためなのだ。明るいしのぶの心の底にある、得体の知れない欲求が、明確な形を伴ってそこに出現したようで、彼女の新たな一面を見た気がした。

『二人とも』

 しのぶは雪乃と彼方を見た。謎のように微笑む。

『映画研究会、やろうぜ。三人で』

 だしぬけだった。だがなぜか、初めから決まっていたことかのように、その言葉が雪乃の中にすんなりと入ってくるような気がした。

『いいな。やろう』

 彼方はそう言った。彼はわくわくする気持ちを隠せないような目で、しのぶの後ろの空を見ていた。

『私も、いいよ』

 自然に、雪乃の口から出た。だがそれは自分の意思に反しているというより、本当の望みが胸から漏れ出たといった方がよかった。映画研究会。その響きは、親しかった。

 しのぶはにっこりと笑った。

 それからしのぶは映画研究会の申請届けを提出したが、人数が少ないので承認されることはなかった。しかし、部費は出せないが、部屋は余っているので部室の提供は許可された。それからいよいよ映画研究会が発足することになった。

 勢いで研究会をやることを承諾したものの、実際そこでなにをやるのかは正確に把握しているわけではなかった。しのぶに聞いても『中高生は怪しげな部活に怪しげな部室でしょ』とよくわからない返答をされるだけだった。漫画やアニメに影響されていたのだろうか。

 部室棟は高校と共有で、大きい。部屋には大きめの机を二つ持ち込み、それを合わせてとりあえず部室の体裁が整った。プラスチックの書類棚をホームセンターで買ってきて、その中に映画に関するものを適当に放り込んだ。予算がないので部室にあるものはすべて私物だったが、物が増えるにしたがって徐々に映画研究会らしく変貌していった。

 彼方はカメラを買った。フルハイビジョンのデジタルビデオカメラで、ネットオークションで安く手に入ったのだとか。それを使って何をするのかは決まっていなかったが、彼方は何かにつけてとりあえずカメラを回して、活動の記録をとった。その映像を見て『私ってこんな声?』などとはしゃいでは、放課後の時間を過ごしていった。

 しのぶはこういう日常に満足しているらしく、いつも機嫌がよさそうにしていた。彼女にとって映画とはどれくらいの価値があるのだろう。映画研究会を作るということは、前から計画していたのだろうか。

 彼女と付き合いが始まってから、たしかに映画の話をよくした。しかし彼女は雪乃以外がいるときはその話題をまったく出さず、怪訝に思った記憶がある。

 しのぶと彼方は、部室で将棋をさしていた。映画とまったく関係ないが、それでもゆったりとした時間が心を穏やかにさせてくれて、雪乃に文句はなかった。しのぶも、こういう生活に憧れていたのではないだろうか。

 頭を抱えているしのぶを見ながら、彼女とこれほどまでに仲良くなれたのは何故だろうと考える。しのぶは誰とでも親しくなれるのだから、その理由は雪乃の方にあるのだと思った。

 自分の日常を省みてみる。それまでの人生は、雪乃にとってあまり自慢できるようなものではなかった。雪乃は、自分がどういう人間なのかはかりかねていた。自分はいったい何をしたくて、何をしたくないのだろう。小さい頃から、親が決めた習い事をいわれるがままにこなしてきた。人のいうことにただしたがっては、ある人たちがいうことが矛盾しているとひどく混乱して、ベッドの中で一人悶々としていた。雪乃はそんな自分が嫌いだった。人と違っていることが辛くてたまらず、かといって人と同じことをしていることも情けなく思った。この疑問をどうやったら払拭できるのかと、そればかり考えていた。雪乃は精神的に孤独だった。

 そんな時、しのぶと出会って衝撃を受けた。なにからなにまで自分とは正反対の彼女に圧倒されて、しばらくは彼女のことばかりを考えて過ごした。しのぶはしのぶ以外の何者でもなく、にもかかわらずそれを重荷と感じているそぶりは一切見られなかった。楽しい場面ではより楽しく振舞い、気詰まりな場面では突拍子のない発言で一気に空気を変えた。こんな子がいるんだと、心が高揚した。雪乃はしのぶに憧れていたのかもしれない。しのぶのようになりたい、しのぶのように生きられたら。受験で悩む生徒が多い時期も、しのぶの将来は華やかにイメージできた。

