第3話 七の月 三青の日(3)
「ええと――そう、前の先生には、何をどこまで教わりましたか?」
「そうねぇ……」
思い出そうとしているのだろうか、あちこちに視線がさまよう。
「その前に、いろいろお話を聞かせて?」
「……お話、ですか」
「そう。フィリーネ女学院ってどんなところ? 生徒は何人くらいいるの?」
やっと始められると思ったのに、どうやら彼女が考えていたのは別のことらしい。
「学院はオルデンベルクにあるんでしょう? オルデンベルクはどんなところなの? 都会?」
次から次へと疑問符を並べられ、とりあえずなんとか短く話を済ませて仕事を始めようと思いつつ一から答える。
「王立フィリーネ女学院の創設は今から百三十二年前だそうです。生徒は異国からの留学生も含めてだいたい二百人くらいでしょうか。オルデンベルクの人口はテニエスで五番目ですから、都会ですね。少なくともここよりは」
それじゃあ、と彼女が次を口にする前に、私は言葉を続けた。
「ということで、お勉強をはじめます」
「つまんない」
即座に不満を口にして、アディナは顎を机につける。
「……と、言われましても、私はそのために雇われたんです」
「なんであたしだけ勉強しなくちゃいけないの? カリンは夏休みなんでしょう。不公平だわ」
「そのかわり、私は仕事をしているじゃないですか」
「いくらくらいもらうの?」
「……さあ。それはまだ、いただいてませんから……」
どうせ私が使うわけじゃないし、そもそも支払いまでこの仕事が続くのかどうかも疑問だ。
アディナはほっそりとした両腕を枕にして顔を伏せてしまった。これではどんな表情をしているのか見えない。
そういえば私は、この子がどこの誰なのかということすら知らないのだった。わかっているのはただ、アディナという名前だけ。それだって本当の名前なのかどうか怪しい。
「……アディナ様は、学校には……行っていないんですよね」
「うん」
親はどうしたのだろう。いないのか、もしくは手放されたのか。
「ここにいるのは、夏の間だけなんですか?」
「そう」
「普段はどこに住んでいるんですか?」
私は質問を重ねていく。さっきまでとまるで逆だ。なんだか不思議な気がした。
「エーレンフェストよ」
「聖都じゃないですか! オルデンベルクなんかより、ずっと都会――」
「でも、外に出ないもの。退屈よ」
ふと頭を上げて私を見たその顔から、子どもらしさが消え失せていた。ついさっきまで鳥と戯れていた笑顔の面影がどこにもない。
彼女はそれきりまたぱたりと額を腕につけてしまったので、その表情が余計に印象に残った。誰かに似ている、と思ったのは一瞬で、すぐにその既視感の正体をつかんだ。
これは、自分だ。鏡の中の。
「あなたの、家族は?」
気がついたらそう訊いていた。
「兄弟はいる? ――お兄さん、とか」
「いけないの」
ゆっくりと金の頭が持ち上がった。
「そういうこと、教えちゃダメって、言われてるの」
ああ、やはり。
「……秘密、ですか」
「うん」
そう言われては、追求はできない。
あまり急いで訊き出すこともないだろう。この子はたぶん、何の関係もない。なぜそう思いたかったのか、その理由も考えずに、私はただ金の髪が陽の光を反射するのを眺めていた。
初日の授業は、結局、他愛ない話をして終わった。アディナはやたらと学院の話を聞きたがり、私はこの一年弱で知り得たことをかいつまんで話した。寮での生活や、授業の様子や、休み時間の過ごし方、課外活動のことなど。彼女は自分自身のことはあまり語らなかったが、それでも好きな本のことや食べ物のことなどを楽しそうに教えてくれた。
少しは仲良くなれた気がして、私はそれなりに満足していた。我ながらずいぶんよくやったと思う。学院の友人相手にだってあれだけ喋ったことはないと思うくらいだ。
彼女はかなりの世間知らずで、ものの見方からちょっとした遊びの工夫まで、ただのお勉強以外にも教えてあげられることはたくさんありそうだった。それがわかっただけでも進歩だ。今日の雑談に費やした時間は無駄ではない、これをふまえて、明日からはちゃんと授業をしよう――と、前向きに考えながらてくてく帰った。
