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雪乃と彼方は公園にいた。あの日と同じように、彼方はジャングルジムにもたれて、そばにいる雪乃に対している。今にもしのぶが上から舞い降りて、スカートを翻すのではないかと思われるくらい、公園は以前と変わりなかった。子供がいない、ひなびた光景が郷愁を誘った。
彼方は『カーサの中心』というメッセージの謎を解明した。答えは、三人で『スレッショルド』という脚本のことを調べにいったあの蔵木屋にあると、彼は言う。
昨日しのぶは『カーサの中心に猿がいる』と言ったが、その猿とは、『スレッショルド』の作者だという『工藤猿三』のことらしい。そして『カーサ』とは、『カ』から『サ』までのことであり、蔵木屋の陳列棚の一部を指している。つまり工藤の『ク』がその棚の中心のあたりにあるということだろう。だから、あの店で工藤猿三の本を探せば、しのぶの残した原稿を発見できるはずである。
「多分当たりだよ、桜庭。工藤猿三のことが、今聴こえてきている」
彼方は言った。その面持ちは、それとは別に、これから話さなければならないことにまだためらいを感じているように緊張して見えた。
「聴こえてくるってことは、早く言えってことかな。わかったよ、言うよ」
彼方は昨日の約束を果たすために口を開く。隠していた真相の残りとはいったいなんなのか。雪乃は息を飲んだ。
「俺は堀田に会いに行った。これはもう言ったよな。そこで、時間を欲しいと言われてそれを許してから、俺はもう一年以上あいつを放置している。でもそれには理由があるんだ」
ただ勇気が出ないというだけで、彼方が堀田を放っておくとは思えない。やはり理由があったのか。
「俺はもう一度あいつに会いに行った。決心がついたか聞こうと思ってね。すると、堀田は勝ち誇ったように妙なことを言うんだ」
ここで彼方は話を止めた。まだ躊躇している。
「ねえ、教えて。なんて言ったの?」
彼方は深く息を吐いて、雪乃を見た。
「俺が、女をレイプしているところを見たって言うんだよ」
「え」
そんな馬鹿な。冗談にもならない。彼方がそんなことをするはずがないではないか。
「もちろん俺はそんなことしたことないし、したいとも思わない。そう言ったんだけど、あいつは証拠を掴んでいるって言うんだ。根も葉もないことに証拠なんてあるもんかと思うんだけど、あいつはレイプしている場面をビデオで撮影したって言い張った」
「はったりじゃないの?」
「うん。俺もおかしいと思いながら、その動画を見たんだ」
また彼方は口ごもった。まったくおかしなことである。身に覚えのない犯罪行為を撮影されたなんて。いったいどういうことなのか。じれったくなってきて、強い口調で雪乃は言う。
「それで?はっきり言って」
「その、俺がレイプしたっていう女が……」
「誰なの?」
「桜庭。きみだって言うんだ」
「私?」
意表を突かれて、雪乃は戸惑った。もちろんそんなことをされた覚えはない。人違いに決まっている。彼方も雪乃も、別の人間と取り違えているのだ。
「俺もそう思ったよ。でも動画を見たら、気が遠くなっていくようだった。たしかに、俺ときみがそこに映っていたんだ」
「嘘」
「本当だ。思い出してくれ。部室でのことだ。きみは向こうを向いていて、俺は上半身が裸のまま、後ろからきみに飛びつく。きみは悲鳴を上げて、『嫌だ』とか『助けて』とか叫ぶ。俺は『静かにしろ』と言う。きみは『刺さないで』とまた叫ぶ。俺は暴れるきみをそのまま押し倒して、馬乗りになる」
「まさか……」
「そうだ。あの蜘蛛退治の時に部室であったあの馬鹿らしい騒ぎのことだ。堀田はそれを撮影してた。映像は、俺がきみを襲っているようにしか見えない」
微笑ましい思い出として残っている、しのぶのいたずらの記憶。それが、今になって成り行きに大きな影響を及ぼしている?
