第53話 八の月 四黄の日(1)
その後のことは、全て私の手の届かないところで運んだ。
レオは祭りを決行させた時と同じように、保安局へ交渉に出かけて、あっという間に話をまとめてしまった。権力と財力があれば多少のことはまかり通るものらしい。
アディナと私ははじめからあの場にいなかったことになり、天使がケルステンに来ていたことは完全に伏せられた。男爵家の別荘には捜査の手が入り、保安局は残された書類などを通じてスヴェンの罪状を追及していくこととなった。
私が武器を持っていたことや、大鳥の巣に出入りしていたことなどについて怪しまれるのでは――と思って色々な言い訳を考えたのに、レオは私の「たまたま」とか「偶然」とかいう言葉の多めに入った説明を「へえーそうなんだ」とあっさり聞き入れて、「そんなことより、命を救ってあげたんだから君は僕とデートすべきだよね?」などとのたまったものだ。
もちろん、私はその申し入れを丁重にお断りした。
思った通りだったな、とギルは複雑そうに言った。予想があたったことは嬉しいが、喜んでいられるような話でもないというところだろうか。
「毒を買った人間がそれぞれの目的で使用していたから、各地のカレーラ病の流行には一貫した意図が見えてこなかったというわけだ。やっとわかったよ。はじめ、カレーラだけに発生したのは、たぶん実験だったんだろうな」
ギルは私がカレーラの生き残りであると知った時から、私に興味を持ち、カレーラ病が発生した時の状況を聞いてきた。
カレーラでのことを思い出すのは嫌だったが、必要なことだと説得されて、教えることになった。封印していた記憶をたぐり寄せるのは苦しく、いつも話せるのは少しだけだった。ギルは辛抱強く聞いてくれた。なぜ私だけが生き残ったのか、なぜ突然に広まったのか、原因は何なのか、彼なりに調べようとしてくれた。
人を信じてみてもいいかもしれないと、思ったのは久しぶりだった。私は彼の勧めにしたがって、テニエスで暮らすことを選んだ。戻ってもなにもないことを考えれば、どこにいても一緒だという気がしたし、また学校に通えるというのは素直に嬉しかった。
ギルは私を強くしてくれた。肉体的にも、精神的にも。――いや、騙されて女学院の試験を受けさせられた時にはさすがにアリアーガに帰りたいと思ったが。
「……となると、だ。伝染病を装うのではなく、個人に対してもこれは使われていた可能性があるな。ちょっとさかのぼって、呼吸不全で急死した人間のリストでも作ってみたら、なにかわかるかもしれない。うん」
ギルは探究心をくすぐられたらしく、なにかを思いついた時のいつもの癖で、部屋をぐるぐると歩き回りはじめた。きっと本社に戻ったら資料をひっくり返して調べだすことだろう。
「私も気づいたことを言っていいですか?」
「うん。発表したまえ、カトリーネくん」
ギルは足を止め、偉そうに腕を組んでみせた。
「ハーブ園のことなんですけど、やっぱり枯らしたのはアディナではないと思うんです。アディナが無意識に光を集めたとしても、庭のバラはともかく、樅の林を飛び越えてハーブ園からというのはおかしいでしょう。距離的に」
「まあ、そうかもな。じゃあ、やっぱり悪魔がいたっていうのかい」
「いえ、たぶん、スヴェンが毒を流したんです」
ハーブが枯れる前日、私はスヴェンを見ていた。水車小屋の前で。
「なんのために?」
……そこまでは考えてない。
「ええと。悪魔が出没するという噂を決定的にしたかったから、とか」
「そうなったとして何の得があるんだ?」
「すみません、思いつきでした。よくわかりません」
私はバランスの悪い椅子をわざと前後に揺らしながら言った。この椅子を使うことももうなくなるんだな。
「騒ぎを起こしてなにかから目を逸らそうとしたのか? うーん、難しいな。僕も考えておこう」
ギルはまた足を動かしはじめた。
「天使についてはいろいろわかったし、今度は悪魔についても調べたいな。しかし、さすがにエインズワースに渡るのは難しいだろうなぁ……」
また無茶な計画を立て始めていることを察して、私は別の話を振った。
「そういえば私、外つ国訪問記の一巻を読破しました。アディナ様に貸してもらったので」
「ほう、それはまた高貴な愛読者がいたもんだ。で、どうだった?」
「あなたは嘘を書きすぎます。それに想像以上の気持ち悪さでした」
そして自分も客観的に見ればかなり気持ち悪いだろうと感じてうんざりした。あと一年、お嬢様方には絶対ばれないように気をつけよう。
「……でも。来年卒業したら、私も旅に連れて行ってください。できれば、エインズワースよりは安全そうなところで」
「いいよ」
ギルはあっさりと承諾してくれた。軽い気持ちで言ってくれたのかもしれないが、私はこの返事をしっかり記憶した。
スヴェンが死んでから二日後、私はオルデンベルクへと発つことになった。新学年の始業に間に合わせるには、ほとんどぎりぎりの日程だ。
慌ただしく旅支度をしていると、ナネッテがお客さんですよと私を呼んだ。シュテファンに連れられてアディナがやってきたのだ。
「来てくださったんですか? こちらからご挨拶に伺おうと思っていたんですが」
「いえ、お忙しいだろうと思いまして。それに、あの別荘の方は今、ごたついていますから」
直前までスヴェンの心に触れようとしていたせいか、アディナは一昼夜目覚めず、意識が戻ってからもしばらくは口もきけない状態だった。
心配していたのだが、もうすっかり元気そうだ。元気そう、というのは健康状態のことで、精神的な面ではまだ少し時間がかかるのだろう。アディナは疲れた顔で、それでも笑みらしきものを浮かべていた。
「あたしも明日帰ることになったわ。でもユーリエはしばらくここに残るんですって。お父様が来て、お葬式をして、これからのことを決めなくちゃいけないからって」
アディナはいつもより地味な服を着ていた。腕にもリボンはなかった。
「谷底の木は焼かれるそうです。美しい場所なのに、もったいないですが」
「ああ……。そうでしょうね」
これでもう、あの病が流行することはなくなるだろうか。
「そうだ。ばたばたしてますけどお茶くらいなら出せますから、こっちへ」
「いえ。あまり長くお邪魔してはご迷惑でしょうから」
シュテファンは、相も変わらずそっけない。
「あ、じゃあちょっと待ってください。渡そうと思っていたものが」
私はいったん部屋に引き返して、机から本を取ってきた。
「これ、ありがとうございました。返すのが遅くなってしまいましたけど」
外つ国訪問記を受け取りながら、アディナは言った。
「ああ、そういえば貸したままだったわね。ねえ、どうだった?」
「とても興味深かったですよ。私も、リンドブラードの冬を見てみたいです」
「でしょう? ちゃんと読んだらきっとカリンも気に入ってくれると思ったわ。フィオナって、きっと素敵な老婦人なんでしょうね」
だらしないただのおっさんだと知ったら幻滅するだろうな。黙っておこう。