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雪乃たちは、場所を変えることにして、家を出て街の方に歩いていった。その間、彼方から聞いた意外な事実をかみ締めながら、考えに沈んでいた。堀田が、今も帰りを待たれている彼方の父親だという話は、にわかには信じがたかった。確かに、二人は真面目そうな雰囲気は似ているが、顔はほとんど血の繋がりを感じさせないのだ。とはいえ、よく見てみると目元にその面影があるとも言える。どちらにしても、彼方の母親は、顔は似ていないと言っていたから、気にすることではないのだろう。
繁華街に出ると、多くの人とすれ違った。彼らには彼らの日常と悩みがあるのだと考えると、世界と隔絶された場所に取り残されたように感じた。彼方は今まで、どんなに苦しい思いをして生きてきたのだろう。おそらくたった一人の肉親の、精神の異常をどう受け止めようと、あるいは受け止めまいとして生きてきたのだろう。時折見せていた暗い表情がすべてこれに起因するとしたら、彼が前向きになるには障害が大きすぎるような気がした。哀れんでは失礼だとは思うが、彼方が急にかわいそうになってきて、言葉を失ってしまった。
公園のベンチが人で埋まっていたので、やむを得ず人通りの多いオープンカフェに腰を落ち着けることにした。ここまで彼方は無言だったが、これから雪乃に話すことを一生懸命まとめようと頭を使っているように見えた。その苦しそうなことと言ったら、筆舌につくしがたいものがあった。
聞きたいことは山ほどある。どうして堀田が自分の父親だとわかったのか。どうしてそれを母親に言わないのか。どうしてそのことをしのぶが知っていたのか。しのぶにだけは打ち明けたのだろうか?ともかく、急かさずに、彼方が話しやすいようにしていようと思った。
彼方が正面に座る。適当にアイスティを注文してから、無言が続く。焦らず、雪乃はじっと待った。
「桜庭」
「なに?」
「劇団の方はどうなってるんだ?まだがんばってるのか?」
だしぬけだった。
「知ってたんだ」
「あ、ああ……」
「もうやめたよ。ずっと前に」
「そうか……」
これは、彼方の例の癖だ。たわいない話題できっかけを作ろうとしている。彼はもごもごと口を動かしてはやめ、開いては閉じるのを繰り返していた。もう少しで、話が始まりそうだった。焦らされるようだったが、耐えた。
「雪乃~」
そのとき、歩道から声がかけられた。見ると、クラスメイトの二人組みがこっちを見ている。彼女らは、ひゅ~、と冷やかしただけで、すぐに去って行ってしまった。彼方は顔を赤くした。
「場所を変えようか」
彼は言った。
「いいよ。もう噂になっちゃってるらしいし」
彼方はうなずいた。こればかりは仕方がない。彼方が蜘蛛男から自分を守ってくれようとしてくれた結果なのだから、文句を言う筋合いはないのだ。
「やっぱり言わなくちゃいけないんだろう。今も声が聴こえてる。しのぶが言えと言っているんだ」
彼方は決心を固めたようだった。
「話すよ。まずは……退屈だろうけど、俺の話をする。自分語りは趣味じゃないけど、知ってもらった方がいい気がするんだ。しのぶは俺の心に物語の目的を隠したんだと思うから」
「うん。いいよ。聞きたいな」
「わかった」
彼方は大きく深呼吸した。
「俺は物心ついてないときから、父親のことを聞かされてたんだと思う。初めて知ったのがいつなのか思い出せないから、多分そうだ。当然、子供の俺はそれを信じてた。父親はいつか帰ってくる、どんな人なんだろう、他の子のお父さんみたいに優しいのかな、なんて楽しみにしていた。でもだんだんと、子供ながらに気づき始めるんだ。周りの反応がおかしいって。初めはおかしいのは周りの方だと思うわけだ。子供にとって母親は絶対だからね。でも心のどこかで引っかかるものを感じていた」
彼方はアイスティを飲み込んだ。息をついてまた続ける。
「その時はアパートに住んでたんだけど、あの人はその頃から言動がおかしかったから、他の住人からは疎まれていた。でも一人だけ、あの人を気にかけてくれる男の人がいたんだ。独身で、優しそうな顔だったのを今でもよく覚えてる。多分お母さんを好きだったんだろう。俺はその人によく遊んでもらっていて、いろいろなことを教わった。それがきっかけで、物事を客観的に見られるようになった。周りじゃなくて母親の方がおかしいんじゃないかって思い始めたんだ。でも引っ越すことになってしまって、その男の人とはそれっきりだ。機会があればまた会ってみたいとも思うよ」
「素敵な人だったんだね」
「うん。でもお母さんはそういう好意を受け取らなかった。『幸せからの帰還』の主人公と同じさ。堀田が帰ってくると信じているから、他の男をはねつけていた。悲しいことだよ。その映画も、俺にしつこく見せるんだ。子供なんだから意味なんてわからないんだけど、それがきっかけになって映画が好きになったんだ」
