放課後の足音
そいつは放課後の影だった。僕が高校を出て、帰宅している途中にその影はあった。
ストーカー。
平易な表現をするならそれが適当だろう。足音が僕のものと、影のものとでユニゾンし、夕闇に暮れる通学路に音楽を加えた。彼女(あるいは彼)の足音は、どこか弱弱しげで、じっと僕の様子を窺っているように付きまとってくる。僕が歩みを止めるのと同時に止まり、僕が振り向いたときには影もかたちもなくなってしまう。
「私も一緒に帰るよ」
ストーカーに悩む僕を、クラス委員の辻は心配してくれた。辻と一緒に帰るときには、話も弾み、足音が気になることもなかった。
「いつも悪いな」
今日もいつものように辻と下校する。季節は冬にさしかかり、吐く息も白い。このような日の短い時期にも、自分を顧みずに僕を心配してくれる辻は、まさしく女神のような存在だ。
「今日の帰りにさ、喫茶店でも寄ってみない?」
「でも、校則で行っちゃいけないって決まりになってるでしょ。そういうのよくないって」
辻は眼鏡をくいと上げながら、そう返した。やはり根はいいけど融通は利かない。僕は辻のそういうところも含めて、彼女のことが好きだった。成績優秀で、かといってガリ勉というわけでもない。スポーツも万能で眉目秀麗。嫌いになるはずがない。
事実、辻はクラスの男子からも人気があるし、ストーカーがつくなら、僕ではなく辻のほうだろう。
そんな不条理を抱えながらも、僕たちは帰途についた。いつものように、足音は気にならなかった。
「最近はどう。ついてくる?」
「いや、あまり気にならないな」
「それじゃ、相手も諦めたのかもね」
「それならいいんだけど」
他愛もないことを喋りながら、僕は家へと辿り着く。
「ありがとう。それじゃ、また明日」
「うん。ところでさ」辻は僕を下の名前で呼んだ。「ちょっといいかな」
どことなく様子のおかしい辻に、ハッとする。
「ごめん、一緒に帰るの、もう疲れたかな」
ストーカーの気配も消えうせたのだ。辻もいつまでも僕の世話をしている暇はない。
そう思ったのだが、僕の予想に反して、辻は首を振った。
「そうじゃなくて、渡したいものがあるの」
辻は、目をちらちらと逸らしながらも、かじかむ手を不器用に動かして学生かばんを漁る。
「これ、つけてほしくて」
そういって差し出されたのは手編みのマフラーだった。僕との他愛もない会話を覚えていたのか、色は僕の好きな紺色で、既製品と比べてもほとんど遜色のないほど上手に編まれていた。
「ありがとう。大事にするよ」
自然と顔がほころぶ。
辻が僕に、手作りのプレゼントをくれた。その事実だけで胸がいっぱいになる。
「これからも一緒に帰ろうね」
辻はその白い頬を朱に染めながら、冷たい空気に溶けてしまうくらいに小さな声で言った。
「それじゃ、また明日」
聞き慣れたそのセリフに、僕は相槌を打つように手を振った。
僕はベッドにうつぶせになって、漠然と考える。一体、夕闇にこだまするあの足音はなんだったのだろう。ただの勘違いだったのだろうか、それとも、本当に相手が観念してくれたのだろうか――そんな疑念も、翌日の出来事にかき消された。
次の日、僕が辻にもらったマフラーを身につけ登校すると、クラスでは意外な話題で持ちきりとなっていた。クラスのみんなが、今日はどことなく様子が違っていた。
僕は不思議な感じを受けながらも、こんな会話を耳にした。
「ストーカー?」
「そうそう、ストーカー」
「まさか、ありえないでしょ」
「けっこう確かな情報らしいぜ」
僕は戦慄する。ストーカーの話題が、なぜここで? 慌てて、近くにいた男に事情を聞いてみる。そしてその話題の原因は、驚くべきものだった。
「辻のやつ、中学校のころに好きな男のことをストーカーしてたらしい」
頭の中が真っ白になった。
あの辻が、ストーカーだったなんて、そんな馬鹿げたこと、あるはずがない。僕はとっさに教室を見まわす。辻の姿はない。
どこに行ったのだろう。気付けば教室を飛び出していた。
辻がいそうな場所で、とくに思い浮かぶところはなかったけれど、きっと彼女はあの空気の教室に居ても立ってもいられなくなり、逃げるようにその場から立ち去ったに違いない。
