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「栗島彼方くんね。噂があるんだよ」
恵美はそういっていつものように楽しそうにした。雪乃は教室で彼女と話し、あの晩の恐怖の体験について振り返っていた。彼方への疑惑は伏せて、もう少しで雪乃が殺されるところを助けてもらったと言ったところ、恵美は目を輝かせたのである。
「噂って?」
あの後警察と合流してから事情を説明した後、両親を伴って署へとおもむいて、詳しい話をしたが、警察は一応真摯に捜査を始めると約束してくれたものの、父がいうところによれば、それは表面上のことで、実際は周辺に注意を喚起するにとどまるだろうということだった。学校では近くで変質者が出たことが教師から伝えられ、その被害者が雪乃であることは瞬く間に広まった。犯人はまだ捕まっていない。
「あの栗島くんがね、信じられないけど、頭がおかしくなったっていうんだよ」
「え?」
寝耳に水だった。そう、あの彼方が、である。いったいどうしたというのだろう。
「嘘だよ、そんなの」
「まあ聞きなって。なんかね、この前さ、あの人なんか騒ぎを起こしたみたいなんだ。急に大声を上げて、廊下を走り回ったんだってさ」
「どうしたの?」
驚いた。彼方がそんなに取り乱すところなど、ほとんど見たことがない。
「わかんないけど。なんかね『聴こえるだろ?』とかなんとか人に聞いて回ったらしいよ。耳を塞いで通る人を睨み付けたりさ。これってあれだよね。『聴こえない声が聴こえる』ってやつ?」
およそ信じられる話ではなかった。しかし、雪乃は彼とここ一年近く話もしていない。その間に何かあったとするなら、どうだろう。
「この前話した時は普通だったけど」
そう言ってから、いや、違う意味で普通ではなかったな、と思い返した。あの過剰によそよそしい態度。いくら雪乃と距離をとる理由があったといっても、あれは少し傷ついた。
「そう?でもさ、ほら、あの人のお母さんがさ――」
そこで恵美は言葉を切った。それからしまった、というような表情をして、頭をかいた。
「お母さんが、何?」
そういえば彼方の母親とは会ったことがない
「いや、そうか。あんた栗島くんと仲良かったもんね。忘れて」
恵美はそういって会話を打ち切った。
授業が始まっても、恵美の『仲良かったもんね』という言葉が頭の中で反駁され、教師の声が耳に届かなかった。そうだ、確かに雪乃たちは、仲が良かった。今でも鮮明に思い出せる。あの日々は、きっとこれからも忘れない。雪乃は過去に思いをはせた。そう、あれはまだ高校生一年生のときだったはずだ。
夏休みの陽光が公園のあらゆるものの影を濃くし、熱気をそこらじゅうに振りまいていた。滑り台と、砂場と、それにジャングルジムが珍しく撤去されていない、寂れた小さな公園だった。雀が一箇所にあつまりなにかをついばんでいて、それは穏やかな夏の日の象徴だった。
そこには三人だけがいた。雪乃と、彼方と、そして国木田しのぶだ。
雪乃はベンチに座り、彼方はジャングルジムに背をあずけていた。
しのぶは、どういうつもりか、ジャングルジムの頂上に登り、すっくと立ち上がって腕を組み空を眺めていた。太陽が彼女の背にあり、まるでそれが後光のように思われ、堂々としたしのぶの佇まいはどこか神々しい感じがした。
しのぶは下の彼方を見ていった。
『彼方、カメラ回しなよ』
彼方はそちらを一切見ずに『今はまだいいだろ』と答えながら、肩から下げたバッグをさすった。そっけない調子だったが、雪乃にはその意味がわかっていた。彼の位置から少し首を持ち上げれば、しのぶの下着が丸見えなのだ。彼女がミニスカートを翻してジャングルジムを登り始めた時点で、彼方はそちらから目をそらしており、その様子が彼の性格をよく現していた。雪乃には、彼がその場から移動しようか、だが移動したら意識していることがわかってしまう、ならばいっそ『スカートの中が見えるぞ』と注意してやろうか、などと考えていることが手に取るようにわかった。
