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 日本史教師の堀田はいつもと変わらない授業を続けていたが、そのほとんどは聞いている余裕がなかった。昨日はよく眠れなかった。自分の身に何が起こっているのか、雪乃には結論を出すことができない。あの夜から、コートの男が誰かを傷つけたという情報はなく、まるであいつが雪乃だけを付けねらっているように思え、おぞましかった。しかし雪乃の頭の中を占めているのは、コートの男よりも彼方のことだった。

 彼が発狂したという噂が流れてから、彼の様子に変わったところはないと恵美に聞いた。やはり彼が狂ったという情報はなにかの間違いだったのだろうか。だがそれだけならまだしも、あの電話の件があるからこそ、雪乃の悩みは尽きないのだった。あの奇妙な言動はいったい何なのだろう。

 頭は煮立った魔女の釜のようにぐらぐらと、わけもわからずにかき回されていた。考えれば考えるほど自分が何を考えていたのかがわからなくなり、思考は初めにもどってまた煮立ち始める。

 これからどうすればいいのだろう。学校の帰りは母親に迎えに来てもらうことにしたが、それは彼女を危険に晒すことになりはしないだろうか。それならば、いっそしばらく学校を休んでしまおうか。そんなところまで考えた。

 根を詰めすぎだ。雪乃は人知れず深呼吸した。頭部の熱が冷めてくると、真ん中の列の、一番後ろの席から、教室の全体が見渡せた。熱心にノートを取っている生徒、ぼんやり外を眺めている生徒、机に突っ伏して眠っている生徒など、様々だ。授業は丁度満州事変の説明に入るところだった。

 この生徒たちにも悩みはあるに違いない。ただ、その質は雪乃のものとはまるで違うのだろう。成績が落ちてきた、部活の調子が上がらない、好きなあの子は自分をどう思っているだろうか。そんなことは、今の雪乃にはどうでもよかった。早く解放されたい。早く安心して生活を送りたい。そう思って窓に何気なく目を移した時だった。

 窓の外で何かが動いた。換気口のある辺りで、窓の下からごそごそと何かがうごめいているのが見える。周りを見ると、誰も気がついていないようだった。動物だろうか。中学生の頃は、山から鹿が降りてくることがごくたまにあった。注意していると、その影はさらに動き、徐々にその姿を現していく。

 雪乃は声を出しそうになった。

 その影は知らない男だった。こんなところでなにをしているのだ。

しかし注目すべきなのはその風貌だ。

 その男は軍人の服を着ていた。肩口や襟がぼろぼろになり、顔は真っ黒に汚れ、頬がこけてガリガリで、まるで今戦地から帰ってきたばかりのような凄惨な姿だった、。彼はそろそろと両手を持ち上げて骨ばった甲を見せ、指を開いてべたりと窓ガラスに乗せた。

 雪乃は周りを見た。彼らは誰一人男に気がついていないようだった。

「旧日本兵はフィリピンに出兵し……」

 堀田の声が悠長に響く。

 そう、この男は旧日本兵だ。布が垂れ、星がついた帽子をかぶり、淡い色の野戦服を着込んでいる。

 男と目が合った。心臓が直接殴られたように鼓動した。彼はこちらを見ている。薄い顔色でまるで死体のように体全体がうつろなのに、落ち窪んだ目元ではぎらぎらした瞳がこちらを射るようにしていた。

 窓の外を見ている男子が目に入った。しかし彼はまったく動揺も見せず、あたかも今日の昼食は何にしようか算段しているかのように平然としていた。

 自分だけに見えている?こんなに目立つのに!

