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桜庭雪乃は夜道を帰宅していた。
「うん、そうだね。悪くないと思うよ」
歩きながら携帯電話に向かって答えると、その声は闇へと溶け込んでいった。電話越しの恵美は快活で、話題はとどまることを知らず、延々と引き伸ばされたが、雪乃はその半分ほどしか聞いていなかった。右耳から左耳へと話を流しながら、ぼんやりと辺りの風景を眺めてみる。
道は前方に細長く伸びており、左側は上の高い道へ傾斜するコンクリートの崖で、右側は下へ向かう、雑草が生い茂った土手だった。左側の街灯はぽつりぽつりと夜をほのかに照らし出し、その光が届く範囲を抜けると、その度に心細くなるようだった。
「あはは、おもしろいね」
恵美はまだしゃべっている。話すことはもっぱら誰かの恋愛話で、そのとりとめのない失敗談を彼女は自分のことのようにおもしろおかしく語った。そういう話を聞くのは嫌いではなかった。ただ、自分がその話題の中心として上らないことが、ほっとするような、情けないような、むずがゆい気持ちにさせた。女子高生には、どこか必ず恋愛をしなければならない不文律がある気がする。それほど好きでなくとも、例えば自分のことさえ好きな相手ならば、十分に付き合うに値する条件が整うが、その時、足りないものが満たされるような、そう、プラスになるのでなくマイナスを補うような安堵を得ることができるのだ。補っているからこそ失敗や欠点が目に付き、それをあげつらっては自分自身への戒めとするのである。しかし雪乃自身は、そういった恋愛はしたくなかった。自分が人を好きになるのではなく、人に好かれているに過ぎないのでは、恋愛しているのではなくされているだけではないか。
そうそう、と恵美は話題を変えた。あのストラップまだつけてる?雪乃はつけていると答えた。そのとき初めて、鞄に大量に取り付けてあるプラスチックのストラップたちが、じゃらじゃらと騒がしい音を立てて、周りの暗闇を響かせていることに気がついた。
「これ、こんなにつけなきゃいけないの?」
そうだよ、と恵美は責めるようにいう。このストラップは今女子の間で流行っていて、なんでも恋愛成就の効果があるらしい。よくあるタイプのおまじないだ。しかもその数ある効果の中でもっとも支持を集めているのはなんと『妊娠防止』というものである。それを聞いたとき、さすがに自分がつけるのは嫌だと思った。ところが、ここがまた不文律で、女子の間ではこれをつけていない者は恋愛できない駄目な女だとみなされるのだからたまらない。
雪乃は流されるがままにこんなものをつけている自分がくだらない存在のように感じられた。携帯電話でなく鞄につけているのはせめてもの抵抗のつもりだったが、それでも主張のない、ほんの子供である自分が恨めしかった。
そもそも、こんなちっぽけなストラップが恋愛成就の効果を持つなどと、誰が言い出したのだろうか。大方業者が売るための宣伝で流した噂なのだろう。そういう大人には反感を覚えるが、見事に引っかかってしまう自分たちにも問題はある気がした。雪乃はふと恵美に問いかけた。
「ねえ、このストラップさ、本当に効くと思う?」
恵美はもちろん、と答えた。今までの事例を列挙し、これはストラップがあったから成り立ったのだと力説した。彼女がここまで信じていることに、今更ながらに驚いた。占いじみた迷信が、多くの人間の原動力になっていることが不思議に思えた。だが――雪乃は思う。もし騙されていたとしても、その人が良い方向へ向かうのならば、それはきっと意味のあることなのではないか。以前インチキ占い師がマインドコントロールで有名人を騙したという事件が公になって騒ぎが起きたことがあるが、本当に心が病んで、なんとしてでも救われたいの願う人々にとって、こういうことも必要なことがあるのは確かだろう。
人を幸せにするためならば、騙すことは許されるのだろうか。