『待った!』

 将棋盤を悔しそうに見つめてしのぶが言った。彼方はすぐさま答える。

『待ったなし』

『待ったなしなし!』

『待ったなしなしなし。観念しろ』

 しのぶは腕を組んでうなった。雪乃は将棋がわからなかったが、当然しのぶが不利な局面なのだろう。

『じゃあさ、彼方。じゃんけんしようぜ』

『お前が勝ったら待ってやるってことか?』

『そう』

『じゃあ俺が勝ったらどうするんだ?それを決めないとフェアじゃないだろう』

『意外と目ざといよな、あんた。いいよ。じゃあジュース奢ったる』

『よし、わかった』

 しのぶは手と手を組み合わせてねじり、その隙間を覗き込むポーズをした。どうなるのだろうと雪乃は見ていた。

『じゃんけんをね、研究したんだよ』しのぶは自分自身に言うように語る。『人はさ、じゃんけんのとき、咄嗟にチョキは出しづらいんだそうな。それに、パーよりグーの方が出しやすい。だから最初はパーを出すのが、一番確率が高い』

『ふーん。でもそれを言ってしまったら意味ないんじゃないか?』

『あ』

 雪乃は笑いをこらえた。しのぶはぽかんとして彼方を見て、それから怒るようにした。

『いいんだよ!いいか、絶対あたしはパーを出すからな!』

『わかったわかった。早くしよう』

 しのぶは『よし』といってから、あらぬところに視線をさまよわせて、口笛を吹き出した。油断させようという作戦なのは見え見えだった。しばらくそうしていたかと思うと、いきなり拳を振り上げていった。

『はい、じゃんけんぽん!』

 しのぶは言ったとおりパーを出した。彼方はというと、チョキを出した。

『あー!』しのぶは叫ぶ。

 しのぶは少し沈黙してから、盤面を両手でぐしゃぐしゃにした。駒が将棋盤からぽろぽろと落ちる。

『何すんだよ。子供か』

『子供だもーん』

『でもジュースな』

『く……!』

 しのぶは歯軋りした。

 三人は何を話すともなく、そのままぼんやりと黙り込んだ。外で雀の鳴く声が聞こえた。のどかな日常風景が、そこにあった。

『あのさ』

 ふと、しのぶがいう。いつものなにかたくらんでいるような調子だったからか、彼方は渋い表情をした。しのぶはにたりと笑って言った。

『最悪な敵ってどういうものだと思う?』

『最悪な敵?それは将棋のってことか?』

『まあなんでもだよ。映画でもそうだけど。雪乃はどう思う?』

 しのぶはいつもこうやって議論をふっかけて、場を盛り上げようとする。慣れているので、雪乃は構えることはなかった。

『うーん。絶対勝てない敵かな。いたとしたらだけど』

『いい線いってるね』しのぶはいう。

『最悪、だろ?じゃあ戦いたくない相手じゃないか?家族とか、恋人とか』

『なんだよ二人とも。やるじゃん。そうだよ。絶対勝てなくて、戦いづらい相手。それが最悪の敵だね』

『抽象的だな。具体的にはどういうのだよ』

『へへん。わかんない?教えてやるよ』

 しのぶは眉をひそめて体を乗り出した。その姿に、つい期待してしまった。彼方もそんな様子だった。

『それはね……』

『早くいえよ』

『わかったよ。それはね、自分だよ』

 彼方はがっかりしたように息を吐いて、両手を頭の後ろに回し、背もたれに体重をあずけた。『なんだ。『自分との戦い』って感じか。よくあるやつだな』

『ちょっと違うんだよ』しのぶはぷんぷんと怒った。『本当に自分がもう一人いて、そいつと戦わなきゃいけなかったらどうなるかって話』

『どうなるかって、どうなるだろうな……』

『どうなるの?』

『それはね、なかなか決着がつかないわけだよ。相手は自分だから、お互いがなにからなにまで知ってる。相手がなにを考えているのか、どういう行動をするのかがわかってしまうから、行動ができない。武士がさ、向かい合って動けないっていうのがあるじゃん。先に動いた方が負けるってやつ。あれがずっと続くわけだよ』

