表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/20

19

   19


 雪乃と彼方は町の外れにあるという、堀田の家の前まで来ていた。

 堀田の家は大きな洋館で、壁のそこかしこが苔むしており、全体が陰気さに包まれていた。建物の大きさが、よりその不気味な雰囲気を強めているように感じる。堀田は独身のはずだったが、こんな家に一人で住んでいては、女性の一人も寄り付いてこないのではないか。

「聴こえ始めたよ」

 彼方が言うと、大きな鉄製の柵で作られた門の前で、二人は緊張に包まれた。両側のレンガの塀は中にあるなにかを外に出さないためにあるかのようで、一歩踏み入れれば二度と出られないのではないかという得体の知れない不安を抱かせた。

 彼方は深呼吸をする。雪乃もそれにならう。自分がここにいることの意味を理解し、彼方への助け舟を出すことを考えるために、落ちつくことが必要だった。実際、堀田にはほとんど拒否権があるとは思えない。しかし、彼を過剰に追い詰めてしまっては、結果がよい方向に転ぶことはないだろう。さじ加減が、重要だった。

「じゃあ、いくよ」

 彼方はインターホンを押した。しばらく待っていると、スピーカーから返答があった。

『どちら様?』

「栗島ですけど」

『ちょっと待っててくれ』

 言われた通りに待っていると、奥の玄関が開いた。そこから堀田が出てきて、こちらまで来て正門を開けた。普通なら家の主人がすることではない。家政婦などはいないのだろうか。それとも、今日の話は誰にも聞かせたくないから出払っているのだろうか。

 門から中に入ると、洋館の異様さがより目に迫ってきた。アーチを描いたファサード、イオニア式の柱などは、かつてならばさぞ威光を放っていただろうと思う。しかし今ではほとんど廃屋のように、その建物の力が衰えていた。

 堀田について玄関まで行く。彼はどこかおどおどしていて、二人の目を見ようとしなかった。一昨日に彼方に言われたことを考え詰めてまいってしまっているのだろうか。それは、これから話せばわかる。

 玄関から建物の中に入ると、外から見たよりも広いように感じられた。廊下を彩るランプや、赤みがかった壁紙などは、外装と比べてよく手入れされているようだ。天井が高くて、靴音がよく響いた。

「悪いんだが」

 堀田はこちらを見ずに言った。

「手荷物をそこの棚に置いてくれないか」

 右を見ると、木製の棚が設置されていた。

「どうして?」

 彼方が問うと、堀田はばつが悪そうにした。

「話を録音されたくないんだ。今の携帯はそういう機能があるんだろう」

 その用心深さに、雪乃は少し寒気を感じた。そして、より緊張が深まった。彼方は雪乃に、いいだろ?と言うと、自分の携帯電話を棚に置いた。雪乃もそうした。今日は堀田と和解しようというのだから、彼に無用な警戒を与えるのは避けるべきだった。

 また堀田について歩いていく。靴を履いたまま人の家に上がるというのは始めての経験だったが、ここはどこかの博物館のようで、家という感じはしなかった。幅の広い廊下の所々に花瓶やつぼが飾られていて、家の見た目にまったく無頓着というわけではないことがわかった。外観が荒れ放題なのはお金がないからだろうか。たしかに、一教師の給料でこの館を維持するのは大変だろう。

 一階の表玄関からそう遠くない部屋に二人は案内された。そこは、大きな長方形のテーブルが中央に置かれた、広々とした部屋だった。大きな暖炉がすぐそばにある。キッチンにも通じているらしく、食堂なのだということがわかった。ドアがいくつもあり、目もくらむような館の大きさを感じた。

 壁の近くにはあのエリカという花の鉢が飾ってあった。これを彼方の母親が見たらどう思うだろうか。

「そこに座っていてくれ」

 彼方と雪乃は隣り合って、テーブルの端っこに座った。あまりにも広いので、落ち着かなかった。

「すごい家だな。こんな金があるなら……」

 彼方はつぶやいた。彼がまだ堀田を許すことができないのは当然である。なぜ堀田は結婚詐欺などという暴挙に出たのだろうか。その時はすでに教師をやっていたのだろうか。

 堀田はティーカップを三つと洋菓子を盆に乗せて現れた。おとなしく座っている二人にそれを配ると、自分も斜め前に座る。雪乃は、これには手をつけまいと思った。なんとなく、そういう場合ではない気がした。

