第46話 八の月 四赤の日(1)
石畳で拾った蝶のブローチは、誰かに踏みつけられたのか、金具がゆがんで壊れていた。もうくたくただったが、どうにか直してから眠った。
いつもの癖で早くに目が覚めたのはよかった。いつごろ出発するかを聞いていなかったので、着替えてすぐ別荘に向かった。まだ居てくれと願いながら。
門の側にシュテファンの姿を見つけた時は複雑な気分になったが、アディナが帰っていない証拠だと思って安心した。
「おはようございます」
「……カトリーネさん。アディナ様は?」
「は?」
シュテファンは厳しい表情をしていた。
「…………ご存知ないのですね。では、私は急ぎますので」
らしくなく取り乱した様子のシュテファンが出て行くのを見送りながら、なにかが起こったことを理解した。彼を引き止めるべきか、いや、とりあえずもう少し話しやすそうな人間をつかまえよう。
門をくぐって扉の前に立つと、呼び鈴を鳴らすより先に勝手に開いた。
「大丈夫だから、ここで待って――やあ、カリンじゃないか」
ノブを握っているのはレオだった。後ろにはユーリエもいる。馴れ馴れしく呼ばないでくださいなどと言い返している余裕はなかった。
「アディナ様がどうかしたんですか」
「ああ、うん、朝から姿が見えないんだよ。ダニエラが起こしに行った時にはもう、ベッドは空だったらしくてね」
まさか。
「――誘拐?」
頭の中に浮かんだ言葉を、そのまま口にしていた。
「かもしれないけど、荒らされた様子はないし門番も何も見なかったって言ってるんだよね」
「じゃあ」
「でも昨夜、外で変な物音がしていたんです。私が確かめに行っていればよかったんですわ。そうすればアディナ様は」
思い詰めた様子のユーリエとは対照的に、レオは悠然と構えていた。
「だから、まだそうと決まったわけじゃないって。きっと散歩でもしているんですよ。最近じゃ外に出るのがお好きみたいだから」
レオはちらりとこちらを見て、ねえ先生、と同意を求めてきた。
「あの、昨日は申し訳ありませんでした。勝手に連れ出したりして、アディナ様の体調を……」
「今はそんなこと、いいんです、先生。それよりどこか心当たりはありませんか?」
「そうだ。そういえば君、どうしてここに?」
ユーリエとレオの言葉が重なった。
「いえ、特には……あの、ブローチを持ってきたんです。昨日アディナ様が落としてしまったものを、見つけたので」
私はスカートのポケットから小さな蝶を取り出した。
「これは、レシリア様の……。まあ、わざわざありがとうございます」
レオは夜の色の瞳を和ませ、そっと囁いた。
「優しいね、カリン。それはあの子の母親の形見だよ」
形見?
いや、アディナの母親は生きているんじゃなかったのか。だって言っていたではないか、会いたいと。戻りたいと。あの、大鳥の巣で。
池のそばの岩に腰掛け、私の帽子をかぶっていたアディナの姿が脳裏に蘇った。ああ、そうか。
「……あの、私も探します。アディナ様が行きそうな場所を……いくつか思い出したので」
私はブローチを握りしめた。
「そう? じゃあ頼むよ」
掠われたのならどうしようもないが、もしかして。もしかして、自分で姿を消したとしたら。門番にも見つからず出て行けたとしたら。その場所は一つしかない。
きっと、あそこだ。
ユーリエたちの見ている前で納屋に直行するわけにもいかないので、まずはアディナの部屋に行ってみた。人形のいない部屋はがらんとしていた。そうか、もう帰り支度を済ませてあるのか。
窓の側にはちゃんとウィーダが残っていて、私が近づくと一声鳴いた。
「おまえとも、お別れだな」
でもその前に、ちゃんとあの子を見つけてくるから。
くちばしをひと撫でして、踵を返した。人がいないことを確認してから庭へ入り、屋敷の裏へ回る。納屋の中は木箱が増えていたが、気にせず押しのけて地下へ降りた。
ランプを片手に、暗闇の一本道をできるだけ速く走った。こんなに長かっただろうか。こんなに出口は遠かっただろうか。たどり着いた時には喉が渇き、胸が痛いほどだったが、そのままの勢いで光の中に飛びだした。
彼女は、いた。池のすぐ側、あの時と同じ岩に腰掛けて、ぼんやりと空を見上げていた。その瞳はまるで天上の世界を探しているかのようだった。
「アディナ様……」
ぶらぶらさせていた足を止め、アディナはゆっくりと振り返った。
「カリン」
「こんなところにいらっしゃったんですね。皆心配して探していますよ」
「そうなの? ごめんなさい。すぐに帰るつもりだったんだけど」
アディナはひょいと岩から降りて、私の傍までやってきた。
「考え事をしていたら、時間ってあっという間に過ぎるものなのね。でもカリンが迎えに来てくれて嬉しいわ。どうやったら出発までにもう一度会ってお別れが言えるかしらって思ってたのよ」
見上げてくるアディナの笑顔を、なぜかまっすぐ見つめることができなかった。胸を締め付けられるような気持ちになるから。そう、その笑顔はとても綺麗なのに、悲しかった。
「これを……、見つけたので、渡そうと思って持ってきたんです」
ポケットから取り出したブローチを、手のひらを広げて見せる。
「あ……。これ! どこにあったの? ありがとうカリン」
「どういたしまして」
アディナはさっそくブローチを胸につけた。どうしようか。なにもなかったように振る舞うこの子の努力を、砕いていいものだろうか。
「それ、お母様のものなんですって?」
だけどやっぱり話したかった。無理をしているのを見るのは辛かった。
もう演じなくていいから、笑わないで。
「……うん、そうよ。お母様のだったの。いやだ、誰があなたに話したの?」
そんな風に笑わないで。
「これを持ってきたら、ユーリエがそう教えてくれました」
「そうなの……」
「それから、伯爵が……、それは形見だと」
アディナはこくりとうなずいて、胸のブローチを押さえた。