母親の影響だったのか。彼の映画好きも、悩みに繋がっているということか。
「俺はさ、子供心に、自分だけはしっかりした人間にならなきゃいけないって感じてたんだ。親が駄目だと逆に子はしっかり育つ、っていうけど、そういう原理なのかもな。とにかく俺は気負ってた。子供なのにね。小学校ではよい子に見られようとした。姿勢がいいですね、とか全員が彼方くんだったら楽なのに、とか言われる度に嬉しかった。みんなとの間にある見えない壁みたいなのを、その時だけは突破できた気がしたんだ。でもその一方で、現実逃避したいっていう気持ちもあった。小学生には重荷なんだよな、やっぱり」
真面目な彼方。誠実な彼方。常にそうあろうと努めていたからこそ、今の彼があるのかと思うと、その子供の頃の苦労を想像してしまい、心が痛んだ。
「それに、言われたことにただ従うっていうことも、そのうち耐えられなくなってきた。だってそうだろ。あの母親を見てて、信じることの意味を考えない日はないんだ。でも周りによく見られるためには信じなきゃいけない。人と上手く関わるには信じなきゃいけない。それが俺の葛藤だった」
「葛藤……」
「そうだよ。だから映画に逃げ込んだ。母親の子供の頃と同じさ。現実逃避だったんだ。フィクションは嘘だ。最初から嘘だってわかってる。だから、信じる義務から解放される気がしたんだ」
彼方はあの日『信じる』という言葉が嫌いだと言った。それは、中学生の浅い思慮から来たのではなく、魂のもっと奥深くから発せられた教訓だったのだ。そうだとすると、彼方が同年代の男の子と比べて大人っぽいのにも納得がいく。
「小学校二年の時にしのぶと出会った。圧倒されたよ。よく言えば天真爛漫、悪く言えば傍若無人だった。会ったことのないタイプだったな。映画が好きだという共通の話題もあったけど、本当はあいつの性格にどうしようもなく惹かれてたんだ。恥ずかしいんだが、今なら言える。俺は最初、確かにあいつのことが好きだった」
わかっていることだった。二人が惹かれあっているのは、近くにいる者ならすぐに気づくだろう。だが実際に直接彼の口から聞くと、その重みはまったく違っていた。やはり、彼方はしのぶのことを好きだった……。
「でも接していくうちに、恋心みたいなのはなくなったよ。いつのまにか、あんまりにも心の距離が近くなっていって、家族みたいに思えてきてしまったんだ。だから、いろいろと相談もした。あいつを見ていると、悩みなんてくだらないものに思えてきたんだ」
「全部、話したんだ」
「全部じゃないよ。中学生になったあたりで、俺は新しい不安に悩まされた。もしかしたら、俺もいつか狂ってしまうんじゃないかって思い始めたんだ。ああいう病気は遺伝するから……」
「そんな。遺伝なんて……」
「本で読んだんだよ。あれは統合失調症っていう病気だ。普通の発症率は全体の一パーセントなんだけど、親に発症者がいる場合は、それが十六パーセントにまで跳ね上がる。つまり十六倍だ。俺は恐ろしくなった」
「でも、絶対に遺伝するわけじゃないんでしょう?」
「もちろんだよ。発症率が二十倍近いって言っても、言い方を変えれば『八割がた発症しない』ってことなんだから。でも、それでも俺は不安におびえていた。見えないものが見えるようになるんじゃないか、聞こえない声が聞こえてくるんじゃないかって」
聴こえてくる……。しのぶが送った声が聴こえたとき、酷く驚いたことは想像に難くない。
「うん。初めてこの声が聴こえたとき、ついに俺も狂ったと思ったよ。すごく恐かった。それよりも前に、あのニアを助けに行った時にテレパシーが聴こえた時もそうだった。頭が混乱して、なにも手につかなくなったな。きみが思い出してた通りだよ」
「ずっと、悩んでたんだね」
「そうだな。でも、そこまではしのぶに相談してたんだ。狂うかもしれないってとこまでは。あいつは『あんたが狂うなんて百二十パーセントありえないね。元からアホだもん』なんて言ってたよ。俺が落石にぶつかりそうになった時はやむを得ず声を送ったんだろうが、本当はあいつも心配してくれてたんだと思う。あいつは人をほっとさせるのが上手いんだよ。すべてをなんでもないことのように思わせてくれる。でもあの時の、あいつの表情はきみの方がよく覚えてるだろう」
そうだ。彼方の命を救ったのはいいが、彼に狂ってしまったかもしれないという疑念を抱かせたことを後悔していたのだろう。
「問題はここからだよ。ここからはあいつも知らないはずだ。俺が、自分の父親が誰なのかを突き止めた話だ」
「堀田先生だね」