「さて」

 堀田は紅茶を一口飲んでから、今日始めて彼方をまっすぐ見た。

「なにから話せばいいのか……」

 それがわからないのはこちらも同じだった。そもそも今日はなにを決めるために集まったのか、それが判然としない。

「じゃあ、まず一つ聞いておきたい」

 二人がまごついているのに業を煮やしたのか、堀田は切り出した。

「私を告発しないというのは本当なんだな?」

 彼の関心の焦点がそこに合っていることが、少し悲しかった。まずは、彼方とその母親に謝るべきではないのか。

「告発はしない。そのかわり、母親に会ってもらうよ」

 堀田は安堵したように息を吐いた。

「そうか、そうか」

 堀田はまた紅茶を口に含んだ。心の底からほっとしているようだ。他に言うことはないのだろうか。そう思っている雪乃の視線に気づいたのか、堀田は弁解するように言った。

「いやいや、私は反省しているんだよ」

 彼方は黙って彼を見た。

「あのことは本当に後悔している。きみたちには悪いと思っているんだ。でも信じて欲しい。あの人に子供ができていたなんて、私は知らなかったんだ」

 調べればすぐわかることである。それをしなかったことが、すでに罪悪だ。彼方はなにも言わない。堀田は右手で頭を押さえて、少しうなだれた。

「最初はあの人と結婚するために戻るつもりだったんだ。本当だよ。でもいろいろあってね。わかるだろ?大人にはいろいろあるんだよ」

 子供だましの言い訳だと思った。そんなことで彼方たちが納得するとでも思っているのだろうか。だが、彼方がまだ黙っているので、雪乃はなにも言わなかった。

「私はね、あの頃確かに金に困っていた。親に見捨てられたんだよ。毎日食べるものにも困る調子だった。だから女性に頼るしかなかったんだ。自分でも情けないと思うよ。でもね、生きるっていうのは大変なんだ。騙すつもりなんてなかった。結果としてそうなってしまったのは残念だけど」

 雪乃は怒鳴り出したくなっている自分を抑えた。怒るのは彼方であるべきだ。しかし彼は表情一つ動かさず、じっと話を聞いている。堀田の同情を誘おうとするような態度には我慢がならない。しかし、確かにここで起こってはすべてが台無しなのだ。彼方の冷静さに雪乃は感服した。

「私の実家は金持ちでね。この館も相続したんだよ。今はあまり金には困っていない。でもね、私は昔から家族に疎まれていたんだ。私は昔からなにをやっても駄目でね。親からはまったく期待されていなかった。落ちこぼれとよく陰口を叩かれていたよ。そんな自分が嫌だったね。周りにも反感を抱いていた。ある日父親と喧嘩をしたんだ。そうしたら家を追い出されてしまった。おかしいだろ?兄弟だってしょっちゅう喧嘩していたのに、いい大学に入れてもらえて、事業の頭金も出してもらえていたんだよ。途方に暮れている時に、きみのお母さんに出会った」

「母のことはどう思っていたんです?今はどう思ってるんですか?」

 彼方のそう言う声は静かだった。堀田を責めるような調子ではない。堀田ははっとしたように彼方を見ると、軽くうなずいた。

「とてもいい人だったよ。あの人も、私と同じように家族と上手くいっていなくてね。だから気が合ったのかな。今でもよくあの人のことを思い出すよ。本当だ」

 しかし、彼は別の女に『エリカより好きだよ』と言っていた。彼方の母親にとっては二人の思い出だったはずなのに。

「そうですか」

 彼方は言った。

「それじゃあ、これからどうしてくれるんですか?あの人は今気が変になっています。あなたがまだ帰ってくると思い込んでいるんです。あの人と会って欲しい。あの人からあなたの影を取り去って欲しいんです」