「普通なら笑ってしまうところだけど、その時はそうはいかなかった。堀田はその動画を使って俺を脅したんだ。これをばらまかれたくなければ、詐欺のことは黙っていろって。堀田は、俺に詐欺の罪を糾弾されてから、俺の周辺を探って弱みを探していたんだ。あの蜘蛛退治の時も、俺たちを遠くから見ていた。部室に戻った後開いているドアから覗いてみると、俺がきみを襲おうとしている。すると、近くにカメラが都合よく置いてある。それをとって、咄嗟に撮影を始めたんだ」
「カメラがなくなったのって、もしかしてそのせい?」
「そうだよ。あいつはそのままカメラを盗んで、俺のレイプの証拠にしてしまった。俺は、どうにもできなくなった」
彼方は、その蜘蛛騒動のことを雪乃が思い出した描写を聴いていたと言っていた。その後に旧日本兵が堀田のところで消えたのを聴いて、その二つを結びつけて、しのぶはこのことを言っているのだと確信したのだろう。
「堀田は笑ってたよ。とても嬉しそうだった。その顔はこう言ってた。『なんだ、お前も仲間じゃないか』ってね。屈辱だよ」
強姦魔の汚名を着せられることと、自分の家庭を改善させることを天秤にかけなければならないとは、どれほどの苦痛を伴うのだろう。彼方は今まで悩んだことは、決して一時期の気の迷いなどではないはずだ。誰の父親が母親を詐欺にはめる?誰が実の父親から脅迫される?誰の母親が、その父親ばかりを思って、自分の子供を顧みようしないのだ。
しのぶが、彼方を心から心配していたのは、きっと昔からだろう。ずっと彼方を見続けて、どうにもできない自分にもどかしさを感じていたのではないか。だから現実を小説に見立てるような大掛かりなことをしてでも、彼を救おうとしたのではないか。
詐欺師とレイプ魔、どちらの罪が重いのだろう。しかし、少なくとも彼方はそのどちらでもないのだ。
「違うんだよ、桜庭」
彼方は苦しそうに顔を歪めた。それは、昨日見たコートの男の、申し訳なさそうな表情とそっくりそのまま同じだった。
「俺はいいんだよ。レイプなんて濡れ衣だし、後ろ指差されたって、堀田を放っておくよりはマシだ。でもきみはだめなんだよ。きみがレイプされたなんていう噂が広まることはあってはいけない。きみは優等生で、誰からも好かれてて、みんなの憧れなんだ」
「そんなこと……彼方くんのためになるんなら、私……」
「駄目なんだよ。きみだってわかっているだろう?残酷な人の噂の餌食になることが、どれだけ恐ろしいことか。女子がどういう話をしているか知らないけど、きみにだって想像がつくはずだ。それに、男子からはことあるごとに嫌らしい目で見られる。俺の母親が、今まで周りからどういう目で見られてたか、わかるか?売春婦だって言われてるんだぜ?もちろん本当に売春婦だって勘違いしているわけじゃない。事情はだいたい知っているくせに、金をもらったんじゃなくて騙し取られたんだって知っているのに、男の後をいつまでも追いかける下等な女だって噂をするんだ。理不尽だよ。あいつらはただ悪口を言ってストレス解消したいだけで、対象はなんでもいいんだ。きみがその対象になってはいけない。絶対に」
彼方は、自分が一番大変な状況に置かれているのに、真っ先に雪乃の心配をしてくれている。責任がのしかかってくるようで、雪乃はめまいがしてきた。雪乃が彼方の足かせになっている。蜘蛛が肩に乗った時、あんなに取り乱さなければ。もっと冷静に対処していれば。後悔してもしきれなかった。
「そうじゃない、桜庭。俺の問題なんだ。俺が、耐えられないんだ。きみがレイプされたなんて。しかも俺に……」
人のことばかり気にしている。それは自分も同じなはずなのに、その性質はまったく違っていると思った。彼方は確固とした主体性を持った上で他人を認識している。しのぶだってそうだ。いつも人のことばかり言っていたけど、しのぶのような人間は他にはいない。あの時もそうだった。しのぶが病室で……。
病室で……まさか。
「彼方くん、私、わかったかも」
「どうしたんだ」
彼方は憔悴しきったような様子で尋ねた。彼はもう傷ついてはいけない。悩んではいけないのだと雪乃は思った。
「しのぶが私に言ったでしょう?彼方くんと付き合わないと絶交だって。しのぶの遺言」
