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 放課後、雪乃と彼方は図書室の椅子に座り向かい合っていた。だが沈黙したまま長い時間が流れて、一年の空白の長さを今更ながらに思い知っていた。他に生徒はいない。話をするには絶好の機会なのに、と思った。

 と、彼方は急にそわそわし出した。誰もいないのに、図書室中を見回して、なにか警戒するかのようなそぶりを見せたので、雪乃は不安になってきた。

「どうしたの?何か見えた?」

「いや、なんでもない」

 彼方は雪乃に体を向けた。また沈黙が始まる。彼との関係は、以前もこうだったろうかと考えたが、記憶に上る限りではこれほどの気まずさはなかった気がする。雪乃はいつになく戸惑った。

「あのさ、桜庭は、どうして生徒会長に立候補しなかったの?」

 何の脈絡もなく、彼方はそう聞いた。これは大事な話をする前に、たわいもない話題を振るという彼方の癖だと思った。

「そんな器じゃないよ。私なんて」

 生徒会長になって責任を負うなどということは今の雪乃には考えられないことだった。もう大勢の人間に注目されることは嫌だと思った。期待と羨望と嫉妬の目が、束になって自分を追い立ててくることが、どれだけ心の負担になるのか、知っている人は多くないはずだ。

「でも、きみは優等生じゃないか」

「彼方くんだって……」

 彼方は品行法制で通っていて、自分よりもむしろ生徒会長にふさわしいように思えた。目立たないようでいながら、その人柄は宝石のように雑多な人々の中で光って見えた。だから、彼は意外と学校では有名だった。

 彼方は顔を伏せた。またこの態度だ。彼方が帰ってきたと思ったのに、またこういう関係に戻ってしまっていることが残念だった。でも仕方がない。彼にはそうしなければいけない感情の必然というものがあるのだろう。

 二人はぎくしゃくとして沈黙をまた続けた。だがさすがにこのままではここに来た意味がないと、雪乃は話を促す。

「ねえ、聞かせて。彼方くんに何が起こっているのか詳しく」

 彼方は顔を上げた。

「わかった」

 口を重たそうに開いた。

「聴こえてきたことを順を追って説明するよ。最初に聴こえた言葉は言ったよな。『この時から、栗島彼方は聴こえ始める』だよ。食堂でご飯を食べてたら、急に聴こえてきたんだ。焦ったよ。友達も一緒だったんだけど、そいつらには聴こえてないみたいだった。それから取り乱してしまって、人の肩を掴んでしまったり、屋上への扉を蹴ったり、酷いこともした。でもそのときはそれくらい動揺してたんだ。怖かった」

「仕方ないよ。そんなことがあったら、誰だって動揺するよ」

「そうかな。それから、どういうわけかぷっつりと声が聴こえなくなったんだ。でも安心できなかった。いつまた聴こえてくるのかって、気が気じゃなかったんだよ。それで、やっぱりまた聴こえてきた。でもその内容は思っていたのと違ってて、俺じゃなくてきみのことが描写され始めたんだ」

 あの最初に襲われた夜のことだろう。

「これも俺の妄想なのかって恥ずかしかったよ。どうしてきみのことばかりが描写されるんだろうって、自分の無意識を殴ってやりたい気分だった」

 雪乃は居心地が悪かった。彼の中で雪乃の存在はどれくらいの大きさを占めているのだろう。彼方は、顔を赤らめた。

「……その後のことは話したよね。これは妄想じゃなかった。事実がテレパシーで聴こえるんだ」

「うん。まだ信じられないくらい。ううん、信じてはいるけど……」

 彼方は遮った。

「わかってる。それから、きみと恵美っていう子の会話が始まって……内容は俺の噂だった」

 雪乃はどきりとした。そんなことまで聴こえているのか。

「それから、おかしなことなんだけど、きみが昔のことを思い出しているのが聴こえたんだ」

「昔?」

「そう。しのぶと蔵木屋に行ったときのことだよ」

「ああ……」

 そんなことを思い出した気がする。三人での思い出の中でも印象深いものだった。しかしそれよりも、そのことを彼方が『昔』と表現したことが気になった。彼にとって、あの日々がそこまで過去になっているということが、少しショックだった。