 話の核心だった。堀田がどういう反応を示すのか、固唾を飲んで耳に集中した。堀田は妙な笑みを浮かべて、両手を軽く広げた。

「もちろん会うよ。それがきみたちのためになるんだったら」

 雪乃と彼方は顔を見合わせた。

「きみたちの気が済むまで、なんなら彼女の精神がまともになるように協力しよう。知り合いにいい精神科医がいるんだ。すべてがいいようになるようにしよう」

 意外な返答だった。雪乃は胸を撫で下ろした。

「本当ですか?」

 彼方が言う。

「本当だよ。私にできることならなんでもする」

 彼方の顔も、晴れやかになっていった。今日ここまで怒りを抑えてきたことが、功を奏したのかもしれない。これは彼方の勝利なのだ。

「紅茶が冷めてしまったね。入れなおしてこよう」

 堀田はティーカップを回収して、彼方の背後にあるキッチンへと姿を消した。

 その瞬間、雪乃は彼方の手に取りすがっていた。

「よかったね、彼方くん」

 彼方は少し頬を染めた。

「うん。とりあえず上手くいきそうだ」

 しのぶの思いも、これで叶う。彼方をせき立てて、決意させたしのぶは、彼方にとっては本当に神なのかもしれない。彼方の顔は、これまで見たこともないくらいに清々しかった。目元は強く、口元には余裕が溢れていた。これですべてが解決するように思った。しのぶの描いたハッピーエンドに近づいているのだ。

「あ」

「どうした?」

「危ない!」

「うわ!」

「痛い!」

 背中に鈍痛が走った。上に彼方が覆いかぶさっている。粉々に砕けた椅子の破片が顔の横にあった。

 堀田がなにか長いものを持って立ちはだかっていた。初めは斧かと思った。だが違う。それは大振りのハンマーだった。

「なにをするんだ!」

 彼方は叫んだ。すぐに起き上がる。雪乃も起き上がる。なにが起こった?

 堀田の顔を見ると、雪乃に戦慄が走った。それは、狂気の形相だった。目は飛び出そうなほど大きく開けられ、口は肉食獣のように荒くかみ締められていた。顔に皺が寄り、ぴくぴくと痙攣している。

「死ねえええええ!」

 堀田はハンマーを振り下ろした。彼方は雪乃を押す形でそれを避ける。ハンマーは床を突き破った。

「やめろ、やめるんだ!」

 堀田はさらにハンマーを振った。置いてあった鉢がはじけとんだ。彼方は雪乃をかばうようにしたあとずさる。

「落ち着け。自分がなにをしているのかわかってるのか!」

 彼方は叫ぶ。

「うるさい!お前らは俺をはめようとしてるんだな!警察に売ろうとしてるんだな!」

 またハンマーがこちらを襲った。彼方はまた雪乃を手で押して後ろに下がる。そして、暖炉から火かき棒を抜き取った。それを構えて、堀田に対峙する。

「それはなんだああああ!俺を殺そうっていうんだな!憎んでいるんだな!」

「違う!俺はあんたを告発しないし、殺しもしない!それをしまってくれ!」

 堀田はこちらににじりよってくる。その足元を見ると、エリカの花が踏みつけられていた。彼方はそれを見て悲しそうな顔をする。

「俺は……俺はあんたの息子なんだ!息子なんだよ!」

 悲痛だった。今まで彼を縛り付けていたものが、このような形で牙をむくなど、これ以上の悲しみはあるのだろうか。どうしてこうなる?あんなに友好的に話が進んだのに……。

 堀田はじりじりとこちらに近づいて、殺すチャンスをうかがっているようだった。さっきの様子を見れば、ためらいがないのがわかる。確実に二人を殺すチャンスをうかがっている。

「桜庭、逃げろ!」

 彼方は言った。

「でも……」

「逃げて助けを呼んできてくれ!」

 雪乃は決意しなければならなかった。それが最善の方法だと、自分でもわかっていたから。

「わかった!彼方くん、気をつけて!」

 雪乃は後ろに向かって走り出した。

「待てえええ!」

 堀田はハンマーを振るった。彼方はそれをよけて火かき棒を振り回す。

 雪乃は後ろを見るのをやめて、玄関に走った。何度も転びそうになりながら、まっすぐ出口を目指した。そこまでようやく到達すると、棚を見た。ここに携帯電話が……。

 ――ない!