雪乃がわかっているということは、しのぶにもわかっているに決まっている。やはりそうなのか、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
何をしたいのだろうと思っていると、いきなり、彼女は頂上から飛んだ。
時間が止まったように感じた。彼方もそちらを見て、口を開けた。
宙を舞い、花びらのように柔らかく落ちてきてふわりと着地する。その時に空気がスカートを大きくまくり上げ、結局彼方は下着をモロに見てしまった。
『露出狂か、お前は』
彼方は非難するようにいった。するとしのぶは『得たり!』というふうに意地悪そうに口元を歪ませた。
『なにが?』
『え。なにがって……』彼方はしどろもどろになった。
『誰が露出狂だって?あんたなにを見たの?』
『なにをってその……』
『はっ、まさか!』しのぶは大げさにスカートを押さえた。『いやあ!変態よお!この人あたしのパンツを見たわあ!』
『お、お前が見せたんだろうが』
『認めたわ!この人罪を認めたわ!神様、この変態をお許しください!』
『違うって、悪かったよ』
どうしてここで謝るのだろうと、雪乃はおかしかった。しのぶは彼方をじっと見て『千円で許してやる』といった。やけにリアルな金額だった。
そこで彼方が素直に財布をポケットから取り出したところで、雪乃はついに噴き出してしまった。
『なんだよ……桜庭』
彼方はまるでわかっていないようだった。雪乃は目元の涙をぬぐっていう。
『冗談に決まってるでしょ。真面目だよね、彼方くんって』
彼方は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
『いや、あたしは本気だけど』
しのぶは真顔でいった。二人は彼女の表情をじっと見ていたが、その真顔は崩れることがなかった。どうやら、最初からこれを狙ってジャングルジムに登ったらしい。雪乃はまた噴き出した。この二人は付き合いが長いのに、未だにこういったやりとりをしているのがおもしろい。いや、だからこそというべきか。しのぶと彼方は幼馴染だ。
その後彼方はいつものようにカメラを回し始め、そこからとりとめのない雑談が続き、今日の目的へと話題が移っていった。
ある日、しのぶが部室に一冊の本を持ってきた。それは『蔵木屋』という古本屋から彼女が買ってきたもので、それを興奮した様子で雪乃と彼方に読ませると、二人もこれはおもしろいと太鼓判を押した。
その本は映画の脚本のようで、一人の強盗の男が小さな女の子をひょんなことから引き取ることになり、その慣れない日々に奮闘していくというものだった。特に彼方がそれを気に入り、この映画を絶対見るといってインターネットで入念に調べた。タイトルは『スレッショルド』で作者は『工藤猿三』だった。
『猿三って変な名前だね』
雪乃はなんとなくそう言った。調べていくうちに、彼方の顔がどんどん曇っていくのがわかり、どうしたの、と聞いてみた。
『ないんだよ。スレッショルドなんて映画。いや、あるんだけど内容が違う』
ウェブのどこを調べても、この映画の情報はなかった。工藤猿三などという脚本家もヒットしない。もしかしたら外国の映画の翻訳かもしれないと思ったが、少なくとも英語圏にはそれらしきものはない。フランス映画?それ以外?だが、そもそもこの映画の舞台は日本なので、その可能性も低いと思われた。
そこで、しのぶは思い出したように言った。
『そういえばさ、この本が置いてあった本屋、結構変わってるんだよね。普通に刊行されてる本だけじゃなくて、怪しい同人誌とかもたくさん置いてんの。何か、素人が書いたものでも、お金は払えないけど置いてくれるんだってさ』
