第44話 八の月 第三聖休日(2)
アディナは慎重に吟味して六つを選ぼうとしたが、最後の一つになるはずの二つを右手と左手に乗せて、そのまま動かなくなってしまった。なかなか決まらないので、最後にはおばさんがさらにひとつおまけしてくれた。可愛いとこういう時得するんだよな。
「コックさんにお願いして、明日の朝ごはんに使ってもらうわ」
初めての買い物が成功したことにご満悦のアディナは、編み籠におさまった卵たちを覗き込みながら宣言した。こんなの皮をむいたら普通の卵と一緒だと思うけど、まあ食べずに腐らせるよりはいいだろう。
「出発は明日になったんですか?」
「うん、そうなの」
とりあえず、これで元気を取り戻してくれるなら充分だ。そう考えた時、間近で耳障りな音が響き渡った。ワイン売りの店先でビンが割れたのだった。
「おまえだろうが」
店主が青筋たてて怒鳴る。
「お、俺はなんにもしてねぇっ」
「四の五の言わずに返しやがれ、この盗っ人!」
喧嘩だ。アディナの小さな手が震えていた。
「大丈夫ですよ」
背にかばってその場を離れようとすると、彼女の手が私の腕を掴んだ。人にぶつかられてよろめいたらしい。支えついでに腕からずり落ちかけた籠を押さえる。
「今の人!」
「え?」
「あの人だわ。悪いことしたの」
何故わかるのかとか本当かどうかとか、考える暇はなかった。私は根拠なくすぐさまそれを信じた。人混みをかき分けながら遠ざかろうとする背中を視線で捉え、籠から卵を掴み出して投げる。色鮮やかな卵は、狙い通り男の後頭部に当たった。
「すごいわ、カリン!」
「真似をしてはいけませんよ。食べ物は大事にしなくてはね」
私はアディナに籠を持たせて、なにやらわめいている男との距離を詰めた。
腰のベルトを引いて足をかけ、背中から地に倒す。あちこちから悲鳴と歓声が上がった。
「さあ、盗った物を返しなさい」
馬乗りになって動きを封じながら男が肩にかけていた鞄を持ち上げると、ずしりと重かった。とんできた店主にそれを渡すと同時に我に返った。
しまった、ものすごく目立ってる。
私は顔を上げて、編み籠を手にしたまま立ちつくしているアディナの姿を確認した。よし、ちゃんといるな。悪者がとっちめられている間に、私は彼女の側へ走り寄り、再び手を引いて人混みに紛れた。まったくうっかりしていた。ともかく離れようと、石畳の道を走る。体が小さいのが幸いして、人の林をすり抜けるのは容易だった。
「ここまで来れば……どうにか……」
角を曲がって出店のない小さな路地に入り、やっと一息つけた。あれだけ人のいる場所で立ち回りを演じてしまうなんて、気が抜けているにも程がある。
「すみません、せっかくのお土産を」
そう言ってアディナを振り返ってはじめて、私は異変に気が付いた。アディナは真っ青になって震えていた。青い目を見開いて私を見上げ、なにかを訴えるように口を開くと、そのまま倒れた。彼女を抱きとめるのに精一杯で、籠は石畳に落ちてひっくり返った。声をかけても返事はなく、ただ苦しそうに速い呼吸を繰り返すだけだ。
なにがどうなってる。走らせたのがいけなかったのか。なんて迂闊なんだ。
せめて、少しでも人の少ないところへと思って抱き上げたが、体を支えるのが精一杯で、とても人混みを抜けて行けそうにはなかった。
嫌な汗が背中を流れた。あの時と同じだ。見ているだけで、どうすることもできない。なにをしてやればいいのかすらわからない。苦しんでるのに、目の前にいるのに、こんなにも無力で。
「アディナ様!」
低い、声がした。
「シュテファン――」
どうしてここがわかったのだろう。いや、祭りに出かけたことなどお見通しなのか。シュテファンは相変わらずの冷たい目で私を見下ろすと、腕の中から軽々とアディナを取り上げた。
そのまま、私を責めるでもアディナをいたわるでもなく、彼女を抱いたまま黙って大股に歩き出す。
「ちょっと……」
待てと言って待ってくれるはずもなかった。私は咄嗟に籠を拾うだけ拾って、小走りに彼の背中を追いかけた。その足取りは確かで、悔しいが頼もしかった。
祭りの賑わいからずいぶん遠ざかったところで、シュテファンは首元に手を入れて白服の中から石を引き出した。冷命石だ。道端に腰を下ろしてアディナの頭を膝の上に載せ、右手をそのまま彼女の胸に置く。左手はアディナが力を使う時と同じように、石を握りしめている。
準備が済むと、彼は祈りの姿勢に頭を垂れた。
「神よ、恩寵を与え給え。汝が愛し子の苦しみを取り除き、悲しみを和らげんことを」
アディナの胸の上にぽっとあの光が灯り、じわじわと消えていった。苦しそうだった呼吸はだいぶ落ち着いたが、ぐったりとしたまま目を開けない。
心配で覗き込むと、シュテファンが短く言った。
「アディナ様は、もう大丈夫です」
「でも、まだ……」
「そんなに不安そうな顔をしないでください」
どうも、こちらを案じてくれているような感じではない。淡々とした口調だった。
「あなたは今、とても動揺している。落ち着いてください。それができないならお帰りください」