 棚はからっぽだった。多分キッチンに行くふりをして堀田が回収したのだろう。それならば、と玄関に手をかける。

 開かない。

 これが、堀田が周到に計画したものだということがわかり始めていた。なんという執念深さだろう。雪乃は反対方向に向かって走った。食堂を通り抜けるとき、まだ彼方が無事なのが見えた。

 窓から出よう。

 廊下を抜けると窓があった。しかしそれを見て雪乃は呆然とした。

 窓には鉄格子がはまっていた。

 雪乃は窓を開けてそれを掴み、ゆすってみるが、外れそうにない。強盗対策だろうか。それにしても用心深すぎる。堀田は元からパラノイアだったのか?

 そこかならはなれて、大きな階段の下を横切って近くの部屋のドアを開けようとした。だが鍵がかかっている。どこかの部屋に鉄格子がない窓があるに違いない。雪乃は片っ端から部屋のノブに手をかけていった。だがどれもびくともしない。

 早くしないと、彼方が!

 焦ってくると、思考が鈍ってくる。彼方くん、無事でいて!

 いくつめのドアだろうか、ようやく、開いているものを発見した。雪乃は一気にそれを開け放った。

 そこは薄暗かった。コンクリートに囲まれており、壁にはダンボールが積まれていた。これは倉庫かなにかだろうと思った。見ると、上方に小さな窓があることがわかった。そこに行き、背伸びしてみるが、届かない。雪乃はそばのダンボールを懇親の力でもって動かした。そこに足をかけて、窓にも手をかける。開くと、鉄格子がなかった。いけるかもしれない。雪乃は一生懸命よじ登り、窓を抜けようとした。

 しかし、肩がつっかえた。

 窓が小さすぎる。どうにか抜けられないかともがくが、もがけばもがくほど体がはまり込んでしまうようだった。

 雪乃は大声を上げた。

「誰か!助けて!」

 しかし、見たところ隣家は遠い。この館は大きすぎるのだ。

 食堂の方で、大きな音が鳴った。

 彼方くん!

 雪乃はその拍子に地面に叩き落されてしまった。雪乃は彼方が心配になった。火かき棒とハンマーでは勝負にならない。彼方が死んでしまったら……。

 彼方と合流しなければならないと思った。

 雪乃は念じた。通じるはずだ。彼方くん、私は倉庫にいる。階段の右側の、三つ目の扉のところに……。

 雪乃は起き上がった。早く来て。無事な姿を見せて!

 足音がした。

 雪乃は咄嗟に、ダンボールの影に身を隠した。ここで堀田が現れたら、彼方の生存は絶望的だろう。雪乃は、両手を握り合わせて、祈った。どうか彼方くんでありますように……!

 ノブががちゃりと回された。

 雪乃は息を飲む。ダンボールに必死にしがみついて、少しずつ顔を出し、ドアから入ってくる人を見つめた。ドアが、きい、と音を立てて開いていく。そして、男が中に入ってきた。

