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 住宅街を歩いていくと、自宅からそれほど遠くないところで、彼方は立ち止まった。彼は一軒の家を見つめて、なにかを考えていた。

「ここは、俺の家なんだ」

 平屋建ての一軒家だった。全体は古びているが、それでも住みにくそうな感じはなく、灰色の壁、瓦葺の屋根、引き戸の玄関は昭和の匂いを感じさせた。しのぶは彼方の家は雪乃の家と近いと言っていたが、それは事実だった。しかしそれならば、なぜ今まで一度もここへ呼んでくれなかったのだろうか。

「桜庭。もしかしたらきみは不快な思いをするかもしれない。でも悪気はないから、許してくれ」

 雪乃は首肯した。誰と会うというのだろう。

「じゃあ、行こう」

 彼方は玄関を開けた。

「ただいま」

「おじゃまします」

 雪乃も靴を脱いで、上がっていった。すぐ右側が居間で、さらにその隣がダイニングになっていた。古い家の匂いがする。居間にはこたつと、ブラウン管のテレビが設置されていて、自分の家も昔はこうだったな、となつかしく思った。

「お母さん」

 彼方が呼ぶと、足音がした。すると、雪乃と同じくらいの身長の、中年女性が姿を現した。

 雪乃はどきりとした。

 女性は、包丁を持っていた。それだけならば、ただ食事の支度の途中だったのだと思うだけだが、彼女が雪乃を見た瞬間の表情の変化が、ぞっとさせるものだった。女性は眉間と鼻筋に皺を寄せ、般若の面のような強烈な怒気をみなぎらせていたのだ。

「お母さん。こちら、桜庭雪乃さん。学校の友達だよ。ほら、しのぶといつも一緒にいた」

 彼女の表情は緩んだ。

「そうなの、いらっしゃい」

 理想の母親ともいうような、朗らかな笑みだった。あまりにも急激な雰囲気の変化だったので、雪乃は大きく戸惑った。

「はじめまして。桜庭雪乃です」

 雪乃は頭を下げた。顔を上げると、また母親が目に入った。今度はまったくの無表情で、冷然と雪乃を見下ろしていた。

 なんだか、この人、少し変だ。

「少しじゃないんだ」

 雪乃だけに聞こえるように、彼方は言った。どういう意味だろう。

「お母さん、ちょっと三人で話をしないか。別に特別なことはないんだけど」

「そう。いいわよ」

 三人はダイニングに向かった。四人がけのテーブルに雪乃と彼方が並び、正面に母親が座った。彼方が会わせたいといったのはこの人なのだろう。それがしのぶとなんの関係があるのだろうか。

 部屋を見回すと、同じ花の鉢植えがところ狭しと飾ってあった。なんという名前なのだろうか。小さな花がいくつもついている。

「お母さん、包丁を置いてきなよ」

 彼方が言ったので気づいたが、包丁はこのテーブルの上にあるのだった。雪乃はぎょっとした。

「そうね」

 彼女は流しまで行き、包丁を置いて戻ってきた。

「しかしねえ、かわいい子ねえ、彼方ちゃん。しのぶちゃんもかわいかったけどねえ」

 弾むような声で彼女は言ったが、顔はまったく笑っていなかった。

「映画研究会のメンバーだったんだ。前も言っただろう?」

「ああそうね。あなたがそうだったのね」

 途端に、彼女の目がうつろになった。それから宙をさまよったり、なにもないところをじっと見つめたり、突然はっとしたように見開いたりするのだった。

「映画。映画ねえ」

 彼女は『映画』という単語を執拗に繰り返した。なにかを思い出そうとしているかのようだった。

「そういえばねえ、彼方ちゃん。あなたも最近聞こえてきたでしょう?」

 雪乃はぎくりとした。聴こえている?

「声が聞こえるでしょう?ねえ?」

 声!まさか、この母親にもしのぶが送った声が聴こえてくるというのだろうか。

 彼方を見た。すると、彼は雪乃に向かってなにやら悲しそうな顔をして首を振った。

「聞こえないよ、お母さん。聞こえてきたことなんて、ないよ」

「それはおかしいわねえ。聞こえるはずよ。なにをしているときでも、お父さんは見守っているはずなんだから。寂しくないわね?話しかけると答えてくれるし、なにをしたらいいかわからない時は教えてくれるし。ほら、今も聞こえるでしょう?違うわ、今日は水曜日よ。ねえ、ほら。おかしいわねえ。仕方ないわねえ」

