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雪乃は自室のベッドに寝そべって、時間を忘れるほど彼方を思っていた。彼はなにかを隠している。雪乃にいえないような、そして事態の確信に迫る秘密を持っている。
思えば、今日の彼にはどこか違和感がつきまとっていたように思う。なにか重要なことを避けて喋っているような、そんなじれったさがあった。彼方は自分が主人公なのだと言い、しのぶが自分に個人的な問題を突きつけているのだと断言したが、旧日本兵が堀田の場所で消えたこと、蜘蛛男の顔が彼方だということだけでそこまで確信できるものだろうか。もしかしたら、今まで彼に聴こえてきた声の中に、もっと重要な要素があったのかもしれない。彼方が主人公であることや、物語の目的をほのめかすような描写が、どこかに示されていて、それを元に彼方は自分の運命を悟ったのかもしれない。だが、声が聴こえない雪乃にはそれは確かめようがないので、悶々と考えることしかできないのだった。
自分はなぜ視点に選ばれ、しのぶの計画の一部に組み込まれたのだろうか。そもそもどうして蜘蛛男が雪乃を襲ってきたのかという大本の問題がまだ解決されていない。それも彼方にはわかっていて、なんらかの理由で話していないというのだろうか。
自分はなにをすればいいのだ。雪乃はただ巻き込まれたままで流されていく自分自身に納得がいかなくて、明確な役割を求め、考えを巡らせた。しのぶはおそらく彼方に焦点を合わせて、彼を炊きつけようとしているが、それはもちろん彼方のためを思ってのことだろう。自分が死んでいくとわかっていたしのぶは、彼方の心に根深く巣食う闇が気がかりで、どうにか助けてやりたいと願ったのだ。できるならば、自分でもそうしただろうと雪乃は思った。
だが、彼方の推測が正しいなら、しのぶには現実を創造する超能力があるということになるが、それならば手っ取り早く彼の悩みを取り除く形で力を使えばいいのではないかという疑問が出てくる。しかし、もし出来るとしても、しのぶがそうしなかった理由はなんとなくわかるような気がした。悩みをすっぽりとなくしてしまったのならば、彼方は今までの彼方でなくなるかもしれないのだ。悩みがあったからこそ、彼は強く賢く成長したのかもしれない。だから、彼が自分で問題を解決するように仕向けることで、より彼方らしく、成長させようとしたのだろう。
これはおせっかいなのだろうか。個人的な問題に首を突っ込んだ差し出がましい行動なのだろうか。今の雪乃にはまだわからない。彼方の隠していることを知ればわかるかもしれないが、彼方の、今日のあの表情を見る限り、当分話してくれそうにないように思える。今まで雪乃は彼方の心にはできるだけ立ち入るまいとしてきた。あからさまに落ち込んだ様子を見せていても、彼がなんでもないと言えばすぐに引き下がった。しかし、それでよかったのだろうか。今までもっと深く切り込んでいれば、もっと違った方向に事態が好転していたかもしれないのに。しのぶと三人で過ごしたあの日々が、もっと濃く厚くなっていたかもしれないのに。
自分がなにをしたらいいか、それは他人に聞くものではないとわかっている。
私はどうしたいのだろう。
そもそも、彼方は雪乃にとってなんなのだろうか。映画研究会のメンバー同士。中学からの友達。本当にそれだけだろうか。それならば、これほど彼を心配し、力になりたいと思っている気持ちはどこからくるのだろうか。
今自分にできることを考えてみる。母親をなだめているときの、彼方の悲しそうな表情を思い出してみる。しのぶならこんなときどうするだろう。
自分から行動を起こさなければならない。そうしなければ、なにも変わりはしないのだ。彼方は悩み続け、雪乃は心配し続け、しのぶの思いはかなわない。本当にこれでいいのか。いいわけがない。
雪乃はベッドから立ち上がった。決心が、めらめらと喉の奥からせり上がってくるようだった。
行かなければ。
机の上の携帯電話が鳴った。それをとる。
『桜庭、なにをしようとしてるんだ』