答えの出ない問いを胸にしまって、電話を切り上げる用意を始めた。とりとめのない恵美の話をどこかに着地させ、とりあえずの節目をつける会話の流れを探る。しばらくするとそれが功を奏してようやく電話は終わった。通話を切って、携帯電話を見つめた。右手にすっぽりと収まるそれが、自分たちの原理そのもののように思えた。空間を介する電波が、まさに神なのである。
帰路を急いだ。左側には街路樹が増えてきて、街灯の明かりが幽霊のようにその梢を照らし出していた。風がなびき、草木が揺れる音と、ストラップの雑音だけが、その道の大半を占めていた。人気はない。
ふと、雪乃は寒気を覚えた。もう春が来て久しいが、夜風はまだ少し冷たい。だが、なんだかその冷たさが、大気によるものだけではない気がして、どうにも落ち着かなかった。わずかに震えた。それなのに、肌に張り付くのはべとべとした感覚だった。深い暗闇が街灯のない右側から圧迫してくるようで、もう一度、震えた。
と、その時、雪乃の全身がこわばった。歩みは急激に遅くなる。
前方の街灯と街灯の間の見えにくい場所に、何かが動いたようだ。よく見るとそれは人影だった。なんだか背中の空気がぐっと重くなる感じがした。雪乃はゆっくりと歩きながら、その様子をうかがってみる。
その人物の容貌はどこか不審だった。闇から浮かび上がったのは、身長からして男だろうが、彼は黒いコートを着込んで、フードをかぶっており、顔が見えなかった。直立不動で微動だにせず、こちらに体を向けてじっと立っていた。
この人はなにをしているの?。もう暖かいのにどうしてコートを?その考えとは裏腹に、雪乃の寒気が強くなった。
男の顔は隠れているが、こちらの様子を観察しているような気がした。射るような、気持ちの悪い視線を全身に感じた。男との距離はどんどんと縮まっていき、その体がより鮮明に見えてくるが、薄い霧がかかったように、その佇まいに揺らめくような存在感を覚えるだけで、どんな人間なのか、その服装だけでははっきりわからなかった。それとどうにも、生気が希薄な感じがして不気味だった。
男まではもうすぐだ。雪乃の全身はまるで凍えるようだった。なんだか怖い。変態だろうか。すれ違いざまにコートの前を開け放して、裸を露出してくるのだろうか。そのときの対処を考えてみる。ここは足を速めて、もしおかしな行動をするようならば、すぐに逃げられるように構えていることにしよう。それとなく距離をとって無事にすれ違えるようにしよう。彼を注視するなら、変態的な行為が目に入ってしまうかもしれないが、それは仕方がない。すぐに忘れることにしよう。
そんなことを考えていると、もうすぐすれ違いそうな位置まできた。それとなく道の右端に寄り、男から離れ、ちらりと相手の様子を見ると、体をこちらに向き直していてぞっとした。彼は今にも動き出しそうだった。
お願い、動かないで。
心臓が高く鳴った。唇を噛み、恐怖を押し殺す。
すれ違う。もうすれ違う。
もうすぐだ。どうしてこんな思いをしなければいけないの。変態なんてどうしてこの世にいるの。どうして男はこうなの。本当にやめてほしい。やっとすれ違う位置まで来て、雪乃は考えたとおり、男の行動に対応しようとそちらを見た。
男はすぐ横にいた。
雪乃は石のように硬直した。声が出せない。喉が音を鳴らさない。かすれたような息が漏れるだけで、ただそこにいることしかできなかった。
男はコートのボタンに手をかけた。一つ、また一つとそれを外していく。
逃げなきゃ!そうは思うのだが、足が動かない。体がなにも動かない。実際に危機に直面すると、こうなってしまうのか。雪乃は自分の考えの甘さを思い知った。
男は半分までボタンを外すと、懐に手を入れた。何を見せる気なの。変態、変態!
彼の手からはなにか妙に長いものが握られていた。それがするするとコートから姿を現していく。全貌があらわになると雪乃は驚愕した。
それを大振りの斧だった。いかにも重量を持った先と、グロテスクなほどに持ちやすそうな柄ががっしりとかみ合っていた。
なにそれ?どうしてそんなものを?
