第29話 八の月 一藍の日(4)
アディナはこの場所を気に入ったようだった。自然の豊かなことなどより多分、謎めいているところがお気に召したのだろう。花の名前を尋ねたり、地層のしわとにらめっこをしたり、水面に木の葉を浮かべたりして方々を歩き回る。
彼女の口ずさむ歌は、それこそ魔法の呪文のようだった。調子のはずれたでまかせのメロディ。ルルルとかラララだけでなく、なんだか変な音があれこれと混ざっている、気まぐれな歌。かと思うと同じフレーズが繰り返し出てきたりするので、実は曖昧に覚えている歌を無理矢理繋げただけなのかもしれない。
ふたりで池のほとりの大きな岩に腰掛けて、休憩をした。さすがに疲れたのか、アディナは崖の上の方を眺めながら黙っていた。そろそろ帰った方がいいだろうか。
「ねえ、どっちが先かしらね」
不意にアディナが言った。
「なんのことです?」
「この谷底が大鳥の家だったとして、領主さんが大鳥をここに連れてきて住まわせたのかしら、それともはじめからここに生き残っていたのを見つけたのかしらって考えてたのよ」
ああ、なるほど。そういえばそこまでは考えていなかった。
「あたし大鳥は元々ここにいたんだと思うわ。はじめはね、ただ落ちたの。あの崖の上からね。それを恋人が見つけて、引き上げられないから、かわりに自分も落ちたのよ。そしてこの大きな鳥かごの中で、二人で暮らしはじめたの。きっとそうよ。一人だけだと増えないものね」
ロマンチックなんだか間抜けなんだかよくわかんない話だな。
「それで、こんな場所だから誰にも見つけられずに、他の場所で仲間たちが死んでしまっても、ここだけは大鳥が生きていられたの。ね、そうだと思わない?」
「確かに……、大鳥が絶滅したのは乱獲が原因らしいですから、ここにいた大鳥だけ生き残ったというのはあるかもしれませんね」
「でしょう?」
賛同を得られたことに満足してか、アディナはにこにこしながら足をぶらつかせた。岩の下の方は苔が生えていて、灰と緑のまだらになっていた。
「これだけ大きな鳥籠だなんて想像もしなかったけど、ここなら暮らしやすそうだわ」
そう言って、アディナは足を止めた。
「ウィーダも恋人が欲しいかしら。……ずうっとあの籠の中は寂しいかしら」
太陽の下にいるせいだろうか、ペンダントの石がいつもより強く光って見えた。
「風切り羽が伸びれば飛べるようになりますし、訓練すれば、虫も捕まえられるようになると思いますよ」
「そんなことができる?」
「ええ。自然の中で生きていく力は、元々備わっているものです。引き出してやりさえすれば、きっと」
「ふうん……」
アディナはうつむいて、もう一度足を揺らした。そしてそのまま、またじっと考え込んでいる。
私はそれを邪魔しないように、池の方を眺めた。とても静かだった。それなのになんだか落ち着かない。なにかを見落としているような、変な気分になる。
「カリンのお母様って病気で死んでしまったんでしょう。その時、どんな気持ちがした?」
唐突な質問に、私は驚いた。ああ、スヴェンが話したのか。否応なく母の顔を思い出して、言葉に詰まった。
いや、そうじゃない、あの女とは違う誰かの話だ。カトリーネの――私の母は私を思いながら死んだのだ。
「……それは、もちろん、悲しかったですよ」
「ごめんなさい。嫌な気持ちにさせてしまって」
「いえ、そんなことは」
冷たくなった指先を手のひらの中に握りこんで、私は意識的にゆっくりと呼吸をした。
「あたしのお母様はね、お喋りはしないけど優しいのよ。あたたかくて、いつも、いい子いい子って頭を撫でてくれるの」
うつむいた肩からさらさらと金の髪がこぼれる。
「かえりたいな……」
ぽつりと落ちた呟きは空気に溶けて消えた。ぶかぶかの帽子が前に傾きすぎるのを、私は手を伸ばして直してやった。
「ユーリエに頼んでみてはどうですか」
「それはしてはいけないことだもの」
普段