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学校の中庭の片隅で、壁を背にして雪乃と彼方は話をしていた。
彼方に、今までとは違った妙な声が聴こえてきたのだという。それは雪乃の周辺を描写したのではなく、彼方に直接語りかけるような言葉。しのぶ本人の、彼方に向けたメッセージ。
「今、聴こえてる」
彼方は言った。彼は今までも聴こえてきたときはすべて断ってくれているのだろう。約束をきっちり守る律儀さに、雪乃は救われているのかもしれない。いや、間違いなく救われているのだ。彼がここまで誠実でなければ、果たしてここまでたどり着くことができただろうか。
「桜庭。俺、決めたよ。決断した」
雪乃は彼方を見た。彼はどこか吹っ切れたような顔でこちらを見返した。
「堀田と和解する」
彼は決然としていた。一度決めたことは決して曲げたりしないのは、しのぶと同じである。それを知っているから、雪乃の不安は薄まっていくのだった。
「俺はしのぶに脅されてるんだよ。尻に火をつけられてる、って言った方がいいかな。和解するか、逃げるか、その二者択一は、実際は選択の余地がない。逃げたら、多分きみが死んでしまうルートに行くんだ」
「しのぶは、絶対に彼方くんが決断するように仕向けたんだね」
「そうだよ。ひどいやつだ。きみを人質にとったんだから」
彼方は言うが、ちっとも責めているふうではなかった。
「あいつはゲームが好きだった。だからこういう選択肢を盛り込むことを思いついたんだろう。片方はハッピーエンド、片方はバッドエンド。よくあるパターンだな」
しのぶの家で、三人でゲームをしたことがある。雪乃はゲームをやったことがなかったので、一番下手だった。一也は携帯ゲーム機を持っているが、それよりも外で運動して遊ぶ方が好きな子だったので、昔からそれを使って一緒に遊ぶことはなかったのだ。多分、友達づきあいのために必要になって買っただけで、彼自身興味がなかったのだと思う。
初めは操作がわからなくておろおろしていただけだったが、三人で遊んでいるうちに、雪乃もこつを掴んできて、最後には逆転して一位になることができた。そのときのしのぶの顔は見ものだった。普段彼女にやっつけられている分、その仕返しができたことですっきりしたのを覚えている。彼方は、笑っていた。
「なあ、俺たちは操り人形なのかな」
彼方は言った。
「しのぶの思ったとおりに動く、ただの駒なのかな」
人に操られる。それは雪乃はもっとも恐れていることであったはずだ。しかし、今ならはっきり言うことができた。
「そんなことないよ。しのぶは私たちを尊重してると思う。そうじゃなきゃ、選択肢なんか用意しないよ」
「そうだな」
彼方も、雪乃がそう言うことがわかっていたかのようだった。答えがわかっていて問うというのは、以前の彼方にはなかった面ではないか。彼も変わってきているのかもしれない。
「しのぶが、堀田のことを知っていた理由が、多分わかったよ」
「なに?」
「あいつは、俺の日記を読んだんだよ。日記の隠し場所は子供の頃から変わってなかったから、俺の家に来た時、俺がいない時を見計らってこっそり読んだんだろう。もちろん、例のことはしっかり書いてあった。失礼なやつだよな。でもどうしてそんなことしたんだろう」
これも、わかりきっていることだった。
「しのぶは心配だったんだよ。彼方くん、いつもよりもっとふさぎ込んでるときがあったもん。様子がおかしいのを見て、しのぶはなにかあると思ったんだよ。付き合い長いんだもんね。きっとそうだよ」
「俺はそんなにわかりやすいか」
彼方は笑って息を吐いた。気づいていなかったらしい。彼ほど考えていることが顔に出る人には出会ったことがない。
「そうなのか……」
