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雪が、靴の半分を濡らすくらいまで積もっていた。一面が白で、他にはなにもない。真っ白な惑星に取り残されたように、雪乃は一人で立っていた。寒くはない。ただ、見えるものだけが冷たかった。
雪乃は歩いた。後ろを振り向いても、足跡はついていなかった。自分が学生服を着ているのだと気づいても、なんの違和感も浮かばなかった。あらゆることが自然に存在しているように思えた。
突然、目の前にしのぶがいるのがわかった。
彼女は雪乃から三メートルほど距離をあけて、ぼんやり佇んでいた。雪乃は駆け寄ろうとするが、どうしてもその距離を縮めることができない。しのぶは無表情で、じっと雪乃を見ていた。
『しのぶ!』
彼女は黙っている。どうしてなにも言わないのか、どうして自分の前に現れたのか。
『どうしてこんなことをするの?』
しのぶは口を開いた。
『どうしても』
『黒いコートの男に私を襲わせたのはあなたなの?』
しのぶは答えない。
『あなたは小説を書いたの?現実を創り変えているの?』
『すべては物語』
雪乃は考えた。だがその考えは水がめからこぼれるようにどこかへ落ちてしまう。
『物語ってなに?全部あなたがやっているの?』
『物語は、人生』
『あなたの目的はなに?どうすればすべてを終わらせることができるの?』
遠い目をして、しのぶは言う。
『物語は主人公の望む目的が解消されて終わる』
風が吹いた。雪が巻き上がっていき、雪乃としのぶの髪を乱れさせた。だが依然として、白い惑星は白いままだった。足元は、暖かそうな雪だった。
しのぶは、雪乃を目で射抜いた。
『そして、主人公には最悪の敵が』
二人の距離が、ぐん、と開いた。五メートル、十メートルと離れていき、しのぶがどんどんと小さくなっていった。
『待って!しのぶ!』
空気が振動していないように思われた。声は届くのだろうか。
『いかないで!置いていかないで!』
すべてが白くなった。
雪乃は目を開けた。天井がぼんやりと、惑星の白い光景と重なった。眠気がすべてを忘れさせてしまう前に、今見た夢を記憶に刻み付けておこうと思った。
体を起こして、目をこする。しのぶが夢に出てくることは、不思議でもなんでもなかった。毎日彼女のことを考え続けているのだから。しのぶが家の前に現れたあの日から、予測されていることだった。
物語には目的がある。しのぶが昔言っていたことだ。今起きているのが物語なのだとしたら、その目的とはなんだろう。彼女はそれを見つけろと言っているのだろうか。
旧日本兵が図書準備室に入っていったときから、彼方の様子はおかしくなった。雪乃とも接触しようとせず、自分の殻に閉じこもっているように見えた。あの驚愕の表情は、しのぶが生きていた時から頻繁に見せていた暗い感情を、まるで極限まで増大させたようなものだった。彼の悩みが、今になってなんらかの岐路に立たされているということだろうか。しかし、なにが彼を苛んでいるのだ?