「あいつが、いつか映画を撮ろうっていったことも聴こえた」

 確かに思い出したと、雪乃はうなずいた。そこでみるみるうちに不安になっていく。彼はどこまで雪乃の心の中を知っているのだろうか。それを思うと、急激に顔が熱くなって、こめかみがしびれてくるような感覚を味わった。必死に頭を回転させて、あのときなにを思い出したのかを思い出そうとする。しのぶが下着を見せ付けたこと、じゃんけんでまた負けたこと、それに――。

 そうだ。あの後、しのぶが、彼方が雪乃を好きなのだといったことを思い出したのだった。顔がさらに熱くなる。しのぶがいうのだから、間違いである可能性は低く、ということは、彼方は彼が雪乃を好きなことを雪乃が知っていることを知っているのだろうか。いや、それはわからない。そのことは聴こえていないかもしれない。とはいえ、彼方の態度がおかしい原因の一端がそこにあるとすれば、信憑性が出てきてしまう。一年前の一件に加えてそれでは、彼もまいってしまうだろう。雪乃は彼とどう向き合えばいいのか困惑した。

 ちらりと彼方の顔を見ると、真っ赤になっていた。どうしたのだろう。彼はごまかすようにして咳払いした。

「どうしてそんなに前のことが聴こえてきたのかはわからない。きみの俺への疑いを俺に伝えるためだったのか……」

 彼方は、誰かが声を彼に聴かせているということを前提にして話している。たしかに、声の内容が無造作ではなく一種のまとまりを持っているとするならば、誰かの意思が介在しているに違いない。

「それから、きみが旧日本兵を見たことも聴こえたよ」

「ああ」

 あれはやはり幻ではなかったのだろうか。彼方に聴こえているのだから事実とも思えるが、雪乃が幻覚を見たことが聴こえてきたと解釈もできる。

「信じてくれる?旧日本兵が見えたなんて……」

 彼方は間を置いた。

「……俺には聴こえているんだ」

 彼はそれだけいった。今更、信じるも信じないもないかもしれないとも雪乃は思った。

「そして、きみが旧校舎で襲われているのが聴こえた」

 彼はそうして駆けつけてくれた。彼がいなかったら雪乃は今頃殺されていたことだろう。

「ねえ、彼方くんに、その声がどういうふうに聴こえているか、聞かせてくれる?声が聴こえるってどういう感じ?なんだか想像しづらいの」

「うん、そうだな。端的にいえば、小説の朗読みたいなものだよ。俺が何をしているのかにかかわりなく、突然聴こえてきて、前触れもなくぷっつりと聴こえなくなる。しばらく聴こえなくて、また聴こえ始める。文章と文章の間は長くあくこともあるし、すぐ続くこともあるね。聴こえるタイミングは、実際の状況と少し遅れているみたいだけど、だいたいリアルタイムらしい。声質は、女のものか男のものかはわからない。薄い膜がかかったみたいで、でもとにかく『声』であることは確かだ。人がしゃべったこともその声で遅れて聴こえてくる。俺がしゃべったこともね……。それと、周りがうるさくてもその声だけははっきりと聴こえるんだ。耳を塞いでも聴こえる」

 だんだんイメージできてきた。そんな状況になれば、取り乱しても仕方がないと思った。怖かっただろうに、それでも彼は雪乃を助けることを優先してくれたことが嬉しかった。

「でも、どうしてそんな声が聴こえるようになったんだろう」

「確かにいえるのは、きみが危険にあった時には二回とも聴こえてきたということだよ。いや、家の近くで付きまとってきたから、三回か。これはどういうことか……」

「危険を知らせているっていうこと?」

「きみを俺が助けるように声が仕向けているって?でも、だったら直接言えばいいじゃないか。『桜庭がいま危険だから助けに行くべきである』って。でもどうして小説みたいな形式なんだろう」