考える暇はなかった。男はそれを両手に持ち替えてすぐさま大きく振りかぶった。
雪乃は絶叫した。そして、とっさに後ろに飛び退る。斧は雪乃の前のアスファルトを打ち、ガチンという音を鳴らした。小さく火花が散った。ようやく雪乃の足が動いた。彼女は後ろへと一目散に走り出した。後ろを振り向くと、男が追ってきているのがわかった。彼はまた斧を振った。それは雪乃の頭上すれすれをかすめる。足がふらつくと走る起動が右のほうにずれた。すると、また間一髪というところで斧が左肩のすぐそばを舞い、そばにあった木に食い込んだ。コートの男は足を木へ踏ん張り、斧を抜こうとした。雪乃はそれを見てわき目も振らずに走った。走りに走った。
「助けて!」
ぜいぜいと息をつきながら叫ぶが、叫びになっていなかった。左右を見渡すと、道は直線で、隠れるところなどはありそうになかった。
足がもつれそうになる。徐々に疲れてきて、少しは距離を稼いだだろうと素早く後ろを見た。
すると、なぜか男はもうすぐそこにいた。
「きゃああ」
男は斧を振る。雪乃はつまずいた。凶器は空を切った。
雪乃は転倒した。そしてすぐさま男を見上げる。
そこからはまるで男が巨人のように感じられた。依然として顔は見えない。その黒ずくめの容貌は悪魔を思わせた。
どうしてこんな目にあわなければいけないの?どうしていきなりこんな目にあうの?なにも悪いことしてない!どうして死ななければいけないの?斧で切られたらきっと痛い。どれくらい痛いのだろう。そんな痛み想像もしたことがない。できれば痛くないようにしてほしい。どうせ死ぬなら痛くない方法で――。
男は斧を振りかぶった。
駄目だ!
諦めちゃ駄目だ。雪乃は自分が右手に何かを握っていることに気がついた。それは携帯電話だった。左手に鞄もある。抵抗しなくては。できるだけあがくんだ。
雪乃は意を決して、携帯電話を男の顔へと投げつけた。男はぐっ、と喘ぎ、手を止めた。携帯電話は右側の土手へ転がり落ちていった。
今だ!
雪乃は起き上がり、また後ろへと走り出した。男の様子を見ると、目をこすっているようだ。やった。目をやったんだ。
雪乃はカーブを曲がった。そこで分かれ道になるが、下の道を行くことに決めた。そちらの方は繁華街が近い。人がいるかもしれない。カーブを曲がりきり、道を折り返すと、トンネルがあった。大型のトラックは通れないような背の低いものだった。
入ると、外よりさらに暗さが増した。疲労で足元がおぼつかなくなり、何度も転びそうになった。
「あっ!」
トンネルの底に、自分のものではない影が前に伸びていた。
振り返ると、男が立っていた。
そんなに足が速いはずはない。どうして……。
雪乃は十メートルほど距離をあけて男と対峙した。立ち止まったというより、疲れて足が動かなくなってきているといった方がよかった。
おもむろに、男は大声を出した。それは笑い声だった。ははははははは、という地獄から搾り出されたような声が、トンネルに反響して、皮肉にも聖堂のような効果を発揮していた。男は戯れるようにして斧を軽く振り、すたすたとトンネルの壁へと歩き出した。なにをするのかと見ていると、彼はそこに足をつけ、そして駆け上がった。
雪乃は声が出せない。駆け上がったのだ。壁は垂直になっているのに。彼はどんどんと上っていき、天井へと向かうアーチを描いたあたりまでいくと、さらに上った。
彼は宙吊りになった。コウモリのように逆さになって、そして止まった。完全に重力を無視し、彼は高笑いを続ける。
はははははははははははははは!