「ただいま戻りました……」
ドアを開け、私はやっと緊張から解放された。我が家、というわけではなかったが、この夏の間はそのようなものだ。アイスラー高原といえば有名な避暑地、ここに私の後見人が別邸をひとつ持っているのである。ボルマンの別荘と違って、立派な門も庭もないが。
「おかえり、僕の可愛いカトリーネ」
「気持ち悪いことを言うのはやめてください」
しかもこんな玄関先で待ちかまえて。
ギルは悪びれもせずに笑う。私はしっかりとドアを閉めて、靴の泥を落とした。
「新しい仕事の感想は?」
これが私の後見人です、とユーリエに紹介したら、即刻クビになってしまいそうな格好を、ギルはしていた。くたびれたシャツをだらしなく着崩し、油のしみが残ったままのズボンをはいている。
「疲れました。……それに喉が痛いです、喋りすぎで」
「それはご苦労様。お茶を容れてあげるよ、こっちへおいで」
「……はあ」
普段はお手伝いのナネッテに任せきりのぐうたらな人が、珍しいこともあるものだと思ったら、どうやら今日の話を聞くためだったらしい。
この家で生活するようになったのは十五日前からだ。十九日前までは学院の寮にいた。それではその中間はどこにいたのかというと、移動していたので泊まりはホテルだった。暑中休暇の間は仕事をしてもらうよとは言われていたが、まさかこんなど田舎に連れてこられるとは。
「で、どうだった。ご令嬢は」
「どうって……、少し変わった子でした。もっとも、私はあのくらいの年の良家のお嬢さんなんて他に知りませんから、比べようもないんですけど」
ティーカップの中のお茶はびっくりするほど甘かった。一口でソーサーに戻したので、ギルに笑われた。
「蜂蜜入りだよ。喉にいいから、飲みなさい」
「……はい」
もう一度喉をしめらせてから、私は彼の聞きたがっている肝心の所を口にした。
「屋敷自体は、普通の造りです。門には警備の者もいませんでした。もちろん、あんな山すそにぽつんと建っているんですから、誰か来たらすぐわかるんでしょうけど」
テーブルをはさんで向かい側にギルがいる。こうして対面していると屋敷でのことを思い出した。目の前にいる男は、あのお嬢さんのふわふわな金の髪とは大違いの、焦げ茶色のぼさぼさ頭をしているけれど。
「見晴らしはよさそうだものな」
「はい。それと、家主は熱心な信者なのでしょうか? ホールに天界の図が飾られていましたし、門柱には悪魔祓いの紋様が刻まれていました」
「ふむ」
ギルは彼の分の紅茶を一気に飲み干した。彼のカップの中の紅茶は蜂蜜抜きなのだろうか。
「元の所有者が刻んだままということも考えられますが……。ボルマンはいつあの別荘を購入したのですか」
「うん。何度か変わっているようだが、二十年ほど前からはボルマン男爵の所有になってる。たぶん、戦時中のごたごたで前の持ち主が手放したんだろう」
「ユーリエという方にはお会いしました。確かボルマン家の長女でしたね? 私が教えることになったお嬢さんは、彼女が連れてきたらしいんです。帰りに庭師さんをつかまえて世間話をしたんですけど、あの別荘に普段住んでいるのはやはり、管理人のフローエ夫妻だけだそうです。奥さんのダニエラは六十くらいの親切そうな人です。旦那さんは昼間ハーブ園に働きに出ているそうで、姿は見ていません。庭師は週に二回、赤の日と青の日に通ってくるそうです。今はユーリエが連れてきたコックと、メイドが一人加わっていて……、それでもあの広さにしては少ないですよね。ユーリエがやってきたのは一月ほど前で、ダニエラは」
「そこまで。おまえはいいかもしれないけど、覚えきれないよ。あとでまとめておいてくれ」
「はい」
昼の間にまとめてしまって、それから、明日の授業について考えよう。考えながらちびちびと飲んでいるうちに、いつの間にかティーカップは空になっていた。
「まあ、せいぜい怪しまれないように気をつけなさい。焦ることはないんだから」
聖歴二六年、七の月、三青の日。私の夏はこの日に始まった。