「そうだよ。俺はある休みの日の遅くに、街の店で食事をしてたんだ。高校一年の時かな。そうしたら、後ろの席に堀田がいるのに気づいた。相手はこっちがわかってなかったと思う。あいつは女と一緒だった。聞き耳を立ててたつもりはなかったんだが、声が聞こえてきたんだ。堀田は聞いていて恥ずかしくなるような口説き文句を並べ立てていた。教師のそんな姿は見たくなかったし、なんとなくいづらくなって帰ろうとした時だった。あいつは確かに言ったんだよ。『エリカより好きだよ』って」
「それって……!」
「うん。子供の頃から嫌っていうほど聞かされてた父親の殺し文句さ。俺は頭が真っ白になった。そのまま家に飛んで帰って、母親に堀田の特徴を話してみたんだ。父親はこういう見た目だったか、服装のセンスは、喋る前に『んー』と言う癖があるか、なんてことを話した。そうしたら母親は『どうして知ってるんだ』って掴みかかってきたよ。その時思い出したこともあったみたいだ。それから写真でほくろの位置も照らし合わせてみて、俺は確信した。堀田が父親だと」
なんという偶然だろう。いや、偶然とは言い切れない。彼方の母親が長年に渡って信じ続けたことが実を結んだのである。子供に繰り返し父親のことを話し、消息を追ってこの街まで引っ越してきた。それらがすべてよい方向に転んだのだ。
「でも俺は、まず堀田と会って話してみたいと思った。母親といきなり会わせたりしたらなにが起こるかわからないし、父親でなかったら、堀田の信用がものすごく傷つくだろう。だから母親には『俺にも父さんの姿が見えたんだ』なんてごまかしておいて、堀田に接触した。それが間違いだった……」
彼方の表情が急激に憂鬱に沈んだ。しばらく間があく。雪乃はたまりかねて先を促した。
「それから、どうしたの?」
「ああ……。堀田と話したんだ。初めは否定してたけど、証拠を突きつけたら、結局認めたよ。やっぱりあいつは俺の父親だったんだ。でもあいつは、まだ待ってほしい、時間が欲しいって言ったんだ。俺はそれを認めてしまった。だから……」
彼方は黙った。うつむいてなにかを考えている。
「だから?」
「それだけさ」
雪乃と目を合わせずに、彼方は言った。様子がおかしい。言おうと思っていたことを、寸前で飲み込んでしまったかのようだった。
「それだけって……それから今までなにも進展してないの?」
「そうだよ。なんとなく踏み込めないんだ」
嘘だ。彼方は嘘がつけない。彼は絶対になにかを隠している。
「とにかく」
彼方はごまかそうとした。
「今も声で『描写』されている以上、このことには意味があるはずだ。多分しのぶはこの個人的な問題を俺に突きつけてる。俺が主人公で、目的が解決されて物語が終わるんだったら、この問題を解決しろと催促していることになる。でも、どうしてあいつはこのことを知っていたんだろう。俺が、堀田が父親だと知ったことはあいつには言わなかった。なのに……」
「それに、どうしてこんな遠まわしなことをするの?口で言えばいいじゃない。しのぶだったら、はっきりと言いそうなのに。それに……」
彼方の話を聞いていて大きな疑問が発生する。
「私はどうしてここにいるの?どうして私が視点に選ばれて、蜘蛛男に狙われるの?私の役割はなに?私がいなくても成立するんじゃないの?ううん、巻き込まれたって怒っているんじゃないんだよ。ただ、彼方くんがなにか隠しているから」
彼方は、雪乃の問いに、表情を崩さなかった。多分、なにか知っているのだろう。
「ねえ、教えて。どうして彼方くんは堀田を放っておくの?どうしてしのぶはあなたの背中を押さなければならないの?お母さんが堀田と会えば、なにか変わるかもしれない。病気も治るかもしれない。ねえ、私、彼方くんの力になりたいんだよ。教えて。誰にも言わないし、ちゃんと受け止めるから」
つい、きつい言い方になってしまう。しかし、彼の力になりたいというのは本音だった。昔からずっと心配していたことが、解決されるかもしれないのだから。たまに見せる沈んだ表情がなくなるならば、どれほど彼は魅力的な人間になるだろうか。
「ねえ、お願い」
彼は目をそらす。
「私を信じて」
雪乃は彼方を一心に見つめた。彼はまだ目を合わせない。口を開けては、また閉じる。迷っているように見えた。顔は青い。息が荒い。
「彼方くん!」
彼方は肩を落とした。全身に力がないように見えた。
「桜庭、ごめん。俺は……」
彼は黙りこくった。雪乃の中ではやり場のない怒りが巻き起こった。お婆ちゃんの古本屋を片付けようと言った彼方、ニアの友達を助けるために身を危険に晒した彼方、嫌いな虫に立ち向った彼方。今は弱々しく二の足を踏んでいる。こんなの彼方じゃない。
「もういい!」
雪乃は立ち上がり、代金を置いて立ち去った。帰りながら、つらく当たりすぎたといつかのようにまた反省したが、それでも雪乃は彼方に本当のことを言って欲しかった。彼の力になれると、信じて欲しかった。でも、今の自分では、それには値しないのだと、口惜しさを覚えてならなかった。
どうすればいいのだろう。どうすれば、彼方は幸せになれるのだろう。
しのぶ、私はどうすればいいの?




