第30話 八の月 第一聖休日
その週の聖休日も、私は礼拝に出かけた。皆悪魔の噂に怯えて外出を控えているという話なのに、参礼者の数は前回より多いくらいだった。祈りで気を紛らわそうというのか、救いを求めようというのか――どうせ、天使は水の神殿にしかいないのに。
枯れたハーブ園は確かに異様だが、私から見れば、誰一人怪我もしてないこの状況で悪魔が出たなんて騒ぐ方がどうかしている。そもそも、悪魔は人を襲うもので、だからこそ恐れられているのだ。ハーブだけ枯らしてなにもしないなんておかしいじゃないか。
けれど原因のわからないことほど人は恐れるものだ。カレーラ病もそうだった。異変が今後続かないにしても、しばらくは皆不安を抱えて過ごすのだろう。
この夏は、暑さのせいか体調を崩す者も多く、ケルステンの町は全体的に沈んでいた。
教会長からは、町の問題をむやみに触れ回ったりしないよう気をつけて欲しい、天使庁にも連絡はしてあるという話があった。が、人の出入りの多くなる夏に、噂を抑えようとしても無理だろう。実際、滞在客の多くはこの避暑地を捨て、もっと涼しい場所に出かけるか暑い自分の家に帰るかのどちらかを選んだようだ。彼らの散っていった先で、この事件は伝聞に伝聞を重ねながら広まることだろう。
この日はユーリエと話すことはできなかったし、スヴェンもまた来ていなかった。
それで、私はひとりで家に戻って、仕事のない退屈な午後を過ごした。
これから始めるのは、アリアーガのかつての首都、ハシントの近くまで来た時の話です。濃い青の空から太陽の光がまっすぐに降り注ぐ、よく晴れた冬の終わりの日でした。
噴水の近くに腰掛け、手帳を覗き込んでいると、突然見知らぬ子どもが声をかけてきます。
「そこの店はマズいよ。外国人には失敗作を出すって評判だ」
私が顔を上げると、彼はにっこりと笑いました。どうやら、メモしていた店の名を盗み見たようなのです。
「オレならベルデリーオをお薦めするよ。店長は無愛想だけど、安いし味もそこそこなんだ。あっちの通りをまっすぐ行ってさ、緑の看板が出てる店だよ」
彼の上衣はぶかぶかで袖を折り返してありました。ズボンは逆に小さすぎ、ただでさえ細い足を余計に細く見せています。髪はもつれてぐしゃぐしゃ、頬には泥がこびりついて、琥珀の瞳だけが澄んでいました。
「おばさん、どこの国の人?」
「ディーリアスよ」
「ウソだろ。……だって、あそこもう国はないんだ」
驚いたのは私も同じでした。十歳そこそこの子どもが、祖国を知っているとは思わなかったからです。
「その通りよ。今はテニエスに住んでいるわ」
私はつたないアリアーガの言葉で答えました。
「ふーん」
テニエス、と言うとやはりいい顔はされませんでした。それは当然の感情でしょうから、私は黙っていました。
「……ベルデリーオね。ありがとう、行ってみるわ」
もう一度手帳に目を落として書き付けると、ふと差し出されたものがありました。私の財布です。いつの間に鞄から抜き出したのでしょうか、彼はそれを手帳の上に置きました。
「おばさん、騙されそうだから気をつけて。隙だらけだよ、もっと注意しないと」
私は怒るべきだったのでしょうが、その間合いをはかれず、答える間もなく彼は去っていきました。
「じゃあ、さよなら」
残された私は財布と手帳を鞄にしまい、不思議な手品をみせた少年のことを考えながら緑の看板を探しました。確かにその店の料理はまずまずで、店長はむっつりとしていました。私は支払いの段になってふと思いついて財布の中身を確認しました。たぶん減っていません。たぶんというのは細かい数字まで覚えていなかったからですが、それより確実で問題だったのは、旅券がなくなっていたことです。
私は食事の後、街境の詰め所へ向かいました。しばらく待たせてもらうと、予想通り、衛兵に引っ張られて彼がやってきました。
「おかえり。待ってたわ、ぼうや」
手を縛られた彼は私に気づいて憮然と顔を逸らしました。私は旅券を返してもらって、ついでに少年の身柄も引き受けました。
「使おうとしたらすぐに捕まるのはわかってたの。この旅券、特徴もなにも書いてないから大丈夫だと思うでしょう? ところが、この端の色、これが性別なの。それで、このハンコのギザギザが年齢ってわけ。あなたが使えない訳、わかったでしょ」
噴水前で出会った時の彼は演技をしていたらしく、詰め所から出た後はほとんど無言で、あの明るい人懐こさはどこかへ行っていました。
「ねえ、どうして街に入りたいの?」
この時――現在でもそうですが――ハシントでは人の出入りが厳重に警戒されており、テニエス本国の旅券がなければおいそれと入っていけませんでした。財布をわざわざ返したことからも、少年の目的は、ただハシントに行くことだろうと私は推測したのです。
「父さんに会いに」
彼は短く答えました。