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 朝のホームルームが終わっても、雪乃は一人でとりとめのない思いに耽っていた。今起こっていることはすべてしのぶの差し金で、雪乃が考えることも、彼方が言うことも、あらかじめ彼女が決めているかもしれないのだという。そんなことが果たして可能なのだろうか。しのぶは初めて会った時から、雪乃の考えを読み、その心の構造を完璧に理解していたというのだろうか。現実を創造するというのは、途方もないほどの、それこそ非現実的な能力というもので、まさしく神だけにそなわっているべきものである。

 あのしのぶが超能力者?はなはだしく荒唐無稽な話である。冗談ばかり言って、あけすけで、いいかげんなしのぶが、思った通りに未来を作り変えるられるなど、誰が想像するだろう。彼方はそうではないと言ったが、もしかしたら今までも、誰も気づかないだけで世界は彼女のために存在していたのだろうか。しのぶがいない世界は世界ではないと考えた時期があったが、それは文字通りの意味だったのだろうか。

 雪乃がしのぶの思うがままに操られているとする。あの病室で、しのぶは『誰もあんたを操ることなんかできない』と言った。それはこのことを逆に示唆していたのだろうか。操っているのではなくて、なるようになることをただ彼女が知っていただけなのかもしれない。

 人におもねり、決められたことに淡々と従う。雪乃はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。いや、それは半分嘘だ。人についていくこと、唯々諾々と賛同すること、それが、一種の快感となって、雪乃の心を満たすのは否定できないことである。そうやって生きる方が楽に決まっているのだ。しかし、そのやり方がやがて自分自身を嫌う種へと変質していった。こんなことではいけないと思った。なぜなら、そんな人間に雪乃は魅力を感じないのだから。

 ところがどうだろう。コートの男が襲ってくるという恐ろしい事態にしのぶが関わっていると知った途端、雪乃はどこか心強さを感じ、人に引っ張ってもらうことの快感を思い出してしまったのである。自分の弱さに、胸が陰った。

 蜘蛛男は、しのぶが創造したものなのかもしれない。顔は彼方で、雪乃の命を狙う殺人鬼。いたずらにしては過激すぎる。この脅威に雪乃は、自分の意思で立ち向わなければならないのだ。いたずら、蜘蛛……。混ざり合った記憶のの分子が、形になって来る。

 あれはニアが脱走する少し前だったはずだ。しのぶも、雪乃も、彼方も、それぞれがその人らしくいることができていたある日のことだった。


『なあ、見てよこれ』

 しのぶがうきうきした様子で部室に現れた。雪乃は彼方が最近観た映画のパンフレットを見せられて、いつもの通りに単純な意見を述べているところだった。またなにかやっかいな話題を持ち込んできたのかと、二人はしのぶを見た。

 彼女は、一枚のプリントを手にしていた。くすんだわら半紙をひらひらさせ、机までやってきてそれをばん、と音を立てて置いた。

『なんだこれ』

 彼方はプリントを自分の方に引き寄せて、雪乃にも見えるようにした。その表題にはこう書かれていた。

『毒グモ発生!セアカゴケグモに注意!』

 なんでも、学校で強力な毒を持つ、セアカゴケグモというものが発生したらしく、注意の喚起を促す通知が学校中で配られているとのことだった。蜘蛛を見たら絶対に近づかず、教師に連絡してほしいと、プリントには書かれていた。

『毒蜘蛛だってよ!すげーこえー!』

 どう見てもしのぶは楽しそうだった。刺されて死ぬ人が出るかもしれないのに不謹慎だと思ったが、退屈な日常にスリルを与えるには十分な事件だった。彼女はにやにやとして、彼方と雪乃を見比べている。