 その場違いな旧日本兵はまだ雪乃を見ている。雪乃は彼から目が離せなくなった。自分の額から汗が一筋流れたのがわかったが、拭いはしなかった。瞬きをしたいのに、そうしてしまえばすべてが壊れてしまうような錯覚があった。

 どれほどそうしていたのかはわからない。ただ、それだけの時間誰も日本兵について指摘しなかったのは確かだ。この状況を打開するにはどうしたらいいのかはわからない。ただ時間が過ぎ去るのを待つのみだった。

 チャイムが鳴った。

「それじゃあ、ここは重要だからノートに取っておくように」

 生徒たちはがたがたと椅子を鳴らして立ち上がっていく。それを見計らうように、日本兵は少しずつ窓から遠ざかっていく。

 終わる。やっと終わる。

 日本兵は窓の影まで行き、姿を消した。

「桜庭、どうした?」

 堀田が言う。雪乃だけが座ったままだった。慌てて立ち上がる。

「なんでもありません」

 挨拶がなされ、授業は終わった。

 それからの雪乃は頭がぼうっとして、朦朧として過ごした。まるで夢の中にいるような浮遊感を覚えていた。自分はどうしてしまったのだろうと思った。

 昼休みに廊下を歩いていると、教師に呼び止められた。旧校舎にある書類が必要なのだが、とってきてくれないかという頼みだった。雪乃はいわれるがままに引き受けてしまったが、後になって後悔した。あの旧校舎へ行かなければならないなんて。

 あの旧日本兵はいったいなんだったのだろう。極めて異常な体験だったが、それが現実なのか幻だったのか、はっきりと言うことはできなかっので、あれは幻覚だったのだ、ちょっと疲れているのだと、とりあえず結論付けることにした。自分の見たものが夢かどうかも判断できないほど混乱し、疲弊している自分を感じてどうにもうすら寒い思いをした。

 靴を履いて旧校舎へ向かう。その姿が見えてくると、人気のないことがここまで建物を不気味にさせるのかと不思議に思った。壁のペンキははがれかけ、窓にはすべてにカーテンがかかっていた。

 渡された鍵を持って裏口まで行く。透明なはずのガラスまでもが陰気に映った。中に入るとすぐに立ち入り禁止の札とロープが張られていたので、それを乗り越えて進む。あたりは薄暗かった。カーテンの隙間から日光が入り込んでいるとはいえ、以前多くの生徒たちで活気付いていたとは思えないほど建物としての存在感がなかったが、それでも不気味さだけが取り残されたようにそこにあった。

 早く用事を済ませよう。

 早足で階段へと向かう。また立ち入り禁止のロープが張られている。それを超えて木製の階段に足を下ろすと、キイ、と高い音が鳴った。かまわず登っていき、『注意』という立て札がかかった階段の穴に注意しながら二階へと達する。

 そこで突然、脳の回路が繋がったかのように単純な考えが浮かぶ。

 あの日本兵はコートの男だったのでは?

 雪乃は首を振った。そんな恐ろしいことがあっていいはずがない。だって、あの男が学校に入り込んでいることになるじゃない!

 さらに歩くスピードを速め、資料室の前まで行く。ドアの窓から見える中はほとんど真っ暗だった。なにかが潜んでいそうな、そんな暗闇だった。ためらうと駄目になってしまうと、雪乃は一気にドアを開け放ち、ずかずかと入り込んで、カーテンを開けた。光が差すととりあえずほっとする。後ろのほうの棚まで歩き、引き出しを漁った。

 ――と、不意に頭に何かがぶつかった。

 雪乃は悲鳴を上げて飛び退る。

 よく床を見ると、それは棚の上から落ちてきたコピー用紙の束だった。

 驚かせないでよ。

 雪乃は捜索を再開し、ようやく目的の書類を発見した。どうしてこんなところに保管しておいたのだろう。その書類はアップルパイのように日に焼けて、かび臭い匂いがした。

 カーテンを閉めて、部屋を出ようとする。

 そこで、雪乃は気配を感じた。

 勢いよく振り返るが、なにもいない。そちらを気にしながら部屋を出る。ようやく終わったと胸をなでおろした。次に頼まれたときは断ろう。そう心に決めて階段の方に足を踏み出した。

 すると視界の片隅で、何かが動いた気がした。

 背筋がピンと張り、緊張が走った。この感覚は、あの日本兵を見たときに似ていた。動いた辺りを見ると、それはカーテンの隙間だった。縦に入った光の筋が、雪乃を手招きするようにこちらを見ていた。実際、吸い込まれるように雪乃はそちらへ足を踏み出した。