僕はあてもなく走った。息を切らしながらも、下校途中に立ち寄った河川敷や公園へと向かった。
しかし、どこへ行っても彼女の影はない。首に巻いていたマフラーも、いつしか手に持って走っていた。
走って、走って、気が付けば日はとっぷりと暮れていた。僕は途方に暮れて、自宅への道を行こうとする。そのとき彼女の声が聞こえたような気がして、家とは逆の方向の暗がりへと足を向けていた。
「こんなところにいたのか」
彼女は人気のない路地裏に、ひとりうずくまっていた。そこは通りの明るさにかき消されて、まったく気付けないような、そんな細道だった。
「マフラー、使ってくれたんだね」
辻は僕のほうをちらりと見て、弱弱しく言った。声はかれていて、顔には涙のあとが残っていた。
「辻」僕は彼女の背中をさすりながら言った。
「お前のこと、信じてるから」
「本当に?」
彼女の問いかけに僕は首肯する。辻がそんなこと、するはずがない。
辻は僕の態度に安心したのか、滔々と語り出す。僕はその間、彼女の冷え切った体を温めるように、ずっと彼女のことを抱きしめていた。
「全部、悪いうわさなの」
密着していて、彼女の表情は見えない。
「自分で言うのも変な話だけど、私って嫉妬されるからか、敵が多いんだ。中学のときにも、それで目を付けられちゃって、そのときから、私のうしろをついてくる、謎の足音が聞こえてくるようになったの」
「それって……」
「そう。ストーカーね。でも、高校に入ってから、その足音はぱったりと止んだの。それから少しの間は、まったく何もなかった。ちょうど私が、あなたのことが好きだって友達に相談したときから、標的があなたに移ったみたい」
「それで、僕についてきてくれたんだ」
「これはわたしが引き起こしたことだし、それに、これを機にあなたとも仲良くなれると思ったから、だから利用させてもらったの」
僕は納得する。
「でも、それがうまくいきそうだったから、悪いうわさを広められた。そういうことか」
辻は顔が見える程度に離れ、うなずく。その瞳は暗かった。
今にも壊れてしまいそうなほどに華奢な彼女の身体を、僕はもう一度抱きしめた。そこに言葉はいらなかった。ただ、彼女のことを信じてあげたかった。
帰り道、僕たちは手を繋いで歩いていた。手を離すと、辻はそのままいなくなってしまうような気がしたからだ。
「寒いだろ。マフラー、使いなよ」
辻の透き通った色のうなじに、紺色のマフラーを巻いてやる。
「と言っても、辻の作ったやつだけど」
「ううん。ありがと」
「僕が守るから」
「うん」
辻は笑顔を作る。感情を装っているのが伝わってくるほどに、痛ましい笑顔。
その、悲哀を隠し切れていない表情を見るのがつらくなり、僕はゆっくりと目を伏せる。そのとき、通りの街灯に照らされて、辻の大腿に何かが光るのを見た。
おそるおそる、辻に問いかける。
「それにしても、どうしてあんな路地裏なんかにいたんだ」
痛ましい笑顔を再び作る彼女。
「別に、ちょっと無我夢中で走ってただけだから。気にしないで」
「そっか」
気にしないで、か。
僕は、それから別段、何事もなかったかのように明るめの表情を取り繕う。憔悴しきった彼女よりは、うまく笑えているはずだ。
彼女の小さな手を握り締めながら、僕はその日、はじめて辻を家まで送り届けた。
どうして気が付かなかったのだろう。夜道を歩いて危険なのは、なにもストーカーのいる僕だけじゃない。辻も、同じくらいか、それ以上に狙われる可能性があったのだ。
僕は自室にこもると、すぐさまベッドに倒れ込んだ。制服を着たまま、彼女に返してもらった紺色のマフラーを握りしめて、そこから死んだように動けなかった。
彼女があの日、何をされたのかは想像に余りある。頭の中に浮かんでは消える、辻の華奢な身体や、痛々しい作り笑顔を、振り払い、薙ぎ払う。マフラーを握り締めた手は、力を込めすぎたあまりに、すでに感覚がない。
握った拳からは、汗のにおいがした。
その、男の汗のにおいは、マフラーに染み込んで、洗っても洗っても、永久に落ちることはないだろう。