雪乃は答えなかった。
『なんだか心配なんだ。どこに行こうとしてる?』
雪乃は電話を切った。
上着を着て部屋を出た。電話は置いていく。彼方くん、ごめんね。
音を立てないようにこっそり玄関から出ると、夜の闇が深く町を飲み込んでいた。ふくろうがほーほーと鳴き、遠くで犬の遠吠えが聞こえてきた。それ以外は極めて深閑としていて、人間の気配は家々へと閉じ込められ、広々とした迷宮のように、空気が寂しげになびいていた。
街灯が闇を食っている。それを頼りに、山の方へと足を運んでいった。アスファルトを踏む、じゃりじゃりという音がうるさいくらいに、神経が研ぎ澄まされていた。街灯が減っていくと、月明かりが変わって、行く先を照らしていった。
山へ入っていく石段を登り始めると、不穏な気配が強まっているように感じ始めた。ひやり、という冷たさが胸をよぎったが、それは雪乃の望むところだった。
石段を抜け、広々とした丘に出た。足元の草はかすかな風にざわめき、それを踏むと夜露に靴が濡れた。丘の中央まで行くと、しのぶとの思い出の中に、この丘が強い印象として残っていることをあらためて感じた。ここはしのぶとよく二人で来ていた秘密の場所で、町を展望でき、祭りの花火などにはうってつけの穴場なのだった。映画研究会ができてからは、別の場所を使っていたから、彼方は知らない。
しのぶと出会った中学一年生の時、彼女は強引に雪乃の手を引っ張ってここまで連れてきて、二人で静かに話をしていた。なんとなく他の人間を寄せ付けない、女同士の聖域のように思えた。
風が強く吹いた。髪を押さえて、町を眺めた。夜景はほとんど黒に塗りつぶされており、いよいよ孤独が募ってきた。
背中がぞくりとした。
空気が一変した。夜がより暗くなったように感じ、圧迫感のある風が後頭部をぐいぐいと押しやってきた。饐えた臭いが漂い、後ろに誰がいるのか見なくてもわかった。
雪乃は振り向いた。
丘の端に、コートの男が佇んでいた。
すでに斧を手にし、コートを風にはためかせている。月がぼんやりと彼方の顔を浮かび上がらせていて、本当に彼方を前にしているかのように雪乃に思わせた。彼は草を踏みつけ、こちらに一歩踏み出した。
雪乃は勇気を振り絞った。この時を待っていたのだ。自分の問いに答えられる者を待っていたのだ。
「あなたは彼方くん?」
蜘蛛男の動きが止まった。
「あなたは全部知っているの?」
男はなにも答えなかった。そもそも、この男は口をきけるのだろうか。それすらもわからないが、今は問いかけるしかないと思った。
「彼方くんの分身なの?それとも、堀田の?」
男はまたこちらに足を踏み出した。どこか迷うようなそぶりも見せている。こちらに迫ってくるが、気を確かに保ち、質問を続ける。
「あなたはなにを隠しているの?」
ぐんぐん近づいてくる。
「私はいったいなんなの!」
突然、感情が炸裂した。溜まっていたものが一気に外の放出されるようだった。
人の顔色ばかりうかがって生きてきた。大人の言うことはきっと正しいのだと信じて、ただ人の後をついていくことばかりを考えて過ごしていた。誰も怒らせないように、誰も傷つけないように、誰もがっかりさせないように。しない、しない、しない……。そんな消極性がなんになるというのだろう。
自分だけにできることなど、孤独を生むだけの忌まわしいものだと思い込んでいた。しかしそれが必要になった時、誰のためにも発揮できないとしたら、今までなんのために生きてきたのだ。本当に誰かを大切にするために、今必要なことがあるのではないか。
蜘蛛男は目前まで接近していた。徐々に歩行は速まっていく。斧を持ち上げて、こちらに振り下ろそうとしてくる。
雪乃は右に走り出した。男は足を止め、方向転換をして追ってくる。
「もうやめて!私を襲う意味なんてないでしょ!」
雪乃は叫んだ。
振り下ろした斧が雪乃の横をかすめた時、妙だと感じた。どうして当たらなかった?
そして見た。蜘蛛男の顔、彼方の顔が苦痛に歪んでいるのを。
どうしてそんな顔をするの?あなたはなにを思っているの?