男は天井をつたってこちらへ向かってきた。
雪乃は疲労を振り切って出口に向かって走り出した。後ろからは猛烈なスピードでコートの男が迫っている。はははははは!
どうなってるの。あの男は何?人間じゃない!この世のものじゃない!
男はすぐそこまで迫っていた。出口はもうすぐだ。雪乃は腿の付け根を右手で叩いて、一生懸命になって走った。もうすぐ、もうすぐだ。男はもう後ろにいる。斧を振り上げた。今、逆さまに振り下ろした!
神様!
――そこでトンネルを抜けた。
雪乃はよろめきながら走り、頭を触った。ある。まだ頭がある。乾いているから、血も出ていないようだ。
きついカーブを曲がったところで、木の陰に隠れて、息を整えた。トンネルの方を見る。男は追ってきていない。
少しだけ安心したが、ここにとどまっているわけにはいかなかった。早足で、背後を警戒しつつ一本道を進んでいった。ここを抜ければ街がある。助けを呼べる。明かりが見えてきた。下は切り立った崖だ。左側にも大きな崖が見えてくる。もう少し、もう少し。
雪乃は立ち止まった。前方の様子がおかしい。小走りでそちらに行ってみる。
雪乃は絶望した。
道が崖崩れでふさがっていたのである。
道は大量の岩石が覆い、立ち入り禁止の札が冷然と掲げられていた。
そういえば、ホームルームでその話を聞いたような気がする。なんということだ。とんだ間抜けである。悔やみきれない思いが、自分を責めた。
そうだ、携帯電話は――。
ないのだった。斧の男に投げつけてしまっている。さらに後悔した。あのとき携帯電話ではなく鞄を投げつけていたなら、事態はまた違ったかもしれないのに。
しかし、そうだ。あの時携帯電話は、土手を滑り落ちていったのだった。落ちていった先は、下の道路であるこの近くに違いない。
雪乃は来た道を少し戻って、携帯電話が落ちたあたりの位置を探った。だいたいこの辺りだろうという見当はついたが、いかんせん暗いので、草が生い茂る土手のどこにあるか調べることは困難であると思われた。
雪乃は諦めかけた。だが――まだ望みはある。雑草が一際長いところにしゃがみこんで身を隠し、考えた。
メールか電話が来ればいい。着信音が鳴れば、どこに携帯があるのかがわかる。あの男が来るまでまだ時間があるだろうから、それまで……。
だがそんなに都合がよいことが起こるだろうか。偶然誰かが電話をかけてくる。そんな奇跡のようなことがありえるだろうか。しかし、祈るしかない。そうでなければ、今度こそあの男の斧は雪乃の頭を割るだろう。諦めてはいけない。きっと、助かる。
そう信じなきゃ……。
「あ……」
雪乃は耳を澄ませた。
鳴っている。
聞きなれた着信音が、右前方の頭上からこちらに届いている。
助かる!