「あれはなにかの間違いで……」
変わり果ててしまったと思ったしのぶの姿が、今になって光り輝いて思い出されてくる。
「ううん。違うよ。あれは、しのぶが全部知っていたから言ったことだよ。彼方くんが置かれていた状況も知った上で、言ったんだよ。今、私と彼方くんが付き合ったらどうなる?」
「どうなるって……」
「普通、レイプした人とされた人が付き合うのはおかしいでしょう?もし堀田が動画をばらまいたとしても、誰も本当にレイプしたなんて思わないよ。毎日その二人が手を繋いで登校していたら?昼は毎日学食で仲良く食事をしていたら?それこそ、動画はなにかの間違いなんだって思うはずだよ。実際間違いなんだし」
「じゃあ、じゃあしのぶは……」
「彼方くんを助けようとしたんだよ」
彼方はぐっと眉に皺を寄せて、目を潤ませた。初めて見た、彼方の泣き顔だった。
「でもそれをあなたに聞かれてしまって、失敗した。もししのぶにもっと時間があったなら別の方法をとったんだろうけど、それはかなわない。だから現実を変えた」
「俺に直接話してくれれば……」
「私と付き合おうとした?本当に?彼方くんきっと、そうしなかったと思う。自分の問題だって、私に気を使ったと思うよ。そうでしょう?」
「……たしかに、そうだ」
「彼方くんも知ってるはずだけど、今学校で私と彼方くんが付き合っているって噂が流れているんだよ。それってもしかして、しのぶが最初から仕組んでいたんじゃないの?蜘蛛男に襲わせて、彼方くんに助けさせたのは、疎遠になっていたあなたと私をもう一度引き合わせて、一緒にいるところをみんなに見せて、付き合っているっていう既成事実を作ろうとしたからじゃないの?それに、既成事実だけでも十分なんだよ」
「そうか……。そうだな。こんなことでもなければ、今でもきみとは離れていたと思う」
「全部は彼方くんに決心させようとしてるんだよ。堀田のことをどう片付けるのか、その決心の下地をしのぶが作ってるんだよ」
「俺の……決断……」
彼方は考え込む様子を見せた。
「しのぶは、すごいやつだな……」
すべてはしのぶがコントロールしている。雪乃の恐怖も、彼方の葛藤も、すべて計算ずくなのだ。
「まだあるよ。私がここにいる理由」
こちらを見た彼方を真正面から見据え、雪乃は言う。
「しのぶは私からあなたに言わせたいんだよ。私に言わせたいことがあって、視点に選んだんだよ。でも心から思う。彼方くん、私のことは気にしないで、堀田と話をして。告発するなり、お母さんと会わせるなり、思うようにして。私は大丈夫だから」
彼方は両手で頭を抱えた。今まで見た中でも、最も悩み苦しんでいるように見えた。しのぶのお膳立てはこれですべて揃ったのだろうか。もはや彼方は決断するだけの状況に置かれている。今まで自分を縛っていたものから解き放たれるための、進歩の選択。もう迷うことはないはずだ。幸せに向かって進むほかないのである。
「だめだ……俺にはできない」
彼方はつぶやいた。
「彼方くん!」
「これは、俺自身の問題なんだ。きみを巻き込むのは……恐ろしい」
「まだそんなこと言ってるの?じゃあずっと堀田を放っておくの?本当にそれでいいの?」
彼方は叱責されたように黙りこくった。彼方はこんなに弱いはずがない。
「しのぶは、もう一人の自分を相手にすると、永遠に決着がつかないって言ってたよね。それを打開するには、自分の闇と和解するしかないって。彼方くん、言い訳してるだけだよ。自分と向き合うのが恐いんじゃないの?前に、本当のことを受け入れないと前に進めないってあなた言ってたじゃない」
彼方は軽く首を振った。
「そうだよ。俺が自分を信じることができないのは認める。間違いは受け入れなきゃいけない。でも、だからこそ踏み出せないんだ」
彼方は未知の失敗を恐れている。なにか、取り返しのつかない破滅が訪れてしまうのではないかとという予感が彼を支配しているのだ。堀田を告発したらどうなる?時効は成立するかもしれないが、学校はやめさせられるのか?復讐はあるのか?堀田と会った彼方の母親はどうなる?どういう反応をするのだ?もし堀田が動画を流出させたらどうなる?インターネットに晒されるのか?