そこでやっとわかった。
蜘蛛男に隠されていた彼方の断片が、ようやく理解できた。
雪乃は立ち止まった。そして両手を広げて、男に対峙した。すべてを受け入れるように、体全体を開いた。
男は斧を振り下ろした――。
凶器は地面へとめり込んだ。だが、雪乃には傷一つついていない。
やっぱりだ。
チャンスは今までいくらでもあった。男が女を殺すなんて、簡単なはずなのに。
雪乃は今までもう少しのところで斧に殺されるところを逃れていたのが、本当は彼がわざと外していたのだということを悟った。
雪乃は蜘蛛男を見た。初めてまともに目が合ったように思った。男はつらそうに、おびえた目つきでこちらを見ていた。その目は謝っているようにも見えた。申し訳なさそうに見えた。なにをそんなに気にしているの?あなたはなにを言いたいの?
男は腕を震わせながら、おずおずとまた斧を振り上げ、そこで動きを止めた。
ははは……。
男は力なく笑っていた。だが顔は泣いていた。
だが雪乃は動かなかった。両手を広げたままで、やるならやればいいと、目を瞑ってされるがままにした。
なにか変わるだろうか。これで彼方のきっかけになるだろうか。
沈黙が長く続いた。震える肩もしだいに落ち着いていき、死への恐怖が薄らいでくる。雪乃は、少しずつ目を開いていった。
蜘蛛男の腕を掴んで止めている者がいた。
しのぶだった。
「しのぶ……」
彼女は以前現れた時と同様に、無表情だった。
「しのぶ、私はなにをすればいいの?どうして私を巻き込んだの」
しのぶはおもむろに腕を上げて、町の方を指差した。すると、頭の中に直接語りかけるような声が聴こえた。
『カーサの中心に猿がいる』
初めての経験だった。これが、彼方が聴こえているという声だろうか。
「しのぶ、それはどういう意味?カーサってなに?」
しのぶはこちらを見た。蜘蛛男は、斧を持った腕を少しずつ下ろしていった。その表情はどこかほっとしているように見えた。
しのぶと蜘蛛男はほのかに発光した。すると、家の廊下で見たように、姿が徐々に希薄になっていき、闇に消えて行こうとしていた。
「待って!」
雪乃の呼びかけも虚しく、二人は丘の静寂に取り込まれ、いなくなってしまった。
雪乃だけが、そこに取り残され、なにか達成したような、失敗したような、複雑な後味をかみ締めていた。
雪乃は家に帰ることにした。結局、自分の行動にどういう意味があったのだろう。馬鹿だ。自分はただ自分の身を危険に晒しにいったにすぎないこと、なにかをしたいという欲求が暴走しただけだということを痛感した。わがままなのだ。彼方のためと言っても、自尊心を満たしたかっただけなのだ。雪乃は落胆した。
こっそり家に入り、部屋に戻った。すると、携帯電話が鳴り出した。もちろん、彼方からである。さっきのことが声で聴こえていたのだろう。それをとった。
『桜庭、大丈夫か』
「うん。ごめんね。私、馬鹿だ……」
『なにも言わないでくれ。わかったよ。きみの気持ちはわかった。きみの決心とか、俺をどう思ってくれているのか。俺はきみのことを甘く見ていたよ。きみは凄く、意思の強い子だったんだね』
「私なんか……」
『きみがどこにいるかわからないから助けにいけなかったよ。今後もう無茶はしないでくれ。決めたんだ。全部きみに話す』
「ほんとに?」
自分の声がうわずるのがわかった。
『うん。できるなら話したくなかった。きみを巻き込んだのは俺のせいだ。でも全部話して、謝るよ』
まるで大きな罪を犯したかのような言い方だったが、彼がそこまでのことをする人間とは思えなかった。きっと事情があるのだ。
『それと、あれの意味がわかったよ。『カーサの中心』っていうやつ』
「ほんと?」
『ああ。だから、明日そこへ行こう。その時に話す』
よかった。雪乃の心は歓喜に満ち溢れた。自分のしたことが無謀だったとわかってはいるが、物語が前向きに進み始めたことは、喜ばしいことだった。きっと目的は達成される。彼方の葛藤が解消される時が来るのだ。
生まれたときから理不尽に背負わされていた重荷を取り除くことができれば、彼方はどういう人間に成長するだろう。そしてしのぶはそれを見て、安心して眠りにつくことができるだろうか。




