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雪乃と彼方は食堂で昼食をとっていた。彼方に今回初めて声が聴こえてきたというその場所で、進まない食欲を押して手と口を動かしていた。
向かい側の彼方は、なにかに襲われたようにがばっと身を硬くすると、周りの生徒の様子をぐるりと観察した。
「今、聴こえてる」
そう言う彼の目は血走っていた。昨日は一睡もできなかったのだという。それは雪乃も同じだった。『終結』という本の原稿に書かれていた自分の末路が、いつまでも頭の中でリフレインしていて、永遠の眠りまで睡眠を節約させるように雪乃に強いるのだった。
今日の彼方は雪乃に付きっ切りだった。朝は迎えに来てくれて、常に周囲を警戒しながら登校したので、周りからは不審の目で見られた。授業中なにかあったら、すぐに心の中で俺を呼んでくれ、きっとしのぶがそれを伝えてくれるからと彼方は言った。今更、しのぶの悪意を信じることなどできない。しのぶが雪乃を殺す刺客を差し向ける?もしそれが事実なら、それはもうしのぶではない。
しのぶはきっと彼方のことが好きだった。それにもかかわらず、彼女は雪乃に彼と付き合えと言った。彼女の気持ちが嫉妬に燃えていたとしたら、その行動は倒錯している。
自分が死ぬから、これからも生きていく人間が妬ましくなったというのは、決して責められることではない。死に瀕したことのない雪乃が、その心を理解できるなどというのは傲慢というものだ。あのしのぶでさえも、そうなったとしても、悲しいが、認めざるを得ないだろう。
しかし、である。それでも、しのぶを疑うということは、雪乃には、そして彼方には難しいのだった。しのぶは弱っていく中で、逆に周りを元気付けるように笑っていたのだ。その痛ましい努力が、すべて嘘だったなど、信じたくないに決まっているではないか。しのぶはいつまでもしのぶであって欲しいと思う。それが、自分自身に許可できる唯一のわがままなのだった。
彼方は休み時間まで、雪乃の教室に現れて、一緒にいてくれた。女子たちはこちらを見ながらひそひそと噂をしていたが、それを気にしている余裕はなかった。彼方はしきりに『大丈夫、大丈夫』と言っていた。それは彼自身に言っているようでもあった。
彼方が雪乃を好きでいてくれるというのはありがたかった。しかし、そのせいで彼に無理な努力をさせているのだとすると、胸が痛む。気にしないでとも言えないし、絶対に私を守ってなどとも言えない。今までになく近くにいるのに、心と心の間に最も超えがたい壁が立ちはだかっているように思えた。それは悲しい壁だった。
「桜庭」
彼方は、寝不足の目でこちらを見る。
「もう恥ずかしいなんて思わないから言うよ。そんな壁なんて俺はいやだよ」
つらそうだった。この世の誰よりもつらそうだった。
「俺は言って欲しい、『絶対に守って』って言って欲しいんだよ」
雪乃は目をそらした。
「言えないよ」
もしかしたら、雪乃だけでなく彼方まで死ぬかもしれなかった。しのぶが現実のすべてを握っているのだとしたら、それは避けられないはずだが、それでも可能性を潰しておきたいのだった。
「私が死ぬのはね、運命かもしれないんだよ」
「運命?」
男が斧で自分を殺す。それはしのぶが関わっているに違いない。しかし、そうでなくても死ぬ運命にあるとしたら?