 彼女は彼方も雪乃も見ていなかった。目は血走っているようで、常にさまよっていた。今日は土曜日だ。お父さんとはなんのことだろう。雪乃はだんだんと恐くなってきた。

「お母さん。聞こえない。声なんてないんだよ」

「彼方ちゃんはずいぶんお父さんに似てきたねえ。声もほら、似ているでしょう?自分ではわからないかしら」

 こちらの話を聞いていない。

「顔はあんまり似ていないわねえ。ほら見て」

 急に彼女は手を伸ばして、部屋の天井の隅を指差した。びっくりしてそちらを見てみるが、なにもない。彼女はほら、ほら、としきりに言っている。

「お母さん。あそこにはなにもないよ」

「いつになったら帰ってくるのかしらねえ、お父さん。お仕事ってなんだろうねえ。きっと今大変なのよ。うふふ、なに言っているのよ。うふふ。お父さんは昔からね、いっつもどこかへ行っていたのよ。今回は長いわねえ。俺はいつか大きな仕事をやり遂げるって、頼もしいことをいっていたわね。とっても優しくてね。少し髪型を変えただけでも、すぐにほめてくれたわ。彼方ちゃん、お父さんみたいになりなさいよ。あんなにいい男はいないんだから。そうだ。帰ってきたらいろいろと教えてもらえばいいわね。それがいいわ」

 雪乃は、彼方の母親が精神を患っていることをまざまざと見て取った。聞こえない声が聞こえ、見えないものが見える。彼女は父親の帰りを待っているらしいが、どこにいるのだろうか。もしかしたら、もう……。彼女の精神は妄想に支配されているのだろうか。夫はもう帰ってこないのに、帰ってくると信じている?

 雪乃は彼女の話を聞いているのがたまらなくなり、話題の転換を図った。

「あの、この花、綺麗ですね。なんていうんですか?」

 鉢植えを指差す。無表情だった彼方の母親は、にんまりと笑った。

「ふふふ。お父さんにはね、殺し文句があったのよ。いっつもそんなこと言ってたわ。ある日ね、話してたら、あの人『エリカが好きなんだ』って言ったのよ。私怒ったわ。エリカって誰よ、ってね。そうしたらあの人笑って『エリカは花の名前だよ』っていうのよ。恥ずかしかったわ。それからあの人、冗談めかして私のこと『エリカより好きだよ』って言うようになったのよ。なにかあるとすぐそれ。おかしいわね」

 この花はエリカというのか。だが、話をそらすことはできないようだった。

「お母さん。お父さんの話はもういいだろう」

 彼女の顔色が急に変わった。顔の皺が中心寄って、小刻みに震え出した。まずい。危険な気がする。

「お父さん……?」

 雪乃は彼女に睨みつけられ、ひるんでしまった。どうして自分に敵意が向けられるのだ。

「お父さんが帰ってくるわけないでしょ!」

 彼女は爆発した。立ち上がって手を机にばん!と叩きつける。耳をつんざくような怒号だった。

「戻ってくるわけないわ!もうあの人はいないのよ!彼方ちゃんもいなくなるんでしょう!この女についていく気なんでしょう!」

 彼方も立ち上がり、母親をいさめにかかった。

「そんなことない、そんなことないよ、お母さん。俺はどこにもいかない。ずっと一緒にいるから」

 彼の声は悲痛に響き、雪乃の胸を強く打った。彼方の悩み。それはここまで大きく彼にのしかかってくるものだったのか。どうして今まで自分はいままで気づいてあげられなかったのだろう。思い出してみれば、彼方は家の話を頑なに避けていた。注意していればわかったはずなのに。

「それもそうね」

 彼女は、またもとの無表情に戻った。映画のコマが変わるように一瞬の変化だった。

「今日は薬飲んだのか?」

「あら、どうだったかしらねえ」

「ほら、買い物に行くんだろう」

「そうね、そうね」

 母親は出かける支度を始めた。流しからコップを取り出し、錠剤を飲み下してから、部屋を出て行く。

「それじゃあ、ごゆっくりね」

 満面の笑みでそう言った。

 玄関の扉が閉まる音がすると、家が静かになった。しばらく会話はなかった。彼方の母親についての衝撃が、まだ雪乃に残っていて、他のことを考えることができなかった。

「ごめんな、桜庭。あんなに取り乱すとは思わなかった。いつもはもっとおとなしいんだけど」

 彼方は立ったままため息をついた。本当に申し訳なさそうな様子だった。

「びっくりしたけど、大丈夫」

「なあ、俺の部屋に来てくれないか?詳しく話をしたい」

 雪乃はうなずいて、彼の後ろについていった。奥のほうにある部屋のふすまを開けて、中に入っていくと、畳の間へと出た。そこには小さなテレビと旧型のDVDデッキがあり、本棚には本とDVDが並べられていた。テーブルにはノートパソコンが乗っている。テレビの上には窓があって、濃いグリーンのカーテンがまとめられていた。