 この世のものではないものに体を操られているように、ふらふらと歩いていく。体中から汗が噴出しているようですごく熱かった。胸がどきどきする。内臓を圧迫するような恐ろしさが、窓に近づくにつれて大きくなっていった。たまらなく怖かったが、足が止まらない。光の筋は横になった大きな目のようで、それが危機の大きさを暗示しているかのようだった。

 いけない、そちらへ行ってはいけない。頭ではわかっていたが、体の自由はきかなかった。好奇心なのだろうか。違う。度を越した恐怖がそうさせているのだ。確かめなければ自分が自分でなくなってしまうほどの恐怖が、雪乃を支配していた。

 カーテンに手をかける。

 ごくりと唾を飲み込む。

 やるしかない。

 カーテンを握ってそのまま動かずに、自分の胸の底が躊躇を振り払うまで待った。こんなことをしてなんになるだろうと考えたが、それは所詮考えに過ぎず、感情の奴隷でしかなかった。

 雪乃は唇を噛んだ。

 今だ!

一気にカーテンを引いた――。

 ――そこには青空が広がるばかりだった。

遠くに緑が芽生え始めた山々が見える。よかった。やっぱり勘違いだったのだ。さっき見えたのは鳥か何かに違いない。ほっとしてなにげなく上を見上げた。

 いきなり、男の顔が降りてきた。

 男は逆さだった。そして、黒いコートを着ていた。目が合った。男はマスクをしている。にもかかわらずそこから息が漏れ、窓を少しだけ曇らせた。

 男は蜘蛛のように逆さまに、ずり、ずりと窓を降りてきた。雪乃は立ちすくんで動けない。

 鍵、鍵をしめなきゃ!

 遅かった。ドアはガラリと開け放たれた。男はずるずると中へ侵入してくる。

 雪乃は絶叫した。

そして走り出す。

 ははははは!

 あの笑い声が耳に届いた。蜘蛛男!

 振り返ると男はいつの間にか斧を取り出し、追いかけてきた。猛烈な速さで向かってくる。

 斧を振り上げる。

 雪乃が頭を下げると、足がもつれて転んでしまった。斧は空を切る。男は一歩、また一歩と倒れた雪乃に近づく。雪乃は懇親の力を振り絞って、持っていた資料を男にぶつけた。紙がぶちまけられ、男の視界を遮る。その隙に、起き上がって逃げた。

 また来た!もう許して!

 階段を駆け下りた。はははは、という笑い声が遠くから聞こえた。そこで、こちらが出口とは反対方向であることに気づく。どうしていつもこう間抜けなんだろう。雪乃は自分を呪った。

 一階に下りると、隠れる場所を探した。しかしどこの教室もがらんどうで、そのスペースが見当たらない。すると、理科室が見える。中には移動できないタイプの机が並んでいた。咄嗟にそこへ入り、教卓の中に体を滑り込ませた。

 男の笑い声が遠くから近づいてくる。息を殺した。

 やはりあの日本兵はあのコートの男だったのかもしれない。こんなところへは来るべきではなかった。どうして自分はいつもこうなのだろう。こんなところで見つかれば、もう逃げ場はない。でも大丈夫。部屋は暗い。見つかりっこない。絶対見つからない。大丈夫。自分にいい聞かせても、一向に冷静にはなれなかった。

 ずるり、ずるりと靴がすれる音が聞こえる。男が近づいてくる。隣の教室のドアが開けられたようだった。男が中を物色しているようすが目に見えるようだ。こっちにこないで。ずるり、ずるり。再び廊下に不気味な音が鳴る。近づいてくる。

 音が止まった。

 来ないで、という心の叫びもむなしく、理科室のドアが開けられた。男の饐えたような体臭を感じた気がした。のそのそと彼は部屋を歩き回る。

 突然、ガン、という大きな音がした。びくついて身を縮ませるが、男がいらだちまぎれに斧を振るっただけのようだった。男はこちらに近づいてくる。雪乃は机の前面の板に背を押し付けて、恐怖を押し殺そうとした。一歩、また一歩と近づいてくる。

 お願い、誰か助けて!