 なんだろうと思って彼方を見ると、彼の表情は硬直していた。顔色は悪く、プリントされている蜘蛛の写真を一切見ようとしない。

『どうしたの?』

 尋ねてみたが、彼は『別に』と言ってすました顔をしようとしていた。しかしそれは失敗していた。

『彼方、あんた恐いの?』

 しのぶは意地悪な目つきをして言った。彼方は『そんなわけないだろ』と答えたが、その前の一瞬の間がまさしく『ぎくり』といった様子だった。

『彼方くん、虫嫌いなの?』

『恐くなんてないよ』

 しのぶはぷっと吹き出して、身を震わせた。

『恐いんだろー!ひー、情けねー!』

『違う!』

 彼方は顔を真っ赤にしていきり立った。図星なのはまず間違いない。だが彼のそうした一面は、親しみ安さを覚えるだけで、評価を下げるようなものではないのだから、むきになって否定しなくてもいいのにと雪乃は思った。

『無理すんなよ。誰にだって弱みはあるさ』

 しのぶはまだ笑っている。おそらく、というか絶対にしのぶは彼方の虫嫌いを前から知っていて、からかっていたのた。酷いとは思うが、実にしのぶらしい。

『だから違うって言ってるだろ!』

『まあまあ、いいじゃない、虫が嫌いでも』

『桜庭、お前まで……』彼方はショックを受けているようだった。『よし、わかった。恐くないってことを証明してやる!』

『ほうほう、どうやって?』しのぶは心の底から楽しんでいる様子だった。

『毒蜘蛛を退治してやる!殺虫剤を買いにいこう!学校中を回って、探すんだ』

 やけっぱちになっているようにしか見えなかった。完全に恐怖が裏返っている。

『いいよ、やめようよ。そこまでしなくてもいいじゃん』雪乃は言う。

『大したことじゃない。なんにも心配いらない。なんにも』

『よっしゃ!あんたのその勇気買ったよ!じゃあ買い物に行くか!』

『えー!ほんとにやるの?』

 しのぶと彼方はやる気まんまんだったので、雪乃もしぶしぶ付き合うことになった。彼方は妙に引きつった顔で無意味に笑っていて、どうにも痛ましかった。あまりにも恐すぎて変になってしまったのかと心配してしまうぐらいだった。

 三人は学校を出て、少し離れたところにあるホームセンターへと向かった。その道すがら、彼方の口数は不自然なほど多くて、そのほとんどが虫についての話だった。彼は虫に詳しく、特に害虫の知識はとてつもなく豊富だった。恐いからこそつい気になって調べてしまうのだろう。だが彼はその知識の披露で平気であることを証明できていると思っているらしかった。そんな彼がおかしくて、雪乃は笑いをこらえるのに必死だった。

 ホームセンターに着くと、彼方はまるで敵陣に乗り込むかのような決死の顔で殺虫剤のコーナーを探した。首尾よく見つけると、かごに次々と商品を放り込み始めた。ジェット・タイプの殺虫剤、煙タイプの殺虫剤、待ち伏せスプレーなどでいっぱいになる。

『そんなに買うの?それに学校で煙はたけないと思うけど』雪乃は言った。

『足りなくなったら困るだろ!念のためだよ』

 それから彼は『蜘蛛用のじゃないと効果がないんだ』などとぶつぶつ言いながら商品を隅から隅まで物色していった。しのぶはずっと笑っていた。

 会計を済ませると、荷物はビニール袋二つ分がいっぱいになるまでになった。たかが蜘蛛を始末するだけでたいそうなことである。帰り道に、しのぶが『じゃんけんしようぜ』と例のごとく提案したが、例のごとく彼女がパーで負けて、重い荷物を持たされることになった。彼方はいつも以上にそのしのぶをはやし立てたりして、気持ちを紛らわせようとしていた。

 学校へ戻ると、彼方はジャージに着替えた。そして買って来たゴム手袋をして、マスクと帽子を装着し、殺虫剤を構えた。その風体はあまりにも滑稽で、雪乃は笑いが止まらなかった。しのぶは涙が出るまでげらげらと笑っていた。