『でもさ』彼方は反論する。『自分が自分のことをすべて知っているとは限らないんじゃないか。人から見たほうがよく見えることがあるっていうだろ』

『そんなことをいう人は、主観と客観の区別がついてないね』

『まあ、そうだけど……』

『これは主観の話だよ。それに、客観的な観察力だって同じなんだよ。同じものを見たら同じことを思うわけ。合わせ鏡みたいに幾何学的な感じになるんだよ』

『囚人のジレンマってやつに似てるな』

『そう。だから、そのままだと永遠に決着がつかない。負けることもないけど勝つこともない。だから最悪の敵ってわけ』

 雪乃は素直に感心した。しのぶは机にこぼれた王と玉の駒を拾い上げ、盤面に向かい合わせて立たせた。王と玉の戦いも、これに近いものなのだろうか。

『それに、さっき彼方がいったことも大事だよ。自分との戦いってやつ』

『自己言及か。心理的なものだろ?』

『そうだよ。実際に自分がもう一人いるっていうのはありえないけど、そのもう一人の自分を影だと考えると、現実味が出てくるよね』

『またユングか。中二病だな』

『中二で悪いか』

 しのぶは憤る。いかにも、しのぶたちは中学二年生だった。

『影って何?ユングって何?』雪乃は聞く。

『ユングは深層心理学者だよ』しのぶは言う。『パイオニアだね。人の無意識についてとかを考えた人だよ』

『集合的無意識とかな』

『うん、そう。影はもう一人の自分みたいなものだよ。でも普通はコンプレックスの中にあって、自分の中の嫌な部分を表しているような感じ』

 雪乃は頭が痛くなる。『コンプレックスって劣等感ってこと?』

『本当の意味とはそれと違うんだな、これが!説明しづらいんだけど、無意識の中に抑圧された自分、っていうものの総称かな。人はみんなコンプレックスを持っていて、それを克服することが人生の目的、ってユングは考えたんだよ、たしか』

『元型とかも考えたんだよな』彼方は助け舟を出す。

『そうそう』

『元型って何?』

『影も元型の一つだよ。無意識の中のもっと深い部分にあるのが集合的無意識ってやつなんだけど、そこにあるのが元型。誰にでも共通してる心理の雛形のことなんだけどさ、うーん、なんていえばいいんだろう。いろいろ種類があるんだ。影もそうだけど、ペルソナとか、アニマとかアニムスとか、太母とか老賢者とか、ユングはそういう名前をつけてる』

 それからしのぶは、それらをモチーフにしたゲームの話をした。彼女はゲームの話をよくした。なんでもペルソナや影を巡って戦っていく内容なのだとか。だがペルソナとか影のことがまだよくわからない。

『ペルソナは仮面ってこと。社会生活を送るためにはさ、自分を抑えて愛想良く振舞ったりしなきゃいけないじゃん。これを仮面って表現してるんだ。でもそうやって自分を抑圧しすぎると、精神が壊れちゃう』

『難しいね。人の心って』雪乃はいう。

『うん』しのぶは続ける。『ユングはね、人の心を両面から見つめた人だと思うんだよ』

『両面?』

『そう。人って二面性があるじゃん?真面目だと思ってた人が意外とシモネタが好きだったり、気の強そうな人が恋愛になると弱気になったり。そうことに理屈をつけていったんだ』

 彼方は言う。『桜庭。外向的とか、内向的って知ってるだろう?これもユングが考えた言葉なんだ』

『へえ』日常的に使う単語なだけに、なんだか不思議な気持ちになる。この言葉が存在しなかった時代があったなんて。

『そうなんだよねえ。ユングは人をタイプに分けたんだ。内向、外向だけじゃなくて、思考型、感情型、感覚型、直感型、とかね。でもそういうのは独立であるんじゃなくて、対になってるんだ。例えば思考型の性格の人は、無意識の中に感情的なものを持ってるんだよ。人には両面性があるけど、そのどちらかがその人だっていうんじゃなくて、そのどっちもその人の一部なんだ。考え深い人の中の感情的な部分だって、その人の性格なんだから。ユングはそうやって人の心を全体で捉えようとした。柔軟なんだよね。断定的じゃないあたりが、フロイトとの違いかな』

『へえ』

『わかってきた?ここで話が戻るんだけど、影っていうのはもう一人の自分なんだ。例えば父親と仲が悪いって人は、他人にそれを投影しては、その人を嫌いになってしまって人間関係が悪化したりする。でも、話してみると意外といいやつだったりして、自分の中の影が自我に統合される。気分がすっきりするって感じ』