そちらへ草を掻き分け進んで行くと、かすかな光がまたたいているのが見えてきた。ススキの根元にぽつねんと落ちていたそれをひったくるようにして取り上げる。天の恵みである。液晶を見ると、発信者の名前が表示されていた。
『栗島彼方』
この期に及んで、雪乃は動揺してしまった。どうして今頃になって、あの彼方が電話をかけてきたのか、その理由が気になって仕方がなかったが、それよりも今の状況をどうにかしなければならないと気を強く持った。一年近く前から疎遠になっていた彼とどう言葉を交わせばいいのか考えながら、親指を通話ボタンに乗せ、震えながらぐっと押し込んだ。
「もしもし」
相手は少しの間黙っていた。どうやら、息を切らしているようだった。
『……もしもし。俺だよ。栗島だけど』
「彼方くん、助けて!今大変なの!」
雪乃は息もつかずにそう言った。彼方は薄く声を漏らし、驚いたような間を置いた。
『どうしたんだ?』
「追われてるの。変質者が、黒いコートの男の人が襲ってきて……その、襲ってきて……」
『落ち着くんだ。深呼吸して、ゆっくりと話してくれ』
いわれたとおりに息を吸い込み、吐いた。より小声で再び話し出す。
「斧を持ってるの。斧で私を殺そうとしているの」
彼方は沈黙した。ずいぶん長い間そうしていたような気がする。彼の荒い息遣いが聞こえる。どうして疲れているのだろう。
『今どこ?』
「漆ヶ丘の土手だよ。ねえ、私まだ通報してないの」
『わかった。俺が通報しておく。漆ヶ丘のどのへん?そいつは近くにいるのか』
「わからない。近くに来ているかもしれない。暗くてよくわからないの」
『そうか……桜庭、とりあえず、そこを離れた方がいい。着信音を聞かれたかもしれない。視界にいなくても、上から襲ってくるかもしれないし』
そういわれて一瞬、違和感を覚えた。だがすぐにそれを打ち消す。
「わかった」
雪乃は慎重を心がけながら、雑草の間をしゃがみながら少しずつ移動していった。彼方の声を聞いて、雪乃はほっとする自分を認めていた。しばらく話していなくても、彼は長い時間を過ごした大切な人だった。
『それと、桜庭。何か音のするものを身に着けてないか?』
「音のするもの?えーと……」
雪乃は焦った。
『例えば、じゃらじゃらしたものとか……』
「ああ、ストラップがある。外すよ」
鞄からストラップを引きちぎり、土が露出した地面に投げ捨てた。やはりこんなものを持っているのではなかったと、やり場のない怒りを感じてしまう。
『いや、それは鞄の中に入れた方がいい。そこに置いているとその男に見られるかもしれない』
「うん、わかった」
そういって鞄を開けながら、また不思議な違和感を抱いた。これはいったいなんなのだろうと思うが、今はどうでもいいことだと、チャックをしっかりと閉じた。
「ねえ、これからどうすればいい?」
『えーと、その、漆ヶ丘のどのへんにいるんだ?』
「下の道路だよ。上で襲われて――」
『たしかそっちは崖崩れで通行止めになっているはずだ。だから戻っていかなきゃいけないけど、多分相手は待ち伏せしてる。だからトンネルを抜けてから迂回して左の道を行って、学校の方へ戻るんだ』
「そうする」
声が震えているのが自分でもわかった。またあのトンネルを抜けなければならない。
『通報したら俺もそっちに向かう。いったん電話を切ってまたかけるけど、声が聞かれるといけないから、通話状態のまま持っているんだ。わかったかい?』
「うん、うん」
『落ち着いて。きっと大丈夫だから。それじゃあ』
電話は切れた。雪乃は大きく息を吸い込んで立ち上がった。道路へ出て、街灯から逃げながらトンネルの方へ足を進めていった。いつまた突然にあいつがすぐ後ろに現れるかと恐ろしかった。トンネルが見えてくるといったん木陰に隠れ、中の様子を確認した。向こう側が丸く見えており、中に誰もいないことがわかると、ためらってはいけない、きっとなにもできなくなる、と気を引き締めて歩き始めた。
トンネルに入ると足音が反響しないように、靴底をしっかり地面につけて歩いていると、先ほどここで起こったことを思い出さずにはいられなくなってきた。しかし、壁を駆け上り、天井に宙吊りになるなど誰が信じるだろうか。