「桜庭」

 雪乃は物陰から飛び出し、彼方に抱きついた。

「彼方くん!怪我は?」

「大丈夫だ。堀田も体が強い方じゃないんだろう。だんだん疲れてきたみたいだ」

 ドアを閉めて、二人はダンボールに座った。

「携帯はなかったんだな?」

「うん」

「あいつは、最初から俺たちを殺すつもりだったんだ。もしかしたら飲み物にもなにか入ってたのかも……」

 彼方も雪乃もなにも口にしなかったのは幸いだった。だが携帯電話がなければ助けを呼べない。自分たちでなんとかしなければならないのだ。

 遠くで堀田の、どこだ!という怒号と、なにかが壊れる音がした。

 彼方は両手で頭を抱えた。

「俺は、俺はやっぱり狂人の子なのか……」

 彼は震えていた。雪乃はかける言葉が見つからなかった。やっと出会ったもう一人の肉親が、自分を殺そうとするなんて……考えたくもないはずだ。

「彼方くん、今は……」

「どうしてこんなことになるんだ……。俺は決断した。なのに……。しのぶはどうしたいんだ?」

 彼方ははっとしたような顔をした。

「もしかして、こっちが間違いの選択なのか?こっちがきみが死んでしまうルートなのか?」

 彼方は大きく取り乱し始めた。

「そんな馬鹿な……そんな馬鹿な……」

「彼方くん、落ち着いて」

 彼はしばらく両手で髪を握り締めてがくがくと体をゆすっていたが、徐々に落ち着きを取り戻してきた。

「いや、そんなはずはない。しのぶがこんなこと望むはずがない。あいつがきみを殺すなんて、天地がひっくりかえってもありえない。あいつはハッピーエンド信奉者だった。第一、今だって聴こえているんだから」

 今彼に聴こえている声が、彼の支えになっているのだろう。それは、想像できることだった。

 そこで、彼はなにかに気づいたかのように、雪乃を見た。雪乃は見つめ返したが、その視線の意味がわからなかった。なにを言いたいの?

「彼方くん、こんなことになって……」

「桜庭、大丈夫だ。大丈夫」

「ごめんなさい、ごめんなさい。私……」

 ドアが、大きな音を立てて蹴り破られた。

「ここかあああ!」

 堀田が中に踊り込んできた。

 彼方は火かき棒を掴んで、堀田に振り下ろした。堀田はそれをハンマーの柄で受け止める。鋭い金属音が響いた。堀田はハンマーを振り上げ、ものすごい勢いで振り下ろした。彼方は予備動作の間に体をひねっていて、間一髪のところでそれを避ける。ダンボールにハンマーがぶち込まれ、ひしゃげて飛んで行き、壁に衝突した。

「死ねああああ」

 堀田は口からよだれを垂らしている。目は赤く、髪の毛は乱れ放題だ。その容貌は異常だった。

 堀田がまたハンマーを振り上げた隙に、彼方は彼を蹴り飛ばした。堀田はダンボールの山に突っ込み、上から様々なものが彼に降り注いでいった。

「行こう!」

 彼方は雪乃の手をとって倉庫から脱出した。後ろでごそごそと音がすると、ドアの下から堀田が顔を出した。

「待て!」

 堀田の執念はまだ尽きていなかった。彼方と雪乃は走った。絨毯が敷かれた大きな階段にさしかかると、彼方は二階へと登っていった。後ろをちらりと見ると、堀田が追ってきている。

 二階へ到達すると、彼方は開いている部屋を探した。一つ目、閉まっている。二つ目、また閉まっている。

 三つ目――開いた!

 二人は部屋へなだれ込んで、窓を探した。すると、大きなベランダへ出られるようなので、そこへ走った。

 ベランダへ出ると、欄干まで走っていく。だが、そこは思ったよりも高くて、飛び降りて無事でいられるかどうかはわからなかった。

「いたああああ!」

 堀田が窓ガラスをハンマーで破ってベランダへ達した。雪乃と彼方は彼と向き合う。

 雪乃たちが追い詰められた形だった。もう逃げられない。

 堀田はもう自分が誰なのか、自分がなにをしようとしているのかわかっていないのかもしれない。結婚詐欺よりも、殺人の方が、罪が重いのはわかりきっているはずなのに。こんな暴挙に出るほど、彼は追い詰められていたのだろうか。学校にいる彼はどうだっただろう。こんな狂気の片鱗は見せていただろうか。少なくとも、生徒にそれはわからなかった。職員室の同僚は気がついていたかもしれないが。