 彼方は押入れから座布団を出してきて、雪乃の前に置いた。彼方はその向かい側に座った。雪乃も座る。

 彼方の口は重そうだった。無理もない。今までひた隠しにしてきたことを、初めて話さなければいけないのだから。

「話したいのは、もちろんあの母親のことだ」

 おもむろに口を開く。雪乃は身構えた。

「しのぶは知っていたんだ。よくここに遊びに来てたからな。でもきみには変に思われたくなくて、黙ってた。でもさっき見てもらった通り、俺の母親は頭が変になってる」

 雪乃は黙って聞いた。ここは口を挟まない方がいいだろう。

「狂ってしまっているんだ。これは最近始まったことじゃない。今ほどじゃなくても、俺が生まれた頃から、あの人はもう変になってた。それには原因がある。あんなことがなければ、狂ったりしなかっただろう」

 狂った、と言う度に、彼方は苦しそうな顔をした。

「なにが……あったの?」

「おおよそ察しがつくと思うけど、俺の父親のことだ。といっても、結婚はしていない。最初から母子家庭で、一人で俺を育ててくれた。だから俺は父親のことはほとんど知らない。ぼやけた写真で見たくらいだ。父親は、ある日大きな仕事があると言って、姿を消した。絶対に帰ってくるからと。でも問題なのは、そいつがお母さんから金を借りていったってことだ」

「お金に困ってた?」

「そうだよ。困ってたんだろう。付き合っている間も、頻繁にお母さんから金を借りてたらしい。結婚の約束をしてたからな。お母さんはそいつを信じてた。でももう明らかなんだよ。そいつは結婚詐欺師だった」

 詐欺師……。なじみのない響き。

「ちょっと母親の話をしよう」

 彼方は座りなおした。

「あの人は、荒れた家庭に育った。両親の仲が悪くて、母親に虐待されていたらしい。そのせいか、女性に敵意を向けることが今でもあるんだ。恐いんだろう。だからさっきもきみに失礼なことをしてしまったんだ。ごめん」

「気にしてないよ」

「そんな家だったから、あの人は常に現実逃避をするものを探していた。本を読んで気を紛らわせていたらしい。夢見がちな女の子に育っていったんだ。俺と同じかな。あの人は愛に飢えてたんだろう。いつか素敵な王子様が自分を迎えに来てくれると、本気で信じていたようなふしがある。だから、騙された」

 王子様の顔をした詐欺師。

「精神的に依存できるものを、いつも探していたんだろう。ある男が声をかけてきたとき、すぐに飛びついてしまった。優しくされたり、褒められたり、その他のいろんなことをすべて自分の幸せに結びつけて考えてたんだ。詐欺師からすれば格好のカモだったと思うよ。ずっと一緒に住んでるんだから、俺にはわかる。男は仕事で全国を回っていると言っていたけど、なんの仕事かはついにあの人にはわからなかった。だから会えない日もたくさんあっただろうが、それでも満足だった。金を貸しても、結婚できればそれでいいと思っていた。ある日、男は大きな仕事があるから、金がいると言った。それでお母さんの金を持って遠くへ行ってしまった。次に帰って来た時に結婚しようという言葉を残して。でもそいつは二度と帰ってこなかった」

「酷い……」

「最低の男だ。約束は守られなかった。でもあの人は今でも帰ってくると信じてる。十八年以上前のことなのに。詐欺師がいなくなってから、妊娠していることをあの人は知った。俺が生まれても、男は帰ってこない。あの人はたまりかねて、俺を連れて男の足取りを調べ始めた。興信所を頼ったり、あらゆる手を尽くしたけど、男の消息はこの町で途絶えてしまったんだ。だから引っ越してきた。あの人は今でも、ピンボケした昔の写真を手がかりに町中を調べて回ってる。この町にまだいるって信じてるんだ。しょっちゅう実家に電話をかけては、男から連絡がないか聞いてもいる。十八年間もずっと、だよ」

 彼方は立ち上がって押入れを開けた。なにやらごそごそとやっていると、一枚のDVDを取り出して、テーブルの上に置いた。

 タイトルは『幸せからの帰還』というらしい。とても古い映画のようで、表紙には女の人と男の人が見つめ合っている絵が描かれている。背景には――日本兵の集団。

「これって……」

「俺が子供の頃から何回も見せられてた映画だよ。戦争で死ぬことが幸せっていう価値観を持った戦時中の人が、別の幸せを知るっていうテーマの恋愛映画なんだ。主人公は女の方で相手役は戦争に行ってしまうんだけど、必ず帰ってくる、その時は結婚しようと約束した。でも、終戦しても男は消息不明のままだった。女も引っ越してしまい、もう一生会えないと覚悟したけど、やっぱりどこかで再開を信じてて、結婚はしなかった。それで最後には、二十年の時を経て再開するんだ。ありがちだけど、感動的な映画だよ」

「もしかして、私が見た旧日本兵って……」

「そう。あの人は、この映画の相手役の美青年に、俺の父親を投影していた。そう、旧日本兵に。桜庭。きみが見たのは俺の父親のメタファーだ。隠喩なんだ」

「でもどうして……」

「きみは日本兵がある場所で消えたのを見た。そして、そこにはある人物がいた。そう、日本史の堀田だ。それで俺はすべてを理解した。だって、あの堀田が俺の父親なんだから」


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