10
10
「ねえ、付き合ってんの?」
恵美は目を輝かせて、雪乃に顔を近づけた。水を得た魚のように生き生きとしている。
休み時間の教室で、雪乃は彼女に捕まって問い詰められていたのだった。他の女子もこちらに聞き耳を立てているのがわかる。どうしてこんなに耳年増になれるのだろう。
「噂になってんだよ。だってさ、最近いつも一緒にいるじゃん。前から怪しいと思ってたんだけどさ、やっぱりそうなの?」
「違うよ。ちょっと話すことがあるだけだよ」
「でもお似合いだよね。栗島くん。今度紹介してよ」
「だから違うってば」
雪乃は今日一日このように勘ぐられるのを覚悟した。一年前まではしのぶがいたからこのようなことはなかったが、今はそうはいかないらしい。
「じゃあさ、今日の放課後用事あるって言ってたけど、誰と過ごすの?」
痛いところを突かれて雪乃は口ごもった。
「ん?誰とどこに行くのさ?」
「秘密!」
雪乃は会話を打ち切った。恵美はにやにやしていて、周りの女子に目配せしている。こうやって女子の話題は作られていくのだと、ぞっとするようだった。人から人へ流れるように話の種が伝言され、最終的には本人に戻ってくる。その時を想像すると今から憂鬱だった。
放課後になると、雪乃は彼方と合流するために待ち合わせの場所へ急いだ。携帯電話で場所の変更を相談しようかと思うほど、周りの目が気になった。どうしてこんなにこそこそしなければいけないのかと、自分で自分が馬鹿らしくなってきたが、それも仕方ないのかもしれない。
校門の横で、彼方は待っていた。こちらを認めると、体を硬くするのがわかり、もしやと思った。
「さあ、早く行こう」
彼方も周りを気にしているらしかった。不自然なほどの距離を開けて、二人は歩いた。
「桜庭、今聴こえているから」
「うん」
なんとなく気づいていた。彼方はすぐ思っていることが態度に出るので簡単に察しがつくのである。下校の生徒の群れから外れていくにつれて、張り詰めていた糸が緩んできた。
「あのさ、桜庭。あの、きみが恵美っていう子と話してたことも、その、聴こえて来たから」
「そうなんだ」
雪乃は平静を装って返事をした。だが心の中はざわざわとしていて、気まずい。こんなことまで正直に報告してくれなくてもいいのに。雪乃は恥ずかしかった。
彼方が落石に殺されかけたあの日とは違い、今日はどんよりと曇っている。風も少し冷たくて、先行きが不安になってくるような薄暗さが気になった。影はのっぺりとしていて、静かな住宅街の陰気さを引き出していた。
会話はない。黙っていればいるほど考え事をしてしまい、その何割かが彼方に伝わってしまうことをまた考え、思考は行き詰って閉じられてしまう。なにか話題を振ろうと思ったところで、彼方の意識はしのぶへと向けられているに決まっているので、きっと湿っぽくなってしまうだろうと口をつぐむ。
例の森の入り口に到達した。奥が見えない道の深さが、入ることを拒むような威圧感を与えた。
「行こう」
彼方が言うと、二人は足を踏み入れた。
道の粗さは以前と変わっていない。あまり人の手が加えられていないらしかった。彼方はこちらの足場を気にしながら歩いてくれている。先を歩き、邪魔な石ころを蹴飛ばし、歩きやすい部分を選んで先導した。だから、あまり疲労はなかった。
ようやく道を抜けると、橋のあるところに出た。なにも変わっていない。危うそうな桟橋、切り立った崖、そして柳の木。
「着いたな」
柳の木の下まで行ってみる。風で木々が騒いでいて、雪乃の心もそれに合わせて揺れた。
見ると、根元に目立つバスケットボール大の石が置かれていた。周りの風景と照らし合わせると、不自然だった。
「これかな。どかしてみよう」
彼方が袖をまくり、石をどかした。すると、そこで虫がうじゃうじゃと動き出した。
「うわ、虫だ」
彼方は青ざめた。
「虫、嫌いなんだっけ?」
「別に。恐くないよ」
強がって彼方はそれらを足で蹴散らした。
「ん?なんか硬いものが当たった」
彼方はかがんで、よくそこを観察した。そして、手で土を掘り返し始めた。しばらくすると、金属の表面が現れてきて、それを一気に引き出した。
缶のようなものでできた箱だった。雑誌くらいの幅で高さが十センチくらいあり、底の方はさび付いていた。
「なんだか、映画みたいだね」
「うん。しのぶのやりそうなことだよ」
二人はそこから離れて橋の近くまで行った。しゃがみ込み、地面に箱を置く。