『ってことは』彼方がいう。『これは素人が書いたもので、映画化はされてないっていうのか?』
『そうかもね』
『先にいえよ、もう』
そこで三人は、その本屋へと行ってみることにした。この本を売りに来た人間は誰なのか店主に聞き出し、あわよくば会って話を聞いてみたいと意見が一致したのだ。
それでその店に近いこの公園に集合したというわけだ。
『しかしこの脚本、よくできてるよねえ』しのぶが言った。
『そうだな。こういう設定はよくあるけど、話の運びがうまい。結末も秀逸だな』
『彼方くん、すごく気に入っているね』
『気に入ったよ。この主人公は犯罪者だけど、自分の仕事にプライドを持ってて、そういう公明正大なところが女の子との関係を暗示してるんだよな』
しのぶは『でもさ』といって腕を組んだ。彼方がカメラをそちらに向ける。
『この男、なんかいい人すぎない?強盗になった理由は描かれてて、それなりに説得力はあるけど、これほどの人間なら、まっとうな職につけたんじゃないかな』
『だから、それがこの本のテーマなんだよ。善と悪について考えるって、月並みな主題だけどさ、それだけに大きな柱が一本通るんだよ。終盤の台詞があるだろ『俺の生き方は最初から決まってたんだ』ってさ』
議論が白熱してきた。彼方はカメラから目を離す。雪乃はこういう会話にはあまり加わらない。映画の知識では二人にかなわないのはわかっているから、たまに疑問を口に出すだけにしていた。しのぶはまた脚本への文句を並べる。
『この男の信条さ『騙さない、嘘をつかない、でっちあげない』だっけ?全部同じ意味じゃん?アホじゃね?』
主人公の男は、強盗は行うが、人は傷つけないし、隠ぺい工作も自分の痕跡を消すだけで誰かに罪を着せるということはしない。
『それはジョークだろう。役者が冗談めかして芝居をすればいい。それに、三回繰り返すことで強調しているともとれるじゃんか。それに、柚子はこそ泥だったわけだけど』柚子とは主人公が引き取る女の子である。『その子の品行の悪さに直面して主人公が悩むのがドラマを盛り上げてるんだよ。自分だって強盗なわけだけど、それとは別に道徳を柚子に教えなければいけない』
『葛藤だね』雪乃はここぞとばかりに口を挟んだ。
『そう、しのぶ、お前がよくいうやつだよ。葛藤。全部の要素がドラマに繋がってるんだ。有機的に』
『ユーキテキにねえ』
しのぶはちょっと笑った。彼方は論理的な一面もあった。考えてみると『スレッショルド』の主人公と少し似ているかもしれないな、と思った。
『そうだ、わかったよ』しのぶがいった。『何か見たことある設定だと思ったんだ。これ『レオン』に似てるよね』
レオンとは殺し屋の男が小さな女の子を引き取るというストーリーで、たしかのこの脚本と似ている。ジャン・レノとナタリー・ポートマンの顔が浮かんで来た。彼方は、表情を変えずにうなずいた。彼はわかっていたらしかった。
『あの映画もよかった。そのイメージがあるのかもしれない』
『あんたレオン好きだもんね』
『うん。あれはいい映画だよ。ジャン・レノを主人公にしたのがいい』
『ちょっと待った』しのぶは手のひらを前に突き出した。『あれの主人公はナタリー・ポートマンだろ』
『いやいや、それはない。あれはジャン・レノが中心になって物語が進んでいくだろう』
彼方は憤然としていた。
『それは視点がジャン・レノなだけだよ。主人公は違う』
『いいや、ジャン・レノだ』
『ナタリー・ポートマンだって。製作陣もそう思って作ってるはず。あたしにはわかるんだよ』
こういういい争いはいつものことだった。ほほえましく雪乃は眺める。
『なんでわかるんだ』
『あたしはリュック・ベッソンの生まれ変わりなんだよ』
『死んでねえよ』
