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第8話 七の月 三紫の日(1)


 ベルトラン西部、メルニエにてカレーラ病発生の疑い


 七の月、二紫の日、ベルトラン西部の町メルニエで二九歳の男性が死亡した。現地の保安局によれば、彼の死とカレーラ病との因果関係は不明である。しかし、三日後の三橙の日、同じくメルニエ在住の四七歳の男性と四三歳の女性が相次いで死亡。この二人は夫婦であり、先に死亡した男性と同じ集合住宅に住んでいた。これを皮切りとして、三青の日までに既に三一人が死亡、百人以上が咳、嘔吐、発熱などの症状を訴えており、メルニエでは非常事態を宣言、町を封鎖している。

 天使庁は未だ対策を発表しておらず、現地では一刻も早い救援が望まれている。


           ――テニエス中央新聞 七の月 三紫の日 朝刊



 ああ、くそ、頭が痛い。

 朝っぱらから容赦なく照ってくれている太陽は、林を抜けると熱心に私を暖めてくれようとした。まったく余計なお世話だった。昨夜寝付けなかったせいで気分が悪い。屋敷の門をくぐると、どこからか歌声が聞こえてきて、私は顔を上げた。

 歌は開け放された二階の窓から降ってきていた。楽しげな、高い声。アディナに違いなかった。歌詞はまるででたらめな意味をなさないものだったが、メロディにはどこか聞き覚えがある。なんだろう。何に似ているんだろう。確かにどこかで……、なんだ、教会の聖歌だ。わざわざ思い出して損した。

 私はますます嫌な気分になりながらベルを鳴らした。

 頭痛を抑えながらダニエラに笑顔で挨拶をし、階段を上ったのに、待っていたのはやる気のないアディナの言葉だった。

「今日は無理だと思うわ。……風邪をひいたみたいなの」

 嘘つけ。今さっきまで機嫌よく歌なんか歌ってたくせに。

「馬鹿なこと言ってないで、始めますよ。面白い本を持ってきましたから」

 こめかみの辺りがずきずきする。アディナは座ろうともしない。見たこともないくらいのしかめ面、いったい何がそんなに気に入らないっていうんだ。

「これを少しずつ読めば、自然と歴史に詳しく」

「できないったら。帰って!」

 アディナは私の手から本をひったくって、こともあろうに窓から投げ捨てた。

「ちょっ……」

 あれは昨日の昼間、いくつもの本を読み比べて選んだものだ。物語の好きなアディナの興味をひきそうな、出来事が詳しく載っていて挿絵も多いもの。喜ぶかと思ったのに。

「なんてことをするんですか!」

 少し大声を出すと、それだけで頭がまた痛んだ。

 この子どもにとっては貴重な物などなにもないのかもしれない。大事にしなければいけないとか、考えたこともないに違いない。こんなに多くの人形やおもちゃ、珍しいペットを与えられて、気に入った物だけを愛でて過ごしている。

 なんだか泣きたいような気分だった。きっと眠れなかったせいだ。

 アディナは怒るでも悲しむでもなくじっと私を見ていた。一瞬、私はこの子の目にどんな顔をして映っているんだろうと考えて、いたたまれなくなった。

「――わかりました、今日は帰ります。また明日……、いえ、明後日ですね。ゆっくり休んで、風邪を治してください」

 それだけ言って、部屋を出る。悪化していた気分は最低のところまで落ちていた。廊下を戻ると階段の手前でダニエラとはち合わせた。

「すみません。アディナ様は風邪気味だとかで、帰れと言われてしまって」

 仮病だと思うんですが。

「まあまあ。暑い中わざわざいらしてくださったのに、すみませんねぇ。よかったら冷たいお茶だけでも召し上がっていってください」

 朝食の時はなんともありませんでしたけど、とか言われるんじゃないかと待ちかまえていたのに、あっさり納得されてしまった。やっぱり甘やかされてるな、あの子。

 ダニエラの申し出は正直ありがたかったので、お願いしますと答えようとすると、階段を上ってきたユーリエが余計な口をはさんでくれた。

「いいのよ、ダニエラ。先生、お疲れ様でした。先生もお顔の色がすぐれないようですから、帰ってお休みになってくださいな」

「ああ、いえ、そんな。私は大丈夫です」

「いいえ、お疲れのようですわ。お加減の悪いときは休んでくださって結構ですから、無理はなさらないで」

 ユーリエはきっぱりと言った。たかだか寝不足で仕事を放り出すなんて考えられないのだが、やはり感覚が違うらしい。くいさがったって仕方ないので帰ることにした。もういい、家で寝よう。

 その前に……、本を拾わないと。

 庭に出て井戸の側を抜け、壁を左手に歩く。ウィーダのいる窓の下まで来て、私は周囲を見回した。この辺のはずだけど。

 ああ、あった。

 バラの茂みのすぐ手前で、歴史の本は這いつくばっていた。拾いあげてみると、数ページが折れていたが、その他に外傷はなさそうだった。

 はたいて鞄の中に戻し、一息ついたところで、私は目の前のバラの茂みが枯れかかっているのに気づいた。虫でもついているのか、単に水が足りないのか。この暑気だからそれも仕方のないことかと思えた。

 これが枯れたら、あの人の良さそうな庭師のおじさんが叱られるかもしれないな。そういえばここのところ雨も降っていないけれど、この暑さだ、メイドが水くらい撒かないのだろうか。

 庭師が来るのは次の赤の日。明後日だ。それまで放っておいたらだめになるかもしれない。どうしようかと考えていると、建物のすぐ裏に納屋があるのが見えてしまった。おじさんがいつも使うような道具がしまってあるに違いない。井戸まで行って水を汲んで――

 私は唐突に、自分の本来の役割のことを思い出した。

 そうだ。あの中を調べてみよう。見つかってとがめられたら、如雨露を探していたんですと言おう。庭師はいない、メイドも誰も見ていない。今のうちだ。ちょうどいい機会じゃないか。何もないかもしれないが、そうなったらなったで本当に如雨露を出してくればいい。

 木の留め具を外して、私は納屋の中にそっと忍び込んだ。



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