「じゃあ、開けるよ」
雪乃は息を飲んだ。彼方は箱に手をかけ、ぐい、と力を入れて蓋を取り払った。
中には、コピー用紙が畳んで入れられていた。透明なビニール袋で包装されている。しのぶからのメッセージかなにかが書いてあるのだろうか。気が張ってきた。彼方は袋を空けて、紙を取り出した。紙は六枚か七枚くらいあるらしかった。
彼方はそれを開き、書いてあることを読み始めた。
「なんて書いてあるの?」
読んでいる彼方の顔色が変わった。眉に皺を寄せて、口を真一文字に結んでいる。顔色はめまぐるしく変わり、目線は素早く動いていった。
「こんなことってあるのか……」
彼方はつぶやいた。他の紙にも目を通していく。
「私にも見せて」
彼方はうなずいて、一枚をこちらによこした。息を大きく吸い込んで、読み始めてみる。そこにはこう書かれていた。
『雪乃は石のように硬直した。声が出せない。喉が音を鳴らさない。かすれたような息が漏れるだけで、ただそこにいることしかできなかった。
男はコートのボタンに手をかけた。一つ、また一つとそれを外していく。
逃げなきゃ!そうは思うのだが、足が動かない。体がなにも動かない。実際に危機に直面すると、こうなってしまうのか。雪乃は自分の考えの甘さを思い知った。
男は半分までボタンを外すと、懐に手を入れた。何を見せる気なの。変態、変態!
彼の手からはなにか妙に長いものが握られていた。……』
A4のコピー用紙に縦書きで記されている。
「これって……」
彼方は他の紙も渡した。
『『ってことは』彼方が言う。『これは素人が書いたもので、映画化はされてないっていうのか?』
『そうかもね』
『先にいえよ、もう』
そこで三人は、その本屋へと行ってみることにした。この本を売りに来た人間は誰なのか店主に聞き出し、あわよくば会って話を聞いてみたいと意見が一致したのだ。
それでその店に近いこの公園に集合したというわけだ。……』
この文章は、この小説は、最近あったことや、雪乃が思い出したことを事細かに描写している。雪乃が思ったことも、ほぼ正確に写し出している。
「まさか……彼方くん」
「そうだよ」
彼方は真剣な面持ちで言った。
「これは俺に聴こえてきている声とまったく同じものだ。ここに書いてある通りに、俺には声が送られていた」
どういうことだろう。つい最近コートの男に襲われたことなどを書いたこの小説が、一年前に死んだしのぶが指定した場所に隠されているとは。それに、これを書いた人間はどうして雪乃の考えていることまで知っているのだ。
――まさか、と思う。これを書いたのはしのぶか?
彼女が映画の感想を書いた紙を思い出した。彼女は意外と文章が書ける。そして、いつか映画を撮ろうと約束した。結局はかなわなかったけれど、しかし脚本は自分が書くとしのぶは言っていた。
「桜庭……仮定しよう」
彼方は頭をかきむしった。
「これをしのぶが書いたとする。だとすれば、どういうことが言えるだろう」
彼方は苦しそうに渋面を作り、紙面を睨みつけた。雪乃もすべての紙面に目を通してみる。その小説は途切れ途切れに様々な場面を描写していた。最初にコートの男に襲われた時の一枚、蔵木屋へ行ったときのことを思い出している時の一枚、旧校舎での一枚、他には別の過去の回想が数枚……。
雪乃はこれを読んで初めて、どういうふうに自分の心が彼方に伝わっているのかを知った。途端に羞恥心がよりいっそう高まってきて、どこかに逃げ込みたい気持ちになった。
最後の一枚にはこれだけが書かれている。
『残りはカーサの中心に』
これはどういうことだろう。カーサとはなんだ?彼方を見ると、彼も首を振った。
「これをしのぶが書いたなら、あいつはただ者じゃない。俺たちが思っていたよりも、もっと不思議なやつだ」
ただ者じゃない。まさしくそうだ。どうして彼女はこの小説を書くことができたのか。
「しのぶはそう……超能力者だと考えることはできないか」
「超能力者?あのしのぶが……」
「そうだな……あいつは、テレパシー、透視能力、予知能力を持っていた」
彼方は懸命に頭を働かせているようだった。汗が額ににじんでいる。
「あいつは未来に起こることを知っていた。いわゆる予知能力を持っていた。そこで起こる細かいことを透視能力で知る。さらに、テレパシーできみの考えることも知っていた。それを元に小説を書き、未来の俺に念を送った……。そして死んでいった」
「じゃあ、ここで落石から彼方くんを助けたのは……」
