第31話 八の月 二黄の日(1)
八の月、二黄の日。まだ昼食前で、授業中だった。私はいつものようにアディナと机をはさんで向かい合わせに座り、彼女がペンを動かすのを待っていた。
二人とも黙っていたせいだろうか、一階から悲鳴のようなものが耳に届いた。ユーリエの声だ。私が顔を上げると、同じように驚いているアディナと目があった。
「……立ってもいい?」
「どうぞ」
アディナがそうっと椅子を離れてドアへ向かう。私も気配を抑えて廊下へ向かった。いざという時はアディナをかばえるように、距離を詰めて、緊張しながら。
なんとか様、とユーリエが言うのが聞こえた。どこか安心したような声だった。それで、私は足をゆるめた。
「やあ、ユーリエ。怪しい奴らがうろついてたんで、捕まえてきたよ」
聞き覚えのある明るい声が届いた。
アディナが急に速度を上げて階段を駆け下りる。私は追わなかった。
「レオ!」
ココア色の髪をした男が振り返る。
「やあ、おチビちゃん。元気そうでなによりだ」
アディナがレオと呼んだその男が誰か、ようやくわかった。数日前に声をかけてきた、あの頭の軽い軟派男だ。
「……もしかして、迎えにきたの……?」
アディナが暗い声で言った。私は二階の廊下からそれを見下ろしていた。
「いいえ。あなたの様子を見に、ちょっとね」
レオは暢気な調子で答える。その足元に、縄でくくられた男が二人も転がっていた。
ユーリエは口をぽかんと開けたままで片手を胸に置き、もう片方を壁について、精一杯に体を支えているというような雰囲気だった。玄関を入ってすぐの所にはティーロもいて、剪定バサミを持ったまま突っ立っている。アディナはきょろきょろとそんなホール全体を見回した。
「シュテフは?」
「あいつは居残りです。レシリア様についていますよ」
「……そう」
明るくなったアディナの声が再び沈んだ。誰だ、シュテフって。
「メルニエの騒ぎでみんなが忙しくしてるところに、悪魔の噂が聞こえてきてね。手が空いてる奴がいないってんで、僕が立候補したんだ。ご不満ですか? アディナ様」
「ううん。来てくれて嬉しいわ。でも……」
男爵家のユーリエが様をつけて呼ぶこのレオという男が、アディナを敬う。一体、彼女は何者なのだろうかと改めて不思議に思った。
前に冗談で言ったみたいに「皇女様」なんかじゃなきゃいいけど。
「ちょっと失礼」
レオがアディナの前にひざまずいた。
「ずいぶん溜まってますね。シュテフがいればよかったんですが」
「あたしがやったの?」
不安そうにアディナが言った。なんのことだかさっぱりわからない。とりあえず、ただの変態かと思ったこの男とアディナは知り合いで、それもかなり親しいということだけはわかった。
「さあ、どうでしょうか」
曖昧に答えて、レオは立ち上がった。
「ユーリエ、こいつらが何をたくらんで屋敷の近くをうろついていたのか、僕が訊き出しておくよ。保安局に突き出すのはその後でいいかい?」
「え、ええ……。お任せしますわ」
事の経緯は、ティーロが屋敷の庭で不審者を見かけて声を上げ、ハサミを武器に追い回そうとしたところ、ナイフで応戦された上に不審者が二人に増え、万事休すというところでレオが駆けつけ命を救ってくれた、という具合らしい。
レオはフルネームがレオポルト・グラーフ・フォン・フラウンホーファー。つまり伯爵様だという。この若さで、あんな軽い頭をしたやつが。いや、貴族だからといって素晴らしい人間だとは限らないというのは学院のご令嬢方を見ていれば普通にわかる。わかるが、レオの言動のおかしさは彼女たちとは明らかに一線を画していた。
いや、伯爵様のくせに変態だとかそんなことはいい。この際もっと問題なのは、アディナのことだ。この、信じがたいが一応曲がりなりにも伯爵だという男がアディナにひざまずくという事実。伯の上といえば公くらいしかなくて、その更に上といえば皇家。いや、外国の要人ということも有り得る。滅亡したエインズワースあたりの王家の末裔とか、あるいははるばる南大陸から留学のためにやってきた姫君とか。それならアディナに常識がないのもうなずける。
想像するだに遠い世界の話になってきて、頭が痛い。だがもうそのくらいでないとつじつまが合わないのだった。
昼過ぎになって戻ってきたレオはアディナの部屋にも顔を出した。私のことを覚えていたようで、運命に感謝するとかなんとか意味のわからないことを相変わらずの妙な口ぶりで繰り返した。正直うっとおしかったのだが、立場上邪険にするわけにもいかず、笑顔をうかべてそれなりに愛想よく対応するようつとめた。
しかし、あまりに馴れ馴れしかったのでつい我慢しきれずに、へらへらした大仰な話し方は好きになれない、真面目で寡黙な男性の方が好みですなどと言ってしまった。
この意見にはアディナも賛成してくれた。
「やれやれ、二人もの将来有望なレディに否定されるとは」
レオは大きく肩を落として嘆いたが、それほど落胆しているようには見えなかった。