彼は照れるように頭をかいた。彼方だって雪乃が考えていることを聴いているのだから、おあいこだと思った。不思議だが、今では恥ずかしいとは思わない。自分の心をわかってくれることが、むしろ嬉しいと思える。
「それじゃあ、堀田に会いに行こう。一緒に来てくれるよな?」
「行っていいの?」
「きみにはついてくる権利がある。巻き込んでしまったんだから、最後まで見届けることができて当然だよ」
「行くよ。私がいるのには、きっと意味があると思うから」
雪乃でなければならないなにかが、きっとある。そう信じたい。
二人は職員室へ向かった。目的地が近づいてくるにつれて、緊張が高まっていく。堀田はどういう顔をするだろうか。腐っても彼方の父親なのだから、わかってくれると思いたかった。
職員室をノックする。顔を見合わせてから、ドアを開ける。
堀田はいた。彼方は学年と組と名前を名乗ってから、堀田に用があると言って、中に入った。雪乃もついてくる。
二人の姿を見て、堀田は驚いた顔をしていた。それはそうだろう。彼方がレイプしたと思っている相手と、一緒にいるのだから。
「堀田先生。話があります」
堀田はなんとなく二人の目的を察知したに違いない。周りの教員の様子を如才なくうかがってから、立ち上がった。
「場所を変えよう」
三人は、誰もいない教室に入っていった。堀田は、中から鍵を閉めた。話がただ事ではないとわかっているのだろう。
「なんだ」
これが、彼方の父親。細面で、いかにも女性に優しそうな雰囲気。これに、みんな騙されるのだろう。今は目元がしきりに泳いでいて、動揺を隠せていない。
「例のことだよ」
彼方ははっきりとした口調で言った。その途端、堀田の顔色が変わる。苦渋に満ちたような、悪辣な表情だった。
「まず最初に言っておく。あんたが撮ったビデオは間違いだ。俺はこの子を犯してなんかいない。だから、動画をばらまいても無駄だよ」
「なんだと?」
堀田は雪乃を睨みつけた。冷や汗が出ているのがわかる。
「私たち、付き合ってるんです」
雪乃は咄嗟にそう言って、彼方の腕を掴んだ。彼方はえっ、と虚を突かれたように驚いていた。
「あの時はちょっとふざけてたんです。みんな私たちが付き合ってること知ってるし、ビデをは無駄なんです」
堀田は追い詰められているようだった。奥歯をかみ締める、ぎりぎりという音が聞こえてくる。視線で人を殺せるなら、雪乃と彼方は死んでいるに違いない。真夏のように、堀田は発汗していた。手がわなわなと震えている。
「でも、聞いてくれ。俺はあんたを告発するつもりはない」
堀田は意外そうに目を見張り、呆けたように口を開けた。
「どういうことだ?お前の望みはなんだ」
しわがれたような声で堀田は言った。
「和解したいんだ。ゆっくりと話がしたい。俺は、母親が救われるなら他のことはどうでもいいんだよ。あの人と会って欲しい。長年の夢から覚ましてやって欲しいんだ。約束する。詐欺のことは誰にも言わない」
彼方は強い眼差しを堀田に向ける。
「あんたがどういう人間だろうと、俺の父親には変わりないんだ」
堀田は考え込む様子を見せた。沈黙が時計の針をうるさくした。彼は唇を舐めて声を発しようとしたが、上手くいかないようだ。彼の頭の中にはどういう考えが巡っているのだろう。彼方の母親の思い出は浮かんでいるのだろうか。彼にとって、彼女はただ食い物にしただけの赤の他人なのだろうか。
「わかった」
堀田は言った。
「話をしよう。私の家に来るといい。場所はここに書いておく」
堀田は胸からメモ帳を取り出し、一枚破ってからボールペンを走らせた。彼方はそれを受け取る。
「それと、彼女も一緒に行くよ」
彼方の言葉に、堀田はびくっ、と体を奮わせた。
「何故だ」
「彼女にも聞く権利はある。巻き込んだのはあんただぜ」
堀田はしばらく黙ったが、観念したようにうなずいた。
日にちは明後日の創立記念日にすることにした。お互い確認すると、教室を出た。