「しのぶにも変えられないことがあるのかもしれない。私が死ぬのはもう決まってて、しのぶにはどうにもできないのかもしれない」
「運命なんて信じない。信じることなんてできない。そんなの間違いだ。間違いを受け入れることなんて、今の俺にはできない」
「どうしようもないことも、あるんだよ」
彼方は悲しそうにしたが、引き下がらなかった。
「俺がなんとかする」
彼はゆっくりと机の上に手を滑らせて、雪乃の手を触ろうとした。一瞬それが止まる。雪乃は抵抗しなかった。その手が、雪乃の手の上に重なる。
「俺はきみを守る。絶対に」
雪乃の目から涙が溢れそうになった。今だけは、甘えてもいい気がした。
「うん。守って」
予鈴が鳴った。食器を片付ける間も、彼方はずっとそばにいてくれた。肩が触れ合うと、それだけで心が繋がる気がした。
彼は教室まで送ってくれると、『くれぐれも気をつけて』と言葉を付け加えた。それが、雪乃の勇気につながるのだった。自分の死に立ち向う勇気に。
席へ座った直後にチャイムが鳴った。こんな時でも授業を受けなければならない。学生とは、奇妙なものだと思った。しのぶも前はこの学校の授業を受けていたのだ。退屈だと文句を言いながら、それでも楽しそうに、毎日を過ごしていた。
あれはいつだったか。しのぶと共有した秘密。かけがえのない思い出。
その日、雪乃は憤っていた。つかつかと廊下を歩き、部室の扉を開けると、しのぶが一人で椅子に座り、本を読んでいた。
『おお、どうした。早いね』
彼女が掃除をさぼっていることはわかっていたが、問題はそんなことではなかった。
『なんだよ、なに怒ってんだよ』
しのぶは楽しげに笑った。
『一也のことなんだけど』
その前の日、雪乃は家のリビングで一也ととりとめのない話をしていた。初めは映画の話題だったのだが、だんだんとそれが映画研究会の話へと転じていった。すると、一也がしきりにしのぶの話をするのだった。しのぶさんが、しのぶさんが、と、まるで旧知の仲のように気安く言っている。しかも、それが本当によくしのぶのことを知っている。しかも雪乃が知らないようなことも言葉の端々に見られた。
これは、雪乃の見ていないところでしのぶと会っているのだ、と勘が働いた。どうにもわからないところで知り合い同士が親しくなるというのはむずがゆい。雪乃は一也を問いただした。するとなんだか様子がおかしい。別に口に出してはばかられることでもないのに、いちいち言葉が突っかかるのだ。もしや、二人は付き合っているのではと思ったが、彼を見ているうちに、なにかしのぶに口止めされているのだということがわかった。
さらに問い詰める。そして、ようやく判明した。
『一也がどうしたって?』
しのぶは澄ました様子で言った。呼び捨て!
『スレッショルドのこと』
雪乃が言うと、一瞬しのぶの目が泳いだ。
『ああ、あの脚本のこと。そんなのもあったなあ。それがどうしたの』
『とぼけないでよ。一也が白状したんだから。あの脚本を蔵木屋に売りに行ったのは一也なんだってね』
そうなのだ。あの老婆が言っていた男の子というのは一也だったのだ。そして、彼はそれをある人から託されて、そうするように指示されたのだという。
そのある人というのが、しのぶだ。
『どういうことなの?私たちを騙したの?』
しのぶは頭をかいた。
『あちゃあ、ばれちゃったか』
雪乃はため息をついた。あれはしのぶが仕組んだことだったのだ。
『なんで一也を利用したの』
『利用っていうのは人聞きが悪いな。少し頼んだだけだよ。ほら、結構かわいいじゃん、あの子』
『ちょっと、やめてよ』
恥ずかしいことながら、雪乃は弟を取られるような気がして動揺していたのだった。
『でもどうして?あの脚本はどこから手に入れたの?』
しのぶはふふーんと鼻を鳴らした。そっくり返って、後頭部に手を回す。
『あれはあたしが書いたんだよ』
ええー、と雪乃は大声を出した。工藤猿三というのは、しのぶのことだったのか。
『どうして?なんで書いたの?』