この『死んでねえよ』というのは今まで幾度となく繰り返されてきた彼方のしのぶに対するつっこみだが、何年経っても律儀に訂正するあたりがいかにも彼方らしかった。
雪乃は『まあまあ』と二人を仲裁した。『もう行こうよ。今日は古本屋に行くために集まったんじゃない』
彼方が『そうだな』というと、議論は終わった。さっそく例の場所へ向かうことにする。公園を出てゆるい坂道を下っていき、古い商店が建ち並ぶ界隈へと出ると、見える建物はみな平屋で、歴史を感じさせるようなくすんだ色合いがなんともいえない雰囲気をかもしだしていた。
依然として彼方はカメラを回し続けていて、風景やしのぶや雪乃を交互に映し出しながら、機嫌がよさそうにしていた。しばらくして、蔵木屋の看板が見えてきた。到着すると、そこの前に三人で陣取り、店先を眺め渡した。そこには駄菓子が並んでいたが、しのぶによると、昔は普通の商店だったらしい。
中に入ると、古本独特の匂いで満たされており、気分が良くなった。店内は意外と広く、本は時に整然と、時に乱雑に積まれていて、大量のそれらが雪乃たちを圧倒し、まるで本のビル街のように思わせた。しのぶはカウンターまで行き『おばあちゃーん』と声を上げた。
出てきたのは、かなり高齢の腰の曲がった老婆だった。一人で店を切り盛りしているらしく、本の整理が大変なのだと言った。以前は息子が手伝ってくれたが、家を出て行ったのだという。
しのぶは例の本を取り出し、本題に入った。これを買った人を覚えてる、としのぶが真剣に聞くと、雪乃は、これほどの老婆がそんなことを覚えているだろうかと心配になった。ところが、その心配をよそに、老婆は覚えていると答えた。
『どういう人?おばあちゃん』
『男の子だよ。お前さんらより下かなあ』
『誰?それ』
『知らんなあ。一度しかこなかったよ』
雪乃たちはその男の子の詳しい容貌を聞いたが、特徴が特になかったらしく、大したことはわからなかった。三人はがっかりして、気晴らしに店内を見て歩くことにした。
あたかも迷宮に迷い込んだかのような閉塞感があった。小説や一般書、画集、詩集、そして脚本集などが種類別に並べられていたが、その順番はでたらめなところがいくつもあり、さっきの老婆の話を思い出して、少しかわいそうに思った。
何気なく本を手に取ってみると、装丁が安っぽく、中身を見ると文章がつたなくて、素人が書いたものだということがわかった。それを戻し、もう一冊の同じ作者の本を開いてみた。すると、さっきのやつより格段に文章が整っており、かなりの進歩が見られた。作家志望者だろうか。だとすれば、こうやって人は作家になっていくのかと、その過程を知ることができたと新鮮な気分になった。隣に彼方がやってきて話をすると、彼も同じ感想を持ったようだった。
しばらくして三人が合流すると、彼方が提案をした。
『なあ、この店の本、片付けるの手伝ってあげないか?』
『えー、めんどいなあ』しのぶがいう。
『私はいいけど』
『一人でこんなにたくさん整頓できるはずない。あんなにお年なんだぞ。俺たちが手伝わないでどうする』
彼方は力強かった。正義漢ぶってはいたが、彼の性格を知っている雪乃は少しも嫌味な感じはしなかった。彼は純粋に手伝いたいのだ。
しのぶもしぶしぶ了解し、老婆に申し出た。彼女はいたく感激して、お願いする、と言った。
まず手分けするために担当を決めることになった。奥の方と、カウンターから見て右側と左側、そこにある本の作者を順番に並べ、列を整えることにした。だが問題があった。奥のスペースが圧倒的に手間がかかりそうだったのだ。そこでしのぶが唐突にいい出した。
『じゃんけんしようぜ』
『え?』
雪乃がそう返事をするのに答えず、しのぶは大声を上げる。
『はい、じゃんけんぽん!』
不意を突かれて、ゆきのは何も考えずに手を出した。彼方も同じらしかった。卑怯な、と思った。