「やっぱりしのぶなんだろう。あいつは能力を普段隠していたけど、あのときは咄嗟に出してしまった。だから動揺して顔が青くなった」
しのぶが超能力者。いつも明るくて、みんなを楽しませていたしのぶが、そのような秘密を抱えて生きていたのか。そういえば彼女はよく人の心を見透かしたことを言うことがあった。雪乃の悩みを看破したように……。
「いや待て、それはおかしい」
彼方は顎に手を当てて地面に目をさまよわせた。
「俺は聴こえる声を元にしてきみを助けようとした。実際、それできみは助かって、未来が変わった。にもかかわらずしのぶはその後のことも予言して、俺に声を送ってきている。これはおかしい」
「しのぶの行動で変わった未来も、しのぶは知っていたってことだから……」
「これはパラドックスだよ。自分の行動が自分の行動に影響を与えてしまうから、循環する」
頭が痛くなってきた。理屈が絡まっていて、上手く考えがまとまらない。
「ねえ、私の前にしのぶが出てきたのはどうしてなのかな」
「この原稿にたどり着かせるため……いや、他にもあるかもしれない。例えば、あいつは今も幽霊としてこの世にいて、俺たちを見ている。だから変わった未来も知っていて、リアルタイムで俺に言葉を送っている……だめだだめだ、だったらこの原稿はどう説明する?どうしてこんなものをあらかじめ残すことができたんだ」
彼方は頭を抱えた。自分の頬をぱしんと叩いて、強く瞬きをした。
「それに、あいつはなぜこんなことをする?」
「私たちに危険を知らせるため……」
「いや、それならこんな回りくどい方法はいらないし、それに、思い出してくれ。きみは蜘蛛男の顔を見た。それは俺の顔だった」
「うん。確かにみたよ」
「それはまるでしのぶが言っていた『影』のようじゃないか。もう一人の自分。ドッペルゲンガー。きみに降りかかった危険自体に、しのぶが関わっていると考えれば……」
「もしかして、しのぶの超能力はもっとすごいものなんじゃないの?予知能力とかそういうのだけじゃなくて……」
「『無時制』か。過去も現在も未来もなくて、すべて一つの時として考える方法。本で読んだことがある。いや……」
彼方ははっとしたような顔をして、動かなくなった。宙を見つめて、黙りこくる。雪乃は辛抱強く彼を待った。
「これは仮説なんだが……実に突飛な考えだ。でもこれならつじつまが合う」
「言って」
「うん。もしかしたら、しのぶは現実を創造しているんじゃないのか?」
「え?どういうこと?」
「全部しのぶの差し金っていうことだよ。しのぶはまず未来を自分の思う通りに作り変えた。そしてそれを小説にした。順番は逆かもしれないし、同時かもしれない。とんでもない超能力だよ」
「そんなことってあるの……」
しのぶが現実を意のままに操ることができるというのか。
「普通に考えてそんなことはありそうにないけどね。だから俺の空想だと思って聞いてくれ。うーん、そうだな。あいつは現実を創造してるって言っても、言葉通りすべてを作っているんじゃないのかもしれない。未来の俺たちの周りに関することだけを、不思議な力でもって捻じ曲げる。未来の現実を変える。蜘蛛男を登場させて、自分もきみの前に現れることにする」
「私たちそのものも変えるの?」
「かもしれないし、誘導しているだけかもしれない。どっちにしても、そう考えると俺たちはあいつの操り人形だ。あいつの思うままに考え、思うままに行動する。そしてあいつは、起こることやきみの心情について、作り変えた通りに、もしくは誘導した結果を予知して小説にする。そしてまた戻って、その小説の通りに現実を修正する。繰り返していれば、いつかは完成するだろうな」
「書いた小説の通りに現実を変えてるだけっていうことはないの?」
「さすがにそれは突飛すぎるんじゃないかな。でもそれでも結論は変わらない。起こっていることをしのぶが仕組んでいるってことは。これは一つの創造行為だよ。クリエイティブって言える。あいつは神じゃないし、世界中を創造してるってわけじゃないだろうから、外れることもあるのかもな。あくまで予想だけど」
「待って。だったら、私が襲われたのも、しのぶが仕組んだっていうの?」
「かもしれない……怒らないでくれよ。可能性の話なんだから」
コートの男への恐怖が今まざまざとよみがえってきた。すんでのところで殺されるところだったのも、しのぶの意思だったということか。しかし、それなら雪乃が助かることもしのぶの計画ということになる。