「桜庭。きみだけは俺が守る」

 彼方はそう言った。その姿は勇敢に見えた。儚くもないし、弱々しくもなかった。

「これは俺の問題だ。俺が決着をつけなければいけないんだ」

 彼方は前に出た。

「彼方くん!」

 堀田はじっと彼方を見つめていた。どうやって殺してやろうか考えているのだろう。

 彼方は、火かき棒を捨てた。

 雪乃はびっくりして、彼の背中を見守った。どうする気なのだろう。

「堀田さんよ」

 嘲るような調子で彼方は言った。

「あんた、恥ずかしくないのか?女を詐欺にはめて、息子を脅迫して、今殺そうとしている」

 少し動揺したように、堀田は動きを止めた。

「お前はな、人間のクズだ」

 堀田のハンマーを握る手に力がこもった。彼方は彼を挑発している!

「女に依存しなければいけないような心の弱い男だ。いや、男じゃない。オカマだね」

 言いながら、彼方は雪乃から距離を取っていく。堀田の視線は彼方を追う。

「人を騙して、それで平気で暮らしている。なにが『生きるのは大変』だ。誰だって大変に決まってるだろう。みんなそれでも真面目に生きてるんだ!」

 言葉に力がこもっていく。

「あんたは自分に自信がないんだ。優柔不断で、大事なことは自分でなに一つ決められない。誰かに導いてもらわないとなにもできない」

 堀田は口を強くかみ締めている。

「人の顔色ばかり気にして、認められることばかり考えている。そんなのは大人って言わないんだよ」

 雪乃は、途中から彼方が自分のことを言っているのではないかという気がしてきた。そして、それは雪乃自信にも言えることだった。

「このクズ!」

「うがあああ!」

 堀田は彼方めがけて突進してきた、彼方は身構える。すると、堀田は急に動きを変えて、思いもよらない方向から、ハンマーを繰り出した。

 右下から上に向けられた軌道に、彼方は対処しきれかなった。ハンマーの柄に足をとられて、彼方は床に倒れた。

「彼方くん!」

 彼方は起き上がる。その瞬間、ハンマーが床にめり込む。

 雪乃は願った。お願い。死なないで!

 彼方は足を引きずりながら欄干まで下がっていった。その背を手すりにつける。

「ほら、来いよ、落ちこぼれ!」

 堀田は突進した。

 しのぶ!助けて!

 彼方はハンマーを避け、その柄を掴み取った。すると、遠心力で二人の体勢が崩れ、体重がてすりにのしかかった。二人は互いの袖や襟を掴み、もみ合う形になった。

「あ!」

 そして――。

 雪乃はしばらくその場を動けずにいた。放心しながら二人が落ちていったあたりの手すりまで歩いていった。どさりという鈍い音が聞こえたことを、ぼんやりと思い出した。

 それから、下を見た。

「彼方くん!」

 そこには信じられない光景があった。

 下の庭には、堀田が倒れているのが見える。

 そして彼方は、水道管のパイプに掴まって、そこにぶらさがっていたのだった。

「大丈夫!」

 そう叫ぶと、彼方は大声で返答し、そして手を離して庭に降り立った。

 雪乃はその場に崩れ落ちた。

 助かった。彼方は生きている。私も生きている。

 放心状態から回復すると、玄関まで行った。すると、そこには彼方が待っていた。外から開けたのだろう。

 雪乃は彼方に抱きついた。

「よかった……彼方くん」

「怪我はないか、桜庭」

「それはこっちのセリフだよ!足はいいの?」

「ああ。足払いされた時のか。ちょっと痛むけど、大したことはない」

 二人は庭に歩いていった。そこでは、堀田が倒れ、傍らにはハンマーがあった。彼方が言うには、まだ息はあるらしい。

 これですべてが終わった。

 胸を撫で下ろしていると、遠くからサイレンが近づいてくるのがわかった。

「早いな。誰が通報したんだろう」

 彼方は言った。

「しのぶが助けてくれたのかな」

 ふと、水が館から落ちてきているのがわかった。見ると、彼方の重みで外れた水道管から、小さな滝のように水が流れていた。

 しのぶがそこにいるような気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