『ジガ』

『そう。アニマとかアニムスっていうのもある。男の中に必ずある女っぽい部分がアニマで、その逆がアニムス。雪乃にもアニムスがあるんだぜ。へっへっへ』

 変な笑い方だ。なにを言いたいのだろう。自分の中に男が存在しているということは、あまり想像できない。そもそも、雪乃は男のことをよく知っているとはいえなかった。

『で、何の話だったっけ?』しのぶは素っ頓狂なことをいう。

『最悪の敵のことだろ』

『そうだよ』雪乃は言う。『もう一人の自分には絶対に勝てないのかな。勝つ方法はないのかな』

『勝つのは難しいよ。でも解決方法はある』しのぶは返事をする。

『なんだよ』

『簡単だよ。和解すること』

彼方はため息をつく。『それができれば苦労しないんじゃないのか』

『今いった影のことと同じだよ。意外といいやつだってわかれば、自我に統合されて人生が豊かになるのさ』

 しのぶは気取った。何となくユングの思想が雪乃にも理解できてきて、知的な興奮が少しずつわいて来た。しのぶの講義はわかりやすく、何かの本の受け売りだろうが、彼方もあまり反論しないほどに論理的だった。心について、そんな考え方があったのかと興味深かった。

『そうだ。クローンはどうだ?』彼方が言う。『クローンももう一人の自分じゃないのか。『シックス・デイ』って映画があったな』

 アーノルド・シュワルツネッガー主演のものだ。

『クローンは遺伝子が同じなだけで自分と同じではないだろ』

『そうか?同じだよ』

『同じじゃない』

『同じ』

『ばーか』

『お前がばーか』

 また始まった。二人の痴話喧嘩である。

『あたしがそうだといったらそうなんだよ。シュワルツネッガーの生まれ変わりなんだから』

『死んでねえって』

 彼方は呆れたようにした。しのぶは体を顔をそらせていじけたようにいう。

『あたしはね、誰かの偉人の生まれ変わりだって信じてるんだよ』

 だったらもう死んだ人を挙げればいいのに、と思った。彼方を見た。すると、どういうわけか彼の表情が大きく曇っているのがわかった。顔には陰が落ち、どんよりとした暗さが、雪乃を動揺させた。どうしたのだろう。彼は鷹揚に座りなおすと、語った。

『俺は信じるって言葉は嫌いだよ』

 思いもよらない発言だった。彼方だったら、何かを信じることに人一倍意義を感じていてもおかしくないのに。『どうして?』

『信じるっていうのは、それがたとえ間違いでも正しいって思い込むことだ。間違いは受け入れなければいけない。受け入れなければ前に進めない。だから俺は何も信じない。ちゃんと考えるよ』

 彼はうつむいて床を見つめていた。口を固く結び、頑なさが見て取れた。

 彼方の進歩性と論理性が、雪乃を新鮮な心地にした。自分の心の隙間にするりと入り込んでくるような、むずがゆくも気持ちのいい感じがあった。雪乃は彼のような考え方はできない。しのぶと同じように、雪乃に足りないものを彼が持っているのだと、この時初めて知った。

『くそ真面目だよな、あんた』

 しのぶの表情も、どこか暗いように見えた。様子が少しおかしい気がする。二人にしかわからないなにかがあるのだろうかと、不安になった。

『そうだよ。真面目だ。堅苦しすぎるってよく反感を買うよ。でも間違っているとは思わない』

 あれ、と思った。彼はいかにも意志の強さを強調しようとしているが、なんだか口調からして本当にそう確信しているとは思えなかった。どこか腑に落ちないような、心の引っかかりを覚えた。なにが気になっているのだろう。これからわかることではあるが、彼はこのように急に場面を深刻に変えるような態度をとることがよくあった。雪乃はそれを知らず、なにか嫌なことでもあったのだろうかと心配になった。

 すると、しのぶが言った。

『あたしは好きだけどね。あんたのそういうとこ』

 それを聞くと、彼方は口をつぐんで顔を紅潮させ、将棋盤を見た。

 この二人は惹かれあっている。雪乃はその時察した。

『欠点かもしれない。そうだな、欠点なんだろう。それはわかっているけど、やっぱり俺はなにも信じないよ』

 気分が変わったのか、彼は少々強くそういった。彼の人間としての奥行きが、中学二年生という幼さにもかかわらず、ちらついて見えた。感情の発露が、彼の行く末を暗示しているようだった。だが雪乃は急に迫ってくるものがあって、つい言ってしまった。

