第37話 八の月 三橙の日(1)
とりあえず、考えなければいいんだ。
己を憂鬱にする思い出は封じ込めて、カトリーネとして、厳しく時には優しく接すればそれでいい。扉の前に立って深呼吸すれば、いつもと同じ「私」になれる。
朝の樅林の中を歩きながら、私は自分に言い聞かせ続けた。途中、たきつけを集めているダニエラに行き会って挨拶をした。大丈夫、いい笑顔ができた。
日なたに出ると屋敷の赤い屋根が見えてくる。ゆるやかな坂をのぼって、門衛さんに挨拶をして、ベルを鳴らして――そんないつもの手順を踏むはずだった。
けれど、その日は違った。坂をのぼりきる前に、門のところから駆けてくる小さな影が見えたのだ。
ああ、そんなに走ったら危ないのに。
「カリン! おはよう。具合はどう?」
アディナは私に体当たりするようにして止まった。小さな手が私のスカートを握る。
どうしてここにいるんだ。待ってくれ、心の準備が。
「あのね、今日はカリンがこの前好きだって言っていたお茶をまた容れてもらうようにしたわ。覚えてる? 杏の香りがするやつよ。それでね、あたしね、言われた三ページ分をちゃんと昨日寝る前に覚えてきたし、今日のお昼はダニエラがおいしいパイを焼いてくれるって」
おはようの挨拶を返すより先に、アディナは次々と話した。
平気な振りをして、いつもどおり振る舞わなければいけない。憎しみは忘れなければいけない。
そんな覚悟は必要なかった。私は気が付けばアディナの髪を撫で、微笑み返すことができていた。
いつから外で待ってくれていたんだろう。指に触れる金の髪が熱をもっていた。
「もう怒ってない? カリン」
心配そうに見上げてくる青い瞳をのぞきこむようにして、私は額を彼女の額にくっつけた。
「ありがとうございます。すっかりよくなりましたよ」
アディナが笑う。ああ、本当に、あたたかい。
お人形に囲まれながら、いつもの部屋でアディナと向かい合った。
何を恐れていたんだろう。今私の目の前にいるのは、得体の知れない生き物ではなく、ただの寂しがり屋の女の子だ。
「率直に言って、昨日は驚きました。考えてもみなかったものですから」
アディナはちゃんと本を広げて授業の態勢をととのえていたのだが、私はすすんで無駄話をふった。
「カリンは天使がこわいの?」
「……いえ、まさか。あなたはかわいい私の生徒ですよ。でも、疑うわけではないですが、いまいち実感が湧かないというか」
そんなに怯えていただろうか、昨日の私は。
「信じられないのね」
「まあ、そうです。だからアディナ様、なにか証拠を見せてくれませんか?」
「証拠? そうねぇ」
じゃあこれ、と、アディナはいつも首にさげているペンダントをつまみあげた。
「冷命石っていうの。天使にしか作れない石よ」
濁った白だと思っていたその石は、近づいて見ると、内部から燃えるような輝きを放っていた。
「確かに、不思議な感じのする石ですけど……」
「天使はね、癒しの力を持っているでしょう。怪我や病気を治せる」
アディナは話を変えた。それともどこかで繋がっているんだろうか。
「光呪ですか」
「そう。あれはね、生きるための光をね、注ぐからできるのよ。でも、それを注ぐためには光を集めなきゃいけないの。太陽の光じゃないのよ。それはね、命あるものがみんな持っている活力なの。天使たちは、神殿にやってくる病気の人たちを治すために、温室の花から少しずつ光を集めてるのよ。あのね、カリンたちが息をしたり食事をしたりするのは、生きるための力を空や食べ物からわけてもらうためでしょう。それと同じことを、天使は別の方法でできるの。そして人に与えることもできるのよ」
初めて聞く話だった。私はうなずきながら、全てを記憶することに神経を注いだ。
「その光を蓄積しておくことができるのが、この石なの。天使は自分の体の中にも光を持っているけれど、溜めておける光の量には限界があるのね。だから、これを常に身につけて、無駄が出ないようにしているの」
命の力が宿っているという石は、見つけ続けると目が痛くなってきそうだった。そういえばレオが、なにか溜まっているとか言っていたっけ。
「その光を集めるというのは、意識的にやるんですか」
「普通はね。よくわからないけど、自分が弱っているときに体が勝手に光を集めることもあるって聞いたことがあるわ。ほんとは、天使はいつも、普通にしててもその力が少しずつ溜まっていくの。でもたくさんの人を治すには足りないから、かわいそうだけど花や木からわけてもらうんですって。あたしは、まだそれがうまくできないの。でもこの石に、ずいぶん力が溜まってしまってるし、ひょっとして気づかないうちに……」
「ハーブを枯らしたかもしれない、と?」
「そうなの」
私はまた、悪魔が天使を狙って寄ってくるから、ここのハーブが枯れてしまったとかいうことなのかと思っていた。