『お前らも着替えろよ。蜘蛛が出たら動きづらいだろ。そんな装備でいたら危ない』

 しのぶと雪乃は丁重に辞退した。

 彼方は殺虫剤の他にカメラを手にした。『記録しておかなきゃな。俺が虫なんて恐くないってことの証拠になる』などと勇敢だった。雪乃が『動きづらくなるけどいいの?』と聞くと『余裕だよ、余裕』と強がっていた。

 部室からでて捜索を開始すると、他の生徒が主に彼方を見てひそひそ話しており、恥ずかしくなってきた。しのぶはまだ笑っていた。

 彼方によると、蜘蛛は虫がいるところに発生するので、虫がいそうな物陰や、蛍光灯の近くを探せばいいとのことだった。彼は少しでも物音がすると、虫がそんな音を出すはずがないのにそちらにさっ、とカメラを向けた。

 蜘蛛はなかなか見つからなかった。他の虫はいくつか見つけたし、蜘蛛の巣もたくさんあったが、殺虫剤は一度も使われずに時が流れた。廊下の隅や教室の中まで丹念に探して、時折別の部活の部室に入って行っては部員を驚かせた。毒蜘蛛を探しているのだというと、おかしなものを見るような目をされた。しのぶが適当なことを言ってその場をおさめると、いつの間にか彼方は先に行っていた。

『なあ、なんかあたし飽きちゃったよ』

 もう笑わなくなったしのぶが言った。無理もない。彼方の執着心は凄まじく、ついて行くのがやっとといった感じだったのだ。

『めんどくせえ。もう帰ろうぜ』

『おい、お前が言うから俺は証明しようと……』

『わかったわかった。もうそれはわかったから』しのぶはめんどうそうに言った。『もうこれくらいにしようって』

『俺はまだやるよ。帰りたいなら帰れ』

『じゃあ、帰ろ。雪乃はどうする?』

 ちょっと考えたが、もう少し彼に付き合うことにした。『まだいいかな』

 しのぶは『そうか、じゃあね』と手を上げると、本当に帰ってしまった。他の生徒もほとんどいなくなって人通りのない廊下に、二人がぽつりと取り残された。

『まったく、あいつは』

 それからの彼方は、情熱が急激に冷めていくようだった。結局、しのぶに挑発されたので、それに対抗するためにやったことだから、彼女が帰ると頑張る理由もなくなるのだった。二人は無言のままとぼとぼと廊下を歩いていった。

 喋らない彼方に、雪乃は困ってしまった。そういえば、二人きりになることは今まであったが、それほど長い時間ではなかったし、いつもたいていしのぶが一緒だったから、どうやって彼と接していいのか考えてみるとわからないのだった。しのぶはどうやって三人の会話を成立させていたのだろうか。しのぶがなにを言って彼方を反応させ、雪乃を巻き込んでいたのだったか。

 彼方はマスクをしていたので、表情が見えなかったが、おそらく同じ気持ちだったのだと思う。変に互いを意識してしまって、とても気まずい空気になった。

 突然、彼方は自分のことをどう思っているのかという、当たり前の疑問が浮かんだ。今更なにを考えているのだろうと不思議だったが、それは彼方が雪乃のことを好きだとしのぶが言ったことを、無意識に忘れようとしている反動なのだと思い当たった。そうだった。彼方は自分のことを……。

 それを思うと、まるで二人きりになったことに特別な意味があるかのように感じられてしまい、余計にどぎまぎしてしまった。なにかを喋らなければならないような気がするが、言ったことが変にとられたらどうしよう、という肥大した自意識がそれを妨害した。意識すまいとするほど、考えるすべての言葉が彼方に結び付けられているような気がするのだった。

『もう帰ろうか』

 彼方が言うと、雪乃は黙ってうなずいた。

 部室の前まで来て、ドアを開けようとすると、鍵がかかっていた。

『あ、鍵はしのぶが持ってるんだ』

 雪乃は思い出した。どうしようかと迷っていると、隣の部屋が開いているので、そこから繋がっている扉を使えばいいということになった。

 隣の部屋は真っ暗だった。電気をつけると勝手に入ったことを変に疑われることになるかもしれないので、消したまま部室に続くドアまで行ってそれを開けた。ドアは開けたままにした。電気をつけて、彼方は帽子とマスクを取り外した。それから着替えるというので雪乃は後ろを向いて立っていることになった。