二人きりになると、彼方は大きく息を吐いた。
「ふう、緊張した」
「彼方くん、なんかかっこよかったよ」
彼方は頭をかいた。
二人は、いったん別れることにした。選択をした以上、雪乃に危険がおよぶことはないと判断したからだった。一応帰りは送ってくれることになったが、雪乃も久しぶりに一人になりたかったので、ありがたかった。
雪乃は食堂へ行った。昼休みはもう半分以上過ぎているので、人はかなり減っていたが、まだ賑わいを見せている。雪乃はあいている席を見つけて、そこに座った。
堀田との交渉は上手くいくだろうか。彼方の母親と堀田が会う場合に、どういうセッティングをすればいいのか。会った後はどうするのだろう。定期的に堀田が会いに行くのだろうか。堀田の今の身分を明かせば、彼方の母親は学校にまで押しかけるかもしれない。問題は山積みだ。それらは彼方の希望がどれほどなのかによって変わってくる。一度会わせるだけで十分なのか、母親がまともになるまで協力させるつもりなのか。
雪乃はテーブルに突っ伏した。精神に異常をきたした人が、そう簡単にまともになるとは思えない。堀田と首尾よく約束を取り付けても、これから長い間彼方は戦い続けなければならないだろう。気が遠くなってくるが、それでも、今の彼方からは昔の暗さを感じない。彼は、成長したのだろうか。
隣に誰かが座るのがわかった。自分は邪魔だろうかと身を起こし、そちらをちらりと見た。
そこには、しのぶが座っていた。
周りの音がすべて消えた。多くの生徒たちの色が抜けていって、白黒映画のように見えてくるが、しのぶだけはカラーで浮かび上がっていた。
彼女は無表情ではなかった。生きていた時と同様、笑顔を見せている。
「しのぶ……」
自分の声が、空気に飲み込まれるように感じた。
『なに?』
頭の中に声が届く。そのあまりにも何気ない返答に、雪乃は涙が出そうになった。
時間がないかもしれない。今なら、しのぶは答えてくれそうな気がする。そうは思うのだが、なかなか言葉が出てこない。このしのぶの姿を眺めているだけで、心が満たされてきてしまうのだ。
「しのぶ、聞きたいの」
『なに?』
懸命に言葉を探した。そして、言う。
「あなたは、彼方くんをどう思ってるの?」
しのぶは笑みを強くした。
「あなたにとって彼方くんはなんなの?」
彼を好きなのだ、という回答を予想した。ずっと前からそう思っていたから。
『共感していたんだよ』
しのぶは言った。
『小学校が違うのにずっと一緒に遊んでたのは、あいつに共感してたからだよ。あいつはあたしと同じだと思った』
「同じって?」
『あたしはさ、本当は死ぬのが恐かったよ。眠れない日もたくさんあった。急に恐くなるんだよ。死んだらどうなるんだろうって、どうしようもないくらい気になっちゃうんだ。そういう時は、映画とか、小説とかの幻想の世界ってやつに逃げ込んだ。その時だけは、自分が死ぬってことを考えずに済んだから。現実から逃げたくて、フィクションの嘘を求めたんだ。それは、彼方も同じだった。だから、あいつはあたしなんだよ』
雪乃はその先が聞きたかった。
「彼方くんが、好きなの?」
しのぶはははっ、と笑った。
『どうかなー?』
はぐらかしていたが、雪乃にはわかっていた。以前のしのぶなら、即座に否定していただろうと思う。どちらにしても、しのぶが彼方に特別な感情を抱いているのは、この物語を作ったことからして、明らかだった。
『あ、彼方が来るね』
しのぶは入り口を見た。それから雪乃を見て、『ばいばい』と言った。
次の瞬間、しのぶは消え失せていた。と同時に、音と色が戻ってきた。喧騒が耳を突いて、鼻の奥には熱いものがこみ上げてきた。
入り口に彼方が現れた。彼は雪乃に意味ありげな視線を送った。雪乃にはその意味がわった。
しのぶの気持ちを当てにするのは、もうやめにしなければならないと思った。