結果はしのぶがパー、彼方がチョキ、雪乃もチョキ。しのぶの負け。
『はい、いいだしっぺ~』雪乃はなんだか嬉しくなった。
『ちょっと待った、今のナシ』
雪乃と彼方はしのぶをじっと見つめた。しばらくすると彼女ははあ、とため息とついて『わかったよ』と観念した。第一こちらから手伝うと申し出たにもかかわらずあまりにしぶっていては、店主に失礼である。
片付けは一時間ほどかかった。雪乃たちのしたことは些細だったが、店内は見違えるように綺麗になった。瓦礫のビルから高層ビルになったようだった。
老婆はお礼にお菓子とお茶をくれたので、喜んでそれにあずかり、さらに本も何冊かもらった。日が落ちる少し前に蔵木屋を後にした。
夕焼けが前方の三つの影を長く伸ばしていた。金色に染まった町並みは、天国のように荘厳な感じがした。結局脚本の謎はとけなかったが、老婆に感謝されたことで、一種の達成感があって、雪乃は爽やかな気分だった。雪乃は二人もそうだろうかとそちらを見た。
すると、なぜか彼方だけが浮かない顔をしていた。
『どうしたの?』
『いや……』
彼方は口ごもった。彼はうなだれ、夕焼けによる顔の陰影がその憂鬱そうな様子を際立たせていた。
『あそこの本、見たろ?作家志望者が書いたようなやつ』
『うん』
『人の創作意欲っていうのを感じたよ。人の空想。どうして空想なんかするんだろうな』
何を言い出すのだろうと思った。だが、考え深い彼のことだ、なにか意味があるのだろう。
『うーん、楽しいからかな、やっぱり』
『楽しいばかりじゃないと思うよ。だって見ただろう?あの作者たちは成長してる。努力しているんだ。苦労して文章を磨いて、ようやく一つの空想を形にできる。どうしてそこまで苦しんで空想できるのかな』
雪乃は答えられなかった。作家志望者の気持ちは、雪乃にはわからない。
『ものを作るっていうのは、一つの狂気だと思う。なにかを空想するっていうのは……』
『どうしてそれが気になるの?』
『別に……なんでもないよ』
それから二分くらい沈黙していたと思う。妙に緊張した。彼は何をいいたいのだろうか。一人でなにか考え込んでいる様子だった。
黙って会話を聞いていたしのぶは、不意に一人小走りになり、二人の前を歩いた。
そして振り返り立ち止まった。二人も立ち止まった。なんだろう。彼女はにこりと笑って言う。
『約束しようよ』
唐突だった。彼方と雪乃は顔を見合わせてから先を促す。
『約束しよう。いつかさ、みんなで映画を撮ろうよ』
彼方の顔が少しほころんだ。雪乃も緊張がほぐれたような気がした。
『ああ。いいな、それ。前から考えてたよ』
『雪乃はどう?やっぱ嫌?』
『ううん。いいよ。そういうのなら』
『じゃあ約束ね。絶対だかんな』
しのぶは実に嬉しそうだった。
『脚本はあたしが書く』
『お前、書けるのか?』
『まあ、見てなって。約束、守れよ』
『約束は……約束は守るよ』
彼方は世にも真面目な顔でそう言った。
日は落ちて辺りは暗くなった。だが気持ちは晴れ晴れとしていた。
その日からしばらく経って、部室でしのぶと二人で話したことは、決して忘れられない。しのぶは『衝撃告白していい?』と唐突に切り出した。彼女はいつも唐突だった。雪乃は軽い気持ちで受けあった。
『彼方ってさ、雪乃のこと好きだよ』
心臓がどきりとした。『な、何いってるの』
『本当だよ。あたしがいうんだから間違いない。付き合い長いんだから』
それが本当だとすれば、意外なことだった。あの彼方が……。
『それを、なんで私にいうの?』
しのぶは例のいたずらっぽい笑みを浮かべた。と言うより、満面の笑みだった。
『二人、付き合っちゃいなよ』
『え』
『いいじゃん、結構いいやつだよ、あいつ』
『あはは、考えておくよ』
そうやってお茶を濁しておいた。雪乃の思いは一つだった。
彼方くんを好きなのはあなたでしょう?