 その間、雪乃は彼方の衣擦れの音を聞きながら、恥ずかしい空想を浮かべてしまった。なに考えてるんだ、私!軽く首を振って頭を冷やし、早く終わらないかとそわそわしながら待っていた。深く息を吸い込み、気分を安定させようとした。

『桜庭』

 彼方が後ろから呼んだ。その声の調子がやけに真剣だったので、雪乃はどきりとしてしまった。

『動かないでくれ』

 なんだろう。彼方がこちらにゆっくりと近づいてくる足音がする。どうしてこっちに来るの?なんなの?雪乃は手を握り合わせて、乱れた息を整えようとしたが、興奮が高まってきてしまう。

 雪乃はたまらず、ちらりと後ろを振り返ってみた。

 心臓が壊れそうに大きく鳴った。

 彼方は上半身が裸だった。雪乃はすぐに前に向き直って身を硬くした。唾が上手く飲み込めなかった。なにをする気なの?体中が熱くなってきて、足から力が抜けてきてかすかに震えた。

『桜庭、聞いてくれ』

 雪乃は部屋から飛び出したくなった。しのぶの言葉。『彼方ってさ、雪乃のこと好きだよ』どうして今こんなことを思い出す?これからなにが起こる?瞬きをしていないので、目が痛くなってきた。

『落ち着いて、聞いてくれ』

 落ち着くことなんてできない!なにを言うつもりなの?どうして今なの?どうして裸なの?早く言ってほしかった。できるだけ早く、楽になりたい気がした。

 そして、彼は言った。

『桜庭、肩に蜘蛛がいる』

『えっ』

 雪乃は自分の右肩を見た。すると、視界の端でもぞもぞと動くものがあるのがわかった。

 途端に、恐怖が急激に立ちのぼってきた。

『きゃああ!』

『動くな!』

 毒蜘蛛!刺されたら死ぬ。苦しんで死ぬ。この日は彼方を笑っていたが、それをこの時になって後悔した。雪乃は立っているのが辛いくらいにうろたえてしまった。

 動いちゃだめだ!

 彼方は、右手に再びゴム手袋を装着した。目が合う。彼はまるで自分が危険かのように真っ青な顔をしていた。虫への恐怖を押し殺していたのだろう。彼は慎重に近づいてくる。そして、右手を肩に伸ばしてきた。

『あ!』

 彼方は声を上げた。その瞬間、首元でなにかが動く感触がした。

『きゃああ!』

『桜庭、落ち着け!』

 彼方は暴れようとする雪乃の体を押さえつけた。雪乃は必死でもがく。

『嫌だ!助けて!』

『静かにしろ!大丈夫だから』

 首で蜘蛛がまた動く。今にも刺してくるかと、雪乃は正気を失いそうになった。

『やめて!刺さないで!』

 そこで、足がふらついた。二人はもつれ合って、床へと倒れ込んだ。背中に衝撃があったが、後頭部には柔らかいものがぶつかった。彼方が手で守ってくれたのだった。彼の顔が苦痛に歪む。

『彼方くん……』

 彼方は静かに言う。『動くなよ』

 雪乃は彼を信頼した。その右手が、首に伸びてくる。すると、蜘蛛が動いたようだ。彼方はまた手を動かす。また蜘蛛が逃げる。

それを何度か繰り返した後、ようやく彼は蜘蛛を拾い上げることができた。指で潰し、床に放った。

『もう大丈夫だ、桜庭』

 彼が言うと、一気に安堵が押し寄せた。涙が出そうになったので、なんとかこらえようとした。

『体はなんともないか?しびれるとか、そういうのは?』

『大丈夫だと、思う……』

 そう言ったところで、二人の目が再び合った。

動きが止まった。無言だった。倒れ込んだまま、彼方が覆いかぶさっている体勢になっていた。さっきの自分の妄想を恥じるとともに、それがまたわき上がってくる。彼方の上半身は、細いが、女のそれとは比べ物にならないほどにがっちりとしていた。彼方は男なのだと、改めて感じた。