 男は止まったようだ。それから、きびすを返して部屋から出て行く音がした。

 自分がずっと息を止めていたことを思い出して、すべてを吐き出した。肩から力が抜ける。

助かった。これで大丈夫。でもここでこうしてはいられない。逃げなければ。あいつが戻ってくるその前に――。

 ガン。

 雪乃の横の板を、斧が突き破ってきた。

 再び、絶叫した。

 手足をばたつかせながらそこから出ると、ドアの前に男が立ちふさがった。雪乃は必死にもがいて、窓へと向かう。起き上がって窓を開けようとするが、びくともしなかった。古くて引っかかっている。

 男を見ると、勝ち誇ったように体をそらせていた。斧をぱし、ぱしと左手に当てて、獲物をいたぶる様子を見せた。雪乃はその場に座り込んだ。喉の奥が重かった。大声を出しすぎてもう声が出せないかもしれない、でも死ねばどっちみち口なしだ、などと思考が駆け巡った。

 男はしばらくこちらを見ていた。

 お母さん、お父さん、一也……。ごめんなさい、私死んでしまう。雪乃はもっと身を守る方法があったはずなのにと、自分の愚かしさに打ちのめされた。怖い。息が苦しい。頭が痛い。コートの男を一直線ににらみ付ける。こんな変態に殺されるなんて。私の人生なんだったの。

 雪乃はぎゅっと拳を握った。どうせ死ぬのなら……。

「ねえ」

 男に話しかけた。返事はない。

「あなたは誰なの?」

 まだ返事はない。時間稼ぎができるかもしれないと考えた。今の悲鳴を聞いて、誰かが来てくれるかもしれない。勇気を振り絞って尋ねる。

「あなたは……彼方くん?」

 男が斧を弄ぶ手が止まった。

「彼方くんなの?」

 答えはない。この反応は何だろう。本当に彼は彼方なのか?

 昔見た映画を思い出す。普段は普通にしている男が実は二重人格で、人格が変わると殺人鬼と化し、その時のことはまるで覚えていないという設定だった。彼方ももしそうだとしたら?

「ねえ、やめて。私死にたくないよ」

 男に動きはない。

誰か助けて。早く助けに来て。

 その願いも虚しく、男は斧をしっかりと握り、照準を合わせるようにこちらを見た。

 今度こそ死ぬ。もうだめだ。雪乃は目をつぶり、せめて痛くありませんように、と願った。

 そのとき、廊下を走る音が聞こえた。

 男はそちらに反応する。

 誰か来た!

その足音は理科室の前で止まる。

コートの男と雪乃はいっせいにそちらを見た。

「桜庭!」

 なんと、それは栗島彼方だった。

「桜庭から離れろ!」

 彼方は男に怒声を浴びせた。男は彼方を見ながら、少しずつ雪乃から横に遠ざかっていく。彼方はその動きに合わせて前の扉から教卓へ向かってくる。男と十分距離を取ったところで、雪乃に駆け寄る。彼がしゃがむと雪乃は抱きついた。彼方と男は目をそらさない。

 コートの男は教室の後ろの辺りで二人を見ていた。顔は依然うかがえない。

「お前はいったい誰なんだ!」

 男は答えなかったが、マスク越しに笑ったように見えた。

 二人のにらみ合いは続く。まるで百年越しの仇敵同士のように、もはや殺意といってもいいような強い感情を無言でぶつけ合っていた。彼方の様子は頼もしかった。決して怖気づかず、一歩も引かない気構えが感じられた。男はどこか楽しむように、彼方を下から上まで見た。それがあたかも獲物を記憶しておこうと観察しているようで、雪乃はぞっとした。