「それに、今この時も俺には声が聴こえている。ということは、俺たちがこの事実に気づくこともしのぶの計画のうちということだ。ああ、頭がこんがらがってきた。それに、なんで小説形式なんだ?どうして脚本じゃないんだろう」
いつか映画を撮ろう。そう言ったしのぶはどういう顔をしていたのだったか。
「あいつはなにがしたいんだ。なんのためにこんな大掛かりなことをする?映画を、本当に映画を作りたいだけなのか。現実を使った映画を」
彼方に声が聴こえ始め、雪乃がコートの男に襲われ、彼方が助ける。しのぶとの過去の出来事の回想が彼方に聴こえ、それらがしのぶの事件への関与を暗示する。しのぶは雪乃の前に現れ、蜘蛛男は彼方の顔をしている。旧日本兵のことも忘れてはいけない。
もし本当にしのぶが現実を創造しているとしたら、彼女の目的はなんだろう。雪乃を襲わせて、最終的になにを目指しているのか。
しのぶが雪乃を殺そうとしている?いや、これまでの彼方の考えが正しければ殺したいならすぐにできたはずだ。それに、しのぶがそんなことを考えるわけがない。
ここで、思い出した。
しのぶの遺言。彼女は雪乃に、彼方と付き合えと言った。このことが関係しているのか――。
「違う」
彼方は雪乃を強く見据えた。
「あいつが、当人たちの意思を無視してあんなことを言うはずがない。あれはなにかの間違いなんだ」
二人は沈黙した。山の静けさが、逆に頭の中の騒がしさを際立たせているようだった。考えることが山ほどあった。しのぶが昔言っていたこと、行っていたこと、その一つ一つを思い出してみて、彼方の考えと引き合わせてみた。だが、なに一つ結論へ至る道筋は思い描けなかった。
「あいつは思えばとらえどころのないやつだった。単純かと思えば誰も考えつかないことを言い出したり、大雑把かと思えば細かいことに気づいていたり。付き合いが長かった俺もはかりきれないところがあった。おかしな理屈で人を煙に巻いたり、いたずらすることが大好きだった。いたずら……これもただのいたずらならいいんだが……」
謎はさらに深まっていく。いずれにせよ、しのぶは雪乃と彼方になにかをさせたいのは確かである。それはいたずらなのか、確固とした目的があるのか……。
彼方は紙の一枚を取り出して、見つめた。
「カーサの中心。これはなんだろう」
「わからない。カーサって聞いたことないけど」
「ここに、残りの原稿があるってことか」
彼方はここでなにかに気づいたらしく、居住まいを正した。
「どうしたの?」
「もしかしたら、ここに未来の原稿があるのかもしれない」
「未来。なるほど」
しのぶがすでに小説を書き終わっているのだとしたら、結末まですべてのことが決まっていることになる。ならば、未来に当たる原稿もどこかにあるはずである。
「この小説が本当に現実を創造しているかはともかく、事実が書かれているとすれば、その原稿を見て、蜘蛛男にも対応できる。あいつがどう襲ってくるかがわかる。上手くやれば、撃退できるかもしれない」
「それがしのぶの描いた筋書きっていうこと?」
「そうかもしれない。ちゃんとあいつは解決への道を残している」
次の目標が決まった。この『カーサの中心』という言葉の意味を解き明かして、コートの男から身を守るのだ。一応、事態は進展している。行き詰まっているわけではないことで、いくらかほっとした。
「でも、その原稿を見て行動して未来が変わったら、どうなるんだろう」
雪乃が言うと、彼方は黙った。紙を折りたたむ。
「さあね。現実の仕組みなんて、俺にはわからないよ」
二人は原稿を箱に戻し、それを持ってそこから離れることにした。彼方は、これから聴こえることのメモをとった方がいいだろうと言った。おそらく、聴こえることのほとんどには意味がある。その意味を考えれば、これからどう行動すればいいのか、ヒントになるはずだと。
道を引き返し、森を抜けていく。また二人は無言になった。今まで得たいの知れなかった恐怖が、少しずつまとまって一本の道に変わっていくようだった。その道はほのかに光っているが、まだその全貌は見えない。この先になにが待っているのか。自分たちの身になにが起こるのか。
「どうして、しのぶは俺の前に出てきてくれないんだろう」
帰り際に彼方がぽつりと言った言葉が雪乃の心にいつまでも残った。彼の目は、期待と寂しさに縁取られているように見えた。




