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第4話 七の月 三藍の日(1)

 机をはさんで向かい側に座れば、試合開始だ。

「ねぇ、昨日から考えてたんだけどね、カリン」

 先手必勝とばかりに、私はアディナの言葉を遮った。

「さあ、今日は問題を作ってきましたよ。まずはこれを解きましょう」

 初日はまったく授業にならなかったので、しっかりと対策を練ってきたのだ。昨夜眠る前に思いついて作ったこの問題は、そこらへんの町の学校で九歳程度の子どもが勉強する計算式を、とりあえず並べてみたものである。なぜかというに、これまでなにを勉強したのかと昨日いくら聞いても要領を得なかったので。これで駄目ならもう少し段階を戻ってみればすむことだし、解けるようなら次に進めばいい。

「……これ?」

「はい。できそうですか?」

 アディナは首をかしげながら、私の手渡した紙をじっと見た。

「んー……」

 できるともできないとも言わなかったが、ともかく紙を机に置き、ペンに手を伸ばしてくれたのでほっとした。これで、今日は授業になる。

 アディナは問題とにらめっこしてから、こちらを見た。

「これ、カリンの字?」

「そうですよ」

「ふうん」

 アディナのペンには上等そうな羽根がついていた。こういうこまごまとしたものは男爵家の物なのだろうか、それとも彼女の私物なのだろうか。それにしても、なかなか問題を解きださない。やっぱり難しかっただろうか?

「カリン」

「ん? わからない?」

「あのね、あなたの後ろにいるお人形さんのリボン、曲がっているの。直してあげて」

 は?

「……ああ。これですか」

 どこを見てんだよ、まったく!

 仕方ないので一応、お人形のドレスの首元にあるリボンのゆがみを直した。大きなサテンのリボンは、ちょっとひねったくらいでは直らず、いったんほどいて再度結ぶ必要があった。

 満足のいく仕上がりになって、私は椅子に戻った。見てみると、なんとか一問目が埋まっていた。それにしても、足はぶらぶら、瞳はきょろきょろとして落ち着きがない。ここはしゃきっとしなさいと怒るべきところだろうか。

 そもそも人形のリボンなんて今朝曲がったものでもないだろうに。いったいこの子に、ぴしっと座って手だけを動かすなんてことが可能なのだろうか。普通の子どもならどうなんだろう。私の九歳の頃といえば……そうだ、勉強どころではなかった。母さんも父さんもいなくなって、家に二人きりで――

 よそう、考えるのは。思い出したって変えられるものじゃない。

 吐き出した息と共に思考を打ち切ったが、胸は重い物にのしかかられたように痛んでいた。

 感情が、抑えきれずにあふれだす。熱をもって吹き出し、心を染める。憎悪だろうか、それとも絶望だろうか。その激情につける名を知らない。ただ、緋色に燃え上がりながらまたたく間にすべてを覆い尽くしていく――マグマのように。

 その奔流は今でも、私の底に眠っている。

 机に肘をついたまま、自分で自分の二の腕を掴んだ。ゆっくりと呼吸して、体の平静を取り戻せ。汗をかいているのは、暑いせいだ。

 ウィーダが気持ちよさそうに鳴くのが聞こえて、窓辺を見た。ガラス窓は空いていたが、カーテンはひるがえっていない。風がない。

 ほら、落ち着いてきた。

 この部屋は広く明るくていい。ちょっと人形が多すぎるけれど。

 長く息を吐き出して、手に込めた力をゆるめた。向かいに座ったアディナは、さっきからきちんと、ペンを動かし続けている。のだが。

 油断していた。よくよく見てみれば、解けているのはいまだに一問目だけで、紙の端っこの方に謎の図形が作成されていた。

「アディナ様」

「なあに、カリン」

「らくがきをするために紙を渡したんじゃありませんよ」

「けっこう上手く書けたと思わない? これ、ウィーダよ」

 なにを嬉しそうにしているのかさっぱりわからない。というか、この図形、鳥だったのか。

「全然似てません。それより、黙って解きなさい」

 アディナは頬をふくらませて、椅子の背にもたれかかった。

 まったく、たったの二十問に、いったいどれだけかければ気が済むのだろう。わからないならわからないで聞いてくれればいいのに。いや、そういえばそれは言っていなかった。

「……解き方を知らなかったり、忘れてしまったりしているなら、質問していいんですよ」

「うん」

 そう返事はしたものの、アディナはペン先をとんとんと紙の上につけているだけだった。ちょうど、鳥らしき絵の羽のあたりに。




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