『でも、それ、辛くない?』

 彼方は答えなかった。

 あとでしのぶは雪乃にこういった。『あいつははっきりいってやらないとわからないんだよ。一人でうだうだと悩んでさ』

 しのぶの口調は、私だけは彼方のことをわかっていると自負しているかのようだった。それはうぬぼれではなく、ごく自然に発せられる気持ちであるらしかった。決して埋められない、彼らがすごした年月との差をまざまざと思い知らされて、うらやましいと思わなければならないところを、なぜか悲しく感じた。どうしてこんな気持ちになるのか、雪乃には見当がつかなかった。


 彼方の陰。それを思い出して、最近の出来事と照らし合わせていた。今の彼はどうだろう。妙な声が聴こえるという現象がもしなかったとしたら、彼はどういう振る舞いをしているのだろうか。

 時計を見ると、もう十一時を回っていた。こんなに長い間考え事をしていたのかと自分に驚いた。勉強用具をしまって、まだあいているカーテンを閉めようと窓際まで歩いていく。だがカーテンに手をかけたところで、その動きをとめた。

 街灯が照らす光の隅に、人影を見つけた。

 コートの男か、と一瞬身構えたが、違うようだった。その人は同じ高校の女子の制服を着ていた。こんな時間に何をしているのだろう。

 すると、女がこちらを見た。

 その瞬間、雪乃に衝撃が走った。顔は明かりをもろにかぶって、肌のきめまでがはっきりと見て取れた。

 まさか……嘘だ。

 雪乃は窓から離れた。これは罠だろうかと考える。あの蜘蛛男が見せている幻なのだろうか。不審だったが、どうしても雪乃は確かめずにはいられなくなった。行かなきゃ。

 雪乃は部屋を飛び出した。階段を駆け下りていく。一階の廊下に出ると、弟の一也と出くわした。

「どうしたの、姉ちゃん。顔真っ青だけど」

 雪乃は即座に一也の腕を掴んだ。

「一緒に来て。お願い」

「え、なに……」

 一也をつれて玄関を開けた。彼がいれば危険はないだろうと思ったが、それよりも、自分が見たことが夢ではないことを誰かに証明してもらいたいのだった。門を抜けて道路に出る。さっき見えた辺りに人がいた。

「あ……」

 雪乃は声が出せなかった。今自分が見ているものが信じられない。嘘だ。

 そこには、しのぶが立っていた。

 しのぶはまったくの無表情でこちらを見ている。時間が止まった。風は吹いていない。音も聞こえない。なにもかもが消滅した空間で、しのぶだけが浮かび上がっていた。

「し……のぶ……?」

 しのぶは黙っている。

「しのぶなの?ねえ、答えて!」

 彼女はなおも口を開かなかった。以前の明るさはなく、吹けば消えてしまいそうなほどに儚く思えた。

 しのぶは体の向きを変えた。そして、曲がり角まで行き、すっと姿を消す。

「待って!」

 雪乃は駆け出した。しのぶが曲がったところを曲がり、探した。

 しかし、その通りには誰もいなかった。

 消えた……。

 頭が真っ白になった。今見たことが現実とは思えない。どうしてしのぶが……。

「姉ちゃん……」

 一也が追いついてきた。

「今のしのぶさんだよね?そうだよね?」

 一也は懸命に雪乃に呼びかけた。自問しているようでもあった。

「うん……」

 雪乃はどうにか声を出した。

 鈍い頭を揺り動かしながら、部屋へと戻った。携帯電話が鳴っていた。それをなにも考えずに見ると、彼方からだった。もしかしたら、もっと前から鳴っていたのかもしれない。電話をとった。

『桜庭……』

「彼方くん……あの……」

『今のこと、聴こえたよ。本当なのか。本当に見たんだな?』

「うん、見た。見たよ」

 確かに見た。目頭が熱くなってくる。確かに見たのだ。彼女はあそこに確かにいた。一也もいたのだから、まぎれもない現実だ。しかしそれはまったく不可思議なことだった。

 だって、しのぶは一年前に死んでいるのだから。


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