男は視線を外した。すると、素早く後ろのドアから出て行った。

 彼方はふう、と息を吐き出した。

「彼方くん……」

 雪乃は感極まった。二度も彼方が助けに来てくれた。もう少しで殺されるというあと一歩のところで。

「大丈夫だよ。もう大丈夫」

 彼方は雪乃をなだめた。その声は以前の優しい彼方のものだった。

 雪乃が落ち着くと、二人は立ち上がった。雪乃はあらためて彼方を見た。やはり、コートの男は彼方ではなかった。ではあの男は何者だろう。それに、どうして彼方は雪乃が襲われているのがわかったのだろう。

 彼方は雪乃から離れる。そして、あの初めて襲われた晩にそうしたように、よそよそしい態度をとった。

「どうしたの?どうしてそんな顔するの?」

 雪乃はたまらなくなり、そう問いかけた。理由は知っている。だが彼の表情の中にあるのはそれだけではない気がした。彼方はなにか、いうかいうまいか迷っているようなそぶりを見せ、少しの間黙っていた。それからこちらの目をしっかりと見据えた。

「桜庭、俺、きみに疑われていることを知ってる」

 ぎくりとした。

「疑うって?」

「俺があの男だと思ったんだろう」

 動悸がした。どうしてそれを知っているのだろう。そんなこと誰にもいっていない。誰にもわかるはずない。第一、雪乃も確信していたわけではないのだ。

「俺、最初に言うべきだったよ。でも迷ってたんだ。きみにおかしな目で見られそうで、ふんぎりがつかなかったんだ。こんなこと、誰にも知られたくないから」

「何を、言ってるの?」

 なんだろう。彼方はまだ迷っているようだった。

「言って。私変なこと思わないよ。あんなに仲がよかったじゃない。思い出して」

「うん……」

 彼方はこちらに背を向けた。

「俺はきみの敵じゃない。きみを助けようとしたんだ」

「うん」

 雪乃は彼方の様子を見て、もう信じていた。

「きみが危ないのを知って、助けに来た。あの夜もそうだ。でもそのせいで、きみを悩ませることになってしまった。ごめん」

「どうして謝るの?」

 どうして、あなたが謝るの。彼方はこちらを見た。

「俺がきみのところに都合よく駆けつけることができたこととか、きみがおかれている状況を知っていたこととか、きみは気になるんだろう?」

「うん……正直にいうね。疑ってしまったよ」

「それには理由があるんだよ。でも……きみは……そうだな、信じてもらうしかないってのは皮肉なもんだよな」

 しのぶと三人で過ごした日々がよみがえる。

「わかった。決めたよ。言うことにする。聞いてくれ」

「聞くよ。教えて」

 彼方はどう切り出そうか考えているようだった。

「最初に聴こえたのはたしか……『この時から、栗島彼方は聴こえ始める』だった」

「え?」

 何をいっているのかわからなかった。聴こえるとは、あの噂になっていた騒ぎのことと関係があるのだろうか。

「本当にその時から聴こえ始めた。桜庭、俺には今声が聴こえているんだ」

「声?」

「そうだよ。声だ。頭の中に響くような声。鼓膜を振動させないで聴こえるような声。テレパシーみたいに、俺だけに聴こえる声なんだ」

 雪乃は絶句した。それはつまり……。

「初めは幻聴だと思った。すごく取り乱してしまったよ。乱暴なこともした。自分が狂ってしまったのだと思った。俺の行動を実況しているようなんだ。『彼方は声を上げた』とか『彼方は走った』とか誰かがいうんだよ。彼方は、彼方はって……。そういう幻聴の種類があるって聞いたことがある。それだと思った。声がいうことはすごく明晰で、起こったことを事細かに描写するような、ナレーションみたいなんだ。というより、そう、小説みたいなんだ。勝手なことをいうんだよ、そいつ。怖かった。意識がなくなって、気がついたら取り返しのつかないことをしてしまった……そんなことが起こることを想像すると、たまらなかった」