 彼の息がかかった。これほどまでに近づいたことは、それまでなかった。彼の心臓の鼓動がこちらに伝わってきた。どくどくという脈動が、生命を感じさせた。

 目は合ったままだった。彼の目には熱が込められているように思われた。それにつられて、雪乃の顔も熱くなっていった。徐々に、頭がぼうっとして、なにも考えられなくなってきた。彼方の心音のリズムと、雪乃のそれが、重ね合わされるように近づいていった。二人が一つになるような、感じたことのない経験をした。自分はどうしてしまったのか……。

 彼方はすっ、と身を起こした。

『もう遅いから帰ろう』

 彼は立ち上がり、服を着始めた。雪乃は蜘蛛のときとは別の意味での安堵を味わっていた。

『あれ?』

 さあ帰ろうという間際で、彼方は言った。

『ここにあったカメラを知らないか?』

 隣の部屋へ続くドアの近くの棚に置いてあったのだという。

『なくなってる。他のところに置いたのか?』

 結局カメラは見つからず、現在に至っている。それはともかく、翌日のしのぶの態度が、二人を大いに怒らせることになった。

『ごめん!』

 しのぶは手を合わせて、へへへと笑った。

『あのプリントさ、嘘だったんだよ』

『は?』

 雪乃と彼方は呆けたようにしのぶを見た。

『セアカゴケグモなんて出てないんだよ。彼方が恐がるのを見て笑ってやろうと思ってさ、プリントこしらえたんだ。どうだった?よくできてただろ』

 けらけら、としのぶは笑った。

『しっかし、ケッサクだったよな。彼方のあの格好!』

 笑いは大きくなった。雪乃と彼方は目を見合わせた。二人の顔は鬼のようだったと思う。あれは毒など持っていないただの蜘蛛だったのである。

『てめえ!』

 彼方はしのぶの頬をつねり上げた。

『いでででででで!ごめんていってゆやん』

『絶対に許さん』

 しのぶは助けを求めるように雪乃を見る。

『うん。こらしめよう』

 しのぶは絶望に落ち込んだような顔をして叫んだ。

『助けてー!』


 あの日のことを思い出すと、笑いがこみ上げてくる。しのぶのいたずらは頭に来たが、今となってはいい思い出だ。

 しのぶは蜘蛛男を雪乃に差し向けて襲わせたのかもしれない。とても恐かったし、今でも恐いが、ずっと後になって、しのぶがあのいたずらな笑顔で『ごめんごめん』と言ってくれたなら、どんなにいいだろうと思う。もししのぶが本当に彼方に聴こえる声として、いろいろなことを示そうとしているなら、きっと理由があるはずだ。そう信じると、勇気が出てくるようだった。

 今日の授業は淡々と行われていった。学校の彼方以外の誰も、自然法則を超越した事件が起こっているなど、露とも知らずに過ごしている。友達も、雪乃の様子が以前と違うことに気づいてはいるようだが、さほど気にしてもいないふうだった。ただ、最近彼方と一緒にいるということだけは、新聞記者のようにねちっこく探ってきた。恵美が言うには、二人の仲はもはや公然のものになっているらしい。困ったことだ。

 昼休み、雪乃は一人で一階の廊下を歩いていた。午前の気だるさから解放され、午後からの憂鬱さを惜しんでいる生徒らは、エネルギーを持て余すように大声で話しながら行き交っていた。活気というものはこういうこと言うのだと雪乃は思った。パンと飲み物を両手いっぱいに抱えて歩く男子生徒、複数人集まって延々とだべっている女子生徒、窓から見える中庭では、サッカーをしているのが見える。彼らに囲まれていると、一生歳をとらないのではないかと錯覚してしまうほどに、力がわいてくるようだった。