「理由があるんじゃないかな。なにかルールみたいなのがあって……」

「ルール?」

「わからないけど。その声は誰のものか、っていうのもあるけど、もしかしたら人じゃないのかもしれないし」

「人じゃないってどういうことだ?自然発生的な超常現象っていうこと?」

「ああ、でも、聴こえてくるのはまとまった文章なんだよね」

 二人は考え込んだ。今答えを出すことは不可能ではないかと思われる。

「とにかく、何かの『存在』が俺に声を聴かせていることは確かだ」

 意思を持った存在。いったいなんのために。

「それと、あのコートの男のことも気になるな。あいつはなんなんだろう?」

「あ。あの人が声を聴かせているとか?」

「それもありうるね。俺たちをいたぶって楽しんでいるのかな。そういう雰囲気があいつにはあった気がするから。きみはあいつに心当たりはないんだよね?」

「うん。彼方くんは?」

「俺もない。身長は俺と同じくらいかな。多分男なんだろうけど、女の可能性もなくはない。斧を振り回せるくらい力の強い女だけど……。それと、逆さづりになったり、常識では考えられない行動をする。蜘蛛男だね」

「旧日本兵の人と、同じなのかな」

「わからない。俺も顔は見えなかった。マスクをしていたし」

 蜘蛛男の不気味な威圧感を思い出すと、恐怖がぶりかえして来るようだった。そんな経験は早く忘れたいものだが、そうもいっていられない。また襲ってくるかもしれないのだから。もしかしたら、あいつは雪乃を最初から狙って行動しているのかもしれない。もしかしたらではなく、今までの様子からして、多分そうなのだろう。でもどうして?疑問はなくならないが、彼方が論理的な人でよかったと思った。考えがまとまって、すっきりとする。

「今まではたまたま俺が近くにいたからよかったけど、これからはそうはいかないかもしれない。きみは最大限に警戒すべきだよ。警察に相談しようか……いや、もう相談しているのか。でも学校まで入ってきたことを言えばもっと……」

「ううん、警察には言わないでおこう。彼方くんが変に疑われるかもしれない」

「きみがそう言うなら。でもきみは誰かと一緒に学校から帰った方がいい」

「お母さんに迎えに来てもらう」

「そうした方がいい。それと、外出はできるだけ控えるべきだね。一人で行動するのもやめなよ」

 それを聞いてから雪乃は、そこまでいうなら彼方が一緒にいてくれればいいのに、と身勝手に思った。彼にも生活があるのだから迷惑はかけられないが、それが一番安心できるように思う。

「わかった。じゃあ、できるだけそうする」

 自分の顔から血の気がひいたのがわかった。今自分は思ったことを口に出していない。まさか――。

「もしかして、今も聴こえてるの?」

 彼方は叱られた子供のようにしゅんとして下を見た。やはりそうなのだ。いつからだろう。そうだ、さっき彼はそわそわして周りを気にしていた。その時からか。話しているうちに、本当の会話なのか、聴こえてくる描写なのか混乱してつい心の声に反応してしまったのかもしれない。

 雪乃は、この場所で自分は何を考えただろう、失礼なことを考えただろうか、それを聴いて彼はどう思っただろうか、などということで頭がいっぱいになった。座っているのに貧血になったようだった。酷い気分だった。恥ずかしい!

「彼方くん」

 つい強い口調になってしまう。

「約束して。もし今度二人でいる時、声が聴こえたら私に言って。一言断って。恥ずかしいから……」

「わかった。ごめん。約束は守る。絶対に」

 彼方は真剣な調子で答えた。

 恥ずかしさは完全に消えはしなかったが、それでもひとまず安心した。誠実な彼方なら、約束は必ず守ってくれるだろうと信じることができる。しかしそんな彼をどうして自分は疑うことができたのだろうと、まだ雪乃は自分を許せない気持ちだった。

 話が終わると、二人は図書室から出た。今日は彼方が送ってくれるのだという。

 二人で歩きながら考えた。彼方には言わなかったが、この現象のある仮説が雪乃の中には存在している。それは、彼方が無意識的な超能力者なのではないかという推測だ。透視能力のようなものがあって、遠くで起こっていることが彼にはわかるが、意識には上らず、何らかの理由で小説のような声という形で能力が発現しているのだ。まるでSFだが、この際荒唐無稽と一蹴するのもためらわれるのである。

 これからどうなるのだろう。隣の彼方は遠くを見ていた。

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