「本当に……」

「本当だよ。でも桜庭、それがただの幻聴じゃないってことがわかったんだ」

「どうして?」

「きみの周りを描写する声が聴こえ始めたからなんだ」

 私の――。雪乃はなにもいえなかった。あまりにも突拍子もない話で、ついていくのに精一杯だった。

「おかしいなと思った。どうしてきみのことが聴こえてくるんだろうって。きみは夜道を帰宅していた。わけがわからないまま聴いていると、きみが襲われ出した」

 あの夜のことだ。あれを彼方は聴いていたというのか。

「まさか、と思ったけど、もしかしたら、とも思った。だから家を出て自転車で心当たりのある道まで走った。そして電話した」

 だからあの時彼方は息を切らしていたのか。

「上手く話せなかったよ。自分が知っていていいことといけないことの区別が咄嗟にはつけづらかった。だからきみに疑われてしまった」

 ストラップのことなどのことだろう。

「でもそこでわかったんだ。これはただの幻聴じゃない」

「遠くで起こっている本当のことが聴こえてくるってこと?」

「そうだよ。最後にきみと会ってから、やっぱり本当のことなんだって確信できた。この声には意味がある。今ここにいるのも声が聴こえたからだ」

 雪乃は手をこすり合わせた。正直、雪乃は彼の言うことをにわかには信じきれない。突然そんなことを言われても混乱するだけである。しかし、彼方が嘘をいっていないというのはわかる。彼はそんなことで人を騙す人ではなかった。

 彼方はまたばつの悪そうな態度をとった。

「どうしたの?またその顔」

 どうやら、彼はまだ話していないことがあるようだった。彼はまた迷うようにしている。

「これもいわなきゃいけないよな」

 なんだろう。雪乃に言うことがはばかられるようなことなのだろうか。

「そうだよ」

 彼方は雪乃を見つめる。

「え?」

「きみにいうことがはばかられることなんだ」

 なにをいっているのだろう。思っていることが顔に出ただろうか。

「顔には出てないよ。聴こえるんだ」

 雪乃は仰天した。いま思ったことを口に出していないのに、まるでそれを読み取ったかのように彼は答えた。まさか――。

「そのまさかだよ。きみの考えていることも聴こえるんだ。そう、今も声が聴こえてる。本当の小説みたいにね。今までもほとんどが、きみが中心になった描写なんだ。だから、きみが俺を疑っていることもわかった」

 思っていることがわかる?雪乃は突然自分が丸裸にされたように感じた。

「丸裸にされたように感じることはないよ。きみが思っていることすべてが聴こえているわけじゃないと思うんだ。聴こえることだけが聴こえる。言葉は恣意的に選択されてるんだよ。誰かにね」

「私……私……」

 これで信じないという方がどうかしている。雪乃が思ったことを予想したわけじゃない。だって『丸裸』っていう単語まで言い当てたんだから。『丸裸にされたみたい』……その思考そのままが彼に届いているんだ。

「信じてくれたか」

「私、その、ごめんなさい」

 雪乃は彼を疑ったことを深く恥じた。彼は雪乃を助けようとしてくれたのに、自分はその変質者だと思い込んでいてしまった。なんという女だろう。

「いいんだよ。こんなこと、わかりっこないんだから。俺だって悪かった。最初にいっていれば、きみを悩ますこともなかったんだ。ごめんな」

 どうして、どうしてあなたが謝るの?あなたは悪くないのに。

「どうしようか、これから。先生に言おうか」

 彼は言った。

「ううん。それはやめよう。いろいろ説明できないことがあるじゃない。ねえ、放課後、ゆっくり話をしよう。そうすれば、わかることもあるかもしれない」

「そうだね」

 彼方は微笑んだ。この笑顔だ。あの頃の彼方が帰ってきた気がした。何も変わってない。優しい彼方くんそのままなんだ。

 二人はぶちまけた書類を持って校舎を出た。もうとっくにチャイムは鳴っている。なんだか二人で悪巧みを共有しているようで、妙な気持ちだった。

 だが、彼方の身に起こっていることは不可解だった。どうして奇妙な声が突然聴こえてくることになったのか。これはなにを意味するのだろう。彼方は超能力者になってしまったのだろうか。

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