 そろそろ教室に帰ろうかと思っていると、生徒の人ごみの中に、妙に浮いた格好をしている者がいるのがちらりと見えた。一瞬だったが、それが妙に気になって目で追ってみる。その人物は人ごみを抜けると、全貌を現した。

 雪乃は悲鳴を上げそうになった。

 そこに歩いているのは、あの旧日本兵だった。

 薄汚れた野戦服を着て、うつろな目をして、ゾンビのように歩くその男は異常に目立っていた。しかし、誰一人その男に目を向ける人間はいない。

 やはり、見えていないのだ。

 日本兵は雪乃に目もくれず、のそのそと向こう側の廊下へと歩いていった。雪乃はどうしようか迷った。彼方を呼ぶか。しかし、これはもしかしたらなにかのヒントかもしれない。しのぶからのメッセージかもしれない。このチャンスを逃してしまえば、取り返しのつかないことになるかもしれないと、雪乃は一人で後をつけることにした。周りには生徒がたくさんいるから、危険なことはないだろう。

 人や物陰に身を隠しながら、雪乃は旧日本兵を追った。歩みは遅いが、決めたところに一直線に向かうような、しっかりとした足取りだった。人が少ない廊下に行くのが見えたので、雪乃は角の壁に背を預け、そっと男を観察した。

 その廊下は行き止まりだった。奥には、図書準備室がある。男は、そのドアへと迷いなく歩いて行く。すると、止まることなく、そのまま突っ込むようにして進んでいった。

ぶつかる!と思ったところで、旧日本兵は、幽霊のようにドアに吸い込まれていった。まるで壁がないかのように、すっ、と通過したのである。

雪乃は勇気を振り絞った。確かめなければならない。

身を晒し、図書準備室まで歩いていく。たったいま男が通過していったドアに、手をかけた。ここになにがあるというのだろう。まるで雪乃を誘い出すかのように現れた日本兵。ここに、見せたいものがあるというのだろうか。

意を決して、雪乃はドアを引き開けた。

中はがらんとしていた。いるのは、資料が積まれた机の前に座っている、日本史の堀田だけだった。

「どうした、桜庭」

 堀田は怪訝そうに言った。

「あの、他に人はいませんか。誰か入って来ませんでしたか」

「いいや。私だけだが」

「なにか変わったことは?」

「いや、別に。さっきここに来たばかりだしな」

 なにもない。これはどういうことだろう。

「なにかあったのか?」

「なんでもありません。失礼しました」

 腑に落ちない気持ちを抱きながら、雪乃はそこから離れた。

 結局あの日本兵はなんだったのだ。もしかしたら、今の出来事は彼方に聴こえていない、瑣末なことだったのかもしれない。もし聴こえていればここへやってくるはずだし――。

 そう思ったところで、曲がり角から彼方が現れた。やはり聴こえていたのか。

 彼は息を切らしており、そして、虫を見たときよりも血の気が引いた顔をしていた。目がちらちらと動き、腕はぷるぷると震え、姿勢が前かがみに崩れていた。

『彼方くん、どうしたの?』

 彼方は口をぱくぱくさせた。声が出ないらしい。尋常ではない様子に、雪乃は不安になってきた。

『大丈夫?』

『そんな、そんなはずはない……』

 彼方はつぶやくと、見えていないように雪乃を無視し、図書準備室へまっすぐ歩いていった。そして、ドアを少し開いて、中を覗く。それからうつむいて、とぼとぼとこちらに歩いてきた。

『彼方くん?』

 彼方は聞こえていないようだった。雪乃とすれ違い、そして止まる。

『そんなはずない……知っているはずなんてないんだ……』

 ぶつぶつと言いながら、彼方は来た道を帰って行った。その後ろ姿は異様だった。他の生徒たちも、それに気づいて道をあけていた。

 なにがあったのだろう。なんのためにあそこまでショックを受けているのだ。

 雪乃は、先行きに垂れ込める暗雲を見た。

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