『ちょっとしたいたずらだったんだよ。言っただろ。いつかみんなで映画を撮ろうって。そのほんの小手調べだよ』
しのぶにあんな才能があったとは。そういえば、蔵木屋に行った日、しのぶは映画では自分が脚本を書くと言って、思わせぶりな態度をとっていた。
『わざと彼方が好きそうな話にしたんだぜ。『スレッショルド』って入り口って意味だろ?いつかあいつにこのことをばらして、あたしに頭が上がらないようにしたかったんだよ』
今思えば、あの蔵木屋に残りの原稿が隠されていたというのは必然だったのだ。このときのいたずらを、しのぶはもう一度行ったということになる。
『ひどいよ。人を騙して……』
『悪い悪い。そんなに怒るなよ。かわいいもんじゃんか』
『それはいいんだけど……。聞きたいことがあるんだ』
『なに?』
『一也と付き合ってるの?』
それを聞いてしのぶは噴出した。
『さーて、どうかなー?』
『からかわないでよ』
『ブラコンこえー!』
しのぶは腹を抱えて笑っていた。その様子を見ていて、徐々に雪乃の怒りもおさまっていった。
『でも彼方くんに黙ってるの?』
『そうだよ。あいつには秘密な』
『えー。嘘つくのやだなあ』
しのぶはこちらを見てから立ち上がった。
『じゃあこうしようぜ。あたしとじゃんけんして負けたら秘密にすること』
『勝ったら?』
『うーん、じゃああんたの大事な弟には手を出さないでおいてやる』
『もう!』
雪乃はしのぶをぶった。彼女は『いてー!』と言って大げさに飛び上がっていた。
『じゃあいくぜ』
雪乃は用意をした。しのぶはまたパーを出すと思った。彼女が、パーが勝つ確率が高いと言った時から、咄嗟にチョキを出せるように練習したのを覚えている。そのおかげで、今まで全勝していたのだった。しのぶはその話をしたことを忘れているのだろうと思った。
『はい、じゃんけんぽん!』
雪乃はチョキを出した。
そして、しのぶはグーを出した。
『よっしゃ、勝ち』
初めて負けた。そのことはいいのだが、雪乃はひっかかっていた。しのぶは雪乃がいぶかしげにしているのに気づいてのか、あのいたずらな笑みを浮かべた。
そこでわかった。
しのぶは、今までわざと負けていたのだ。いつもパーを出して負けると思わせておいて、自分は気づいてないふりをする。
それは、本当に大事な時に勝つための布石だったのである。
この時、しのぶのはかり知れない部分をあらためて明確に意識した。しのぶは底の浅い、軽薄な女の子ではない。頭のいい、面白い脚本を書き上げられるような才能のある人間だったのだ。
しのぶは窓まで歩いていって、いつになく感慨深げに言った。
『映画、撮ろうな』
その望みは叶わなかった。しかし、今しのぶは彼方と雪乃と一緒に、現実を使って物語をつむいでいる。その結果がどこへいくのか、まだわからない。だが、しのぶはハッピーエンドが好きだったはずだ。それを思い出すと、期待を持たずにはいられない。
『あ、彼方だ』
しのぶが言ったので、雪乃も窓辺に寄っていった。彼方は掃除当番で、ごみ捨てをしようとしているのだろう。
彼の背中を二人で見つめた。彼方も知らないしのぶの秘密。それを二人で共有したことで、単なるしのぶの幼馴染ではない、一人の人間としての彼方が雪乃の中で育まれてきていると感じた。
彼方は、日の光に輝いていた。
このしのぶとの思い出は彼方に届いているだろうか。届いているなら、きっとそれは今明かされるべきことだったのだ。映画を撮ろう。その願いは現実になっているだろうか。彼方を主人公として、葛藤が結末へ向かうのだろうか。
しのぶ。私は信じているから。
あなたはようやくここまで来た。
あなたは葛藤の只中にいる。
それを解消するのはあなたしかいない。
あなたは選択しなければならない。
運命の選択。
それによって、すべては変わる。
よく考えなさい。
そして決断しなさい。
それが、今あなたがしなくてはならないことだ。
さあ、用意はいいだろうか。
それでは、選ぶといい。
闇と和解する。
Åルートへ。
闇から逃げる。
Bルートへ。