そういった危惧が彼の頭に渦巻いているのだろう。それを想像するにつれて、雪乃もあまり強く言えなくなってきた。自分が彼方でも、きっと恐ろしいだろうと思うから。
彼方がどうするかという話は、いったんそこで打ち切りになった。これから蔵木屋へとおもむいて、しのぶの原稿を手に入れなければならない。蜘蛛男から身を守るために、未来を知るという目的は今や優先順位ががくりと落ちていて、もっとも知りたいのは、彼方が堀田と話した結果どうなるのかという情報だった。
しのぶはきっと明るい将来を用意している。彼方が幸せになる道を作って、きっと待っている。そうでなければ、しのぶではないのだ。
蔵木屋へ行くと、まだ老婆は二年前と同じようにほそぼそと営業を続けていた。相変わらず記憶力はよく、二人の顔を覚えてくれていた。挨拶を済ませると、早速工藤猿三の本がありそうなコーナーへと足を運んだ。
その棚の上部には『アーカ』『カーサ』『サータ』などとプリントした紙が貼り付けてあった。一つの棚にだいたいカからコまでが収まっているが、サ行の作者も混じっているため『カーコ』ではなく『カーサ』なのだとわかった。
調べると、あった。工藤猿三の『終結』というタイトルの本が。雪乃と彼方は顔を見合わせて、レジへと持っていった。すると、それを見た老婆は、これは売り物ではないのだと言った。誰かが勝手に棚に混入させていたのだろうと言う。これはしのぶに違いなかった。いったいいつの時点から、しのぶは計画を練っていたのだろう。入院してからでは少し遅い気がする。
その本をくれるというので、ありがたく受け取って公園へと戻った。ベンチに座り、拍子をまじまじと見つめた。無数の蜘蛛の絵が前面に印刷されている。彼方は嫌な顔をした。
「じゃあ、見ようか」
まず彼方が見ることにした。書いてあるとしたら、彼方に関することだろうから。
本を開き、彼方は読み始めた。最初のうちはすいすいとページをめくっていく。おそらく、もうすでに聴こえてきたことが書いてあったのだろう。それから彼は手を止め、ページを凝視した。なにかあったのだろうか。
彼方の顔をよく観察していた雪乃は、その変化を敏感に察知した。
それは驚愕だった。
まず目を見開き、顔色が悪くなり、汗をかき始めた。そした、手が震え出した。様子がおかしい。
「どうしたの?」
「そんな……馬鹿な……」
彼方は雪乃を見た。その目は、まるで死んだ子供を見る親のようだった。
雪乃は直感した。本には、雪乃のことが書いてあるのだ。
素早く、雪乃は彼方の手から本を奪い取った。
「桜庭!」
彼方は悲鳴に近い声を上げた。雪乃はかまわず、ページに目を走らせる。
「桜庭!駄目だ!」
『一瞬、体を強くぶたれたような衝撃が走ったかと思うと、視界に火花のが散った。目の前の男は、赤い液体を滴らせた斧を持って、悲しそうな顔をしていた。左腕を、暖かいものがとめどなく流れていくのがわかった。頭をそちらへ傾けてみると、自分の左の胸が真っ赤な血で染まり、死のしるしとしてそこにあることに気づいた。
次の瞬間、雪乃は両膝をついていた。そして、その場にうつぶせに倒れ伏す。地面に大量の血がしみこんでいくのをかすんでいく目が捉えた。血は暖かいのに、凄く寒く感じた。痛くはなかった。ただ眠かった。
まどろみが死へと変わるとき、雪乃はすべてを後悔した。心は、消えていった』
その後は空白である。
「桜庭……」
雪乃は呆然として彼方を眺めた。
私が、死ぬ?
「桜庭、大丈夫だ。こんなの間違いだ。しのぶがこんなこと望むはずがない」
「私、死ぬの?どうして?」
「聞くんだ!大丈夫だから。俺が守る。絶対に死なせない!」
彼方は雪乃の肩を強く掴んだ。思考のほとんどが消し飛んでしまった。
しのぶ。どうして?
それがあなたの望みなの?