今思い返してみれば、彼方のいう『空想の狂気』は、彼の今の心境に深くかかわっているのかもしれない。彼の頭がおかしくなったという噂。これは偶然だろうか。彼のあの憂鬱な表情が、一年をかけて大きくなってしまったというのか。
そんなこと、考えたくもなかった。
帰りのホームルームが終わると、雪乃はすぐに帰宅することにした。あの日は友達と話し込んで遅くなってしまったが、今日は明るいうちに学校を出れば安全だろう。それに、さすがに今は周辺が警戒されていてあのコートの男も出てくる気になるまい。
だが――雪乃は考える。あの男の不可思議な振る舞い。距離をとったかと思えばもうすぐそばにいたり、そして壁を駆け上って天井に宙吊りになったり、あのような人間離れした芸当ができるのだから、油断はできない。こんなことは誰も信じないだろうから、警察にも言っていないのだが。
学校を出ると、今度は人気の多い道を選ぶことにした。上の住宅街を細かく抜けていくが、遠回りは気にならなかった。人とすれ違うたびに体がびくついた。ここまで臆病になってしまった自分が意外だったが、これが普通なのかもしれない。あんなことがあれば誰だってこうなる。しかし、警戒するのなら、人と一緒に帰ればよかった。だが親しい友人はみんな家が逆方向だったと思い出す。
携帯電話は手に持ったまま歩いた。なにかがあればすぐ通報できるようにという教訓だ。少しでも人通りが少ない場所は避けて歩いた。いつもよりだいぶ時間がかかるが仕方がない。
自宅がある住宅地に入ると、一安心した。見覚えのある顔ぶれがあるたびに心強く思った。意味もなくコンビニに立ち寄り、店内を一周して出てきたりしながら、なにをやっているのだろうと思ったが、いろんな人に姿を見られているということが重要なのだと気を引き締めた。
もうあと少しで家が見えてくるというところで、周りの人がひそひそとなにやら話しているのが目に入った。なんだろうとその視線の先を見る。
黒いコートの男がそこにいた。
頭がくらくらとして、貧血で倒れそうになった。男は姿を衆目に晒しても物怖じせず、電柱のそばからこちらを見ていた。
大丈夫だ。今日は人目がある。しかしこちらが変な行動を起こせば、相手を刺激してしまうかもしれない。平静を装って、雪乃は歩き出したが、ある懸念がわき起こった。
家を知られてしまう。
どうしよう。こんな変態に家を知られたくない。振り返ってみると男はまだそこにいた。帰ってよ!ここで通報しようか。だがそうすればあいつは錯乱して襲い掛かってくるかもしれない。たとえ人通りが多くとも、捕まることを恐れさえしなければ人一人殺すことなどわけないだろう。誰かに助けを求めるか。
それとなく周りを見ると、中学の同級生の母親が歩いていた。男を警戒しながらそちらへ近づく。その母親はこちらに挨拶した。雪乃は彼女に寄り添うようにしてコートの男を見た。どうしたの、と聞かれても、答える余裕がなかった。男は動かなかったが、同級生の母親がそちらを一瞥すると、向きを後ろに変え、歩き去っていった。
雪乃は息を大きく吐いた。
それから走って家に駆け込み鍵を閉め、通報した。
明るければ大丈夫だ、人がいれば大丈夫だという考えは吹き飛んでしまった。どこにいてもあの男が襲ってくる気がする。家中の戸締りを確認していると、母親が心配そうにして事情を聞いてきた。彼女にすがりついて、ようやく雪乃は落ち着いた。
紅茶を飲んで気を静めると、冷静に考えを巡らせた。今日思い出したことを考えてみる。彼方のことだ。
彼方は確かに、以前から突然暗い表情を見せることが多くあった。悩みがあるのかと尋ねてみたことがあるが、彼は何も語らず、しのぶもなにも知らないといっていた。彼は長い間かけてその悩みを肥大させて、頭をおかしくしてしまったのか。そんなことは考えたくないはずだったが、考えざるを得なかった。
一つの推測が浮かぶ。
まさか、あのコートの男は彼方なのか?
きっと違う、しかしそう考えればあの日の電話が不可解だったことの辻褄が合うと、考えが堂々巡りをした。だがもしそうだとすればなんのために?彼方が雪乃を好きであるとしのぶがいったことをまた思い出す。彼方は何がしたいのだ。雪乃に何をする気なのだ。
違う、違う。彼方くんはそんなことしない。
頭を抱えていると、母親がやってきた。
「大丈夫?どうしたの」
何がどうしたのか、一番知りたいのは自分だと思った。