トンネルを抜けた。緊張は空振りし、男は襲ってこず、分かれ道に達すると、彼方がいったように左側を選び、少々細い道を警戒しながら歩いていった。
左右を崖が囲み始めていた。その閉塞感がより恐怖感を煽る。
学校の明かりが、木立の間から遠くに見えるところまできた。少し開けた場所で、赤い落石注意の大きな看板があった。ここまでくればもう大丈夫だ、もうすぐ人に出会うだろうし、ここまで追ってはくるまい、あいつはもうすでに諦めて帰ったのだ、そう楽観的に考えた。
その時だった。
急に後ろから大きな力で首を押さえられた。誰かの上腕が首に食い込み、雪乃はなにも言うことができなくなった。首を上げてみると、コートの男のフードが見えた。まだ顔は視界に入らない。男の腕を両手で掴み、最後の抵抗を試みる。だがそれは岩のように動かなかった。男の饐えたような臭いが鼻をつき、やけに体温に乏しい肉体が背中に押し付けられた。
死んでしまう。助けて。携帯電話が鳴った。きっと彼方からだ。気が遠くなる中で、雪乃の頭に走馬灯のように今日の出来事が巡った。この男はどうしてここがわかったのだろう。どこかで雪乃の姿を見ていたのだろうか。あんなに警戒していたのに。でもこの暗い中でそんなことができるだろうか。せっかく彼方がアドバイスしてくれたのに、先回りするように出し抜いてきた。
そして閃くように一つの考えが浮かんだ。
その根拠は、電話においての彼方の態度だった。彼はなぜ息を切らしていたのだろう。彼はどうして上から男が襲ってくるかもしれないなどと言えたのだろう。下の道路にいることなど言っていなかったはずなのに。それに、どうしてストラップを鞄に入れろなんて言えたの?必死に逃げてきたはずなのに、鞄があることがどうしてわかったのだ。そんなもの打ち捨てているのが普通だ。携帯ストラップは携帯電話についているものなのだから、鞄があるなんてわからなかったはずだが、彼の口調は断定的だった。
まさか――彼方はこの男の仲間なのか?
いや、そんなはずはない。そんなことがあるはずがない。あの彼方がこんな凶行に走るなど、絶対にありえない。雪乃は強くそう信じた。
男は雪乃を押さえていない方の手で斧を取り出した。首の縛めを緩め、そこに刃を近づけていく。
もう駄目だ。警察が来るには早すぎる。だが雪乃は、最後のあがきをした。
「あなたは……誰なの?」
男の手は止まった。だがなにも答えなかった。
「どうして私を襲うの?どうして……」
まだ男は止まっている。
「ねえ、許して。私が何かしたの?謝るから、許して……」
男はどこか考えるそぶりを見せた。そしてそのまま長い時間が経過した。当然、その間雪乃は生きた心地がせず、いつこの刃が自分の頚動脈をかききるのかと、家族への別れの言葉を頭の中で念じていた。
すると、男に変化が起こった。斧が少しずつ下に下げられ、腕はゆっくり首から離れていった。体が離れた。後ろで靴音が一つ、二つと遠ざかっていった。
雪乃がおずおずと振り返ると、あの男は完全に姿を消していた。
雪乃はその場にへたり込んだ。助かった。その気持ちだけが他のすべての感情を払い落としていた。
がさり、と草が動く音がした。
体をびくりとさせてそちらを見た。
そこには彼方が立っていた。
「桜庭。大丈夫か」
彼は駆け寄ってきた。雪乃は彼に飛びつき、腕を回して抱きついた。
「もう大丈夫だよ。怖かったろう。ほら、パトカーの音が聞こえるだろう?」
確かに聞こえてきた。雪乃は彼から離れると、自分が泣いていることを知って目元をぬぐった。あの男はきっと彼方の気配を察知して逃げ出したのだ。
「ありがとう。本当にありがとう」
「うん……」
彼方はばつがわるそうに目をそらした。なんだろう。どこか様子がおかしい。久しぶりに会ったにしても、おかしい。
雪乃はさっき思ったことを反芻してみた。どうして彼は都合よく電話をかけてよこして、さらにこの場にもこんなにも早く、都合よく現れたのだろう。彼の行動は明らかに不可解だった。
「あのさ、俺さっき黒いコートの男を見たよ」
「ほんとに?」
「うん」
彼方は雪乃に目を合わさなかった。やはりなにかがおかしい。二人はギクシャクして、話も長くは続かず、気まずい雰囲気になった。
彼はどうして今になって電話をかけてきたのだろう。
あんなことがあったのに。
風が、二人の間を吹きぬけていった。