雪乃は一階へ降りていって歯を磨き、部屋に戻り着替えてからもう一度ベッドに座った。今日は土曜日だ。思う存分考え事ができるが、考えなければならないと急かされているようでもあった。
進展は、あったのだろうか。彼方の中になにかが影響を与えたのは確かである。しかし、その正体を知るにも、彼方が自ら口を開くまで待つしかないと思った。かつて何度も尋ねた問いを、いつか話してくれる日まで、雪乃はなにもしてあげられないのである。
ベッドに寝転んで、夢の中のしのぶを考える。無表情で、曖昧な言葉を返してくる彼女は、まるで別人だった。人間を超越しているように、謎めいて見えたのである。本当に現実を創造してしまえそうな、はかり知れないものがあったように思う。
自分はやはり引きずられているだけだ。
彼方やしのぶが出来事を牽引して、雪乃はただ見守るだけ。一年前からなにも変わらない。
携帯電話が鳴った。それを見ると、彼方からだった。
ずいぶんと久しぶりな気がする。雪乃はそれをとった。
「もしもし?」
雪乃が言うと、彼方は少し間を置いた。
『桜庭。話したいことが、あるんだ。重要なことだ』
「うん。どこかで会おうか」
『迎えに行く。待っててくれ』
時間を決めてから、電話を切った。彼は話してくれる気になったのだろうか。それはいいことなのかどうなのか、雪乃にはまだわからない。
外出用の服を着て、鏡の前で髪を整える。眉毛は変になっていないか。リップは縫ったが、唇は荒れていないか。チェックを済ませると、携帯電話のバイブで、彼方が来たのがわかった。バッグを持って、家を出る。
彼方は門の前にいた。暗い表情で、しのぶがいた頃を思わせた。私服のセンスはよく、彼の真面目な性格を現していた。
「桜庭。まずここで話しておきたいことがある」
彼方は雪乃を見た。その目はおびえているようにも見えた。
「なに?」
「まず、今も声が聴こえている。それに、きみが見た夢のことも今朝聴こえてきた」
夢までもが聴こえてくる対象になるのか。あまりにプライベートなことなので、雪乃は気後れしてしまった。
「それと、今起こっていることの、だいたいの真相がわかった」
「ほんとに?」
ついに、彼方が謎を解き明かしたのか。胸が高鳴ってきた。
「うん。まず言えることは、あの蜘蛛男のことだ」
「彼方くんの顔をした……」
「そう。もう、言うまでもない。あいつは俺の影なんだろう」
しのぶが話したユングの思想。それで説明するなら、確かにその通りのはずだ。
「もう一人の自分っていう……」
「そうだ。もう一人の自分。自分の影。それが、最悪な敵なんだとしのぶは言った」
敵。コートの男は間違いなく敵である。
「そう、間違いなく敵だ。そして、そいつは主人公の敵なんだ」
すべては物語。しのぶが創った物語なのだとしたら、当然主人公がいる。その主人公の目的が、主眼となって話は進んでいくはずだ。
「聴こえてくるのが小説なんだとしたら、主人公はきみなんだと俺はずっと思っていた。きみが襲われて、きみが助かっていく物語なんだと思っていた。でも違う。」
彼方は息を吐いた。唇を舐める。
「桜庭。多分きみは主人公じゃない。主人公は俺なんだ」
「彼方くんが?」
「そうだ。最悪の敵が主人公にとっての『もう一人の自分』で、あのコートの男がそうなんだとしたら、顔からして主人公は俺ということになる」
「でも……」
「しのぶは言っていた。『主人公』と『視点』は別なんだと。きみが視点になっているが、主人公は俺なんだ」
たしかスレッショルドのことを調べていたときに彼女が言っていたことだ。彼方の推測は十分にありうることだ。しかし、なぜ彼はそれに気づいたのだろうか。
「しのぶが気づかせたんだ。気づくように仕向けたんだ。きみを基点にして、言いたいことを俺に伝えようとした。それがやっとわかった」
彼の顔はよりいっそう陰鬱に沈んだ。話したくないということがよくわかる。しかし、彼はそうしようとしている。
「話すよ。きみには話さなければいけない。きみを巻き込んでしまったのは俺の責任なんだ」
彼の責任とは、どういうことだろう。彼になにか落ち度があるというのだろうか。
「俺の個人的なことなんだ。しのぶはそれを指摘しようとしている。回りくどい方法で、周到に。物語の目的は俺の中にある」
「彼方くん。話して、いいの?」
「わからない。でもできるだけ話す。桜庭、会わせたい人がいるんだ。会ってくれるか」
「もちろんだよ」
誰に会うのかは、今は伏せておくつもりらしい。口に出すのが億劫なのだろうか。二人は家の前の道路から、東に向かって歩いていくことになった。
彼方が鍵を握っていた。これから事態が解決に向かうことを祈るが、そうなるにつれて彼方が傷ついていくことになりはしまいかと、根拠のない不安を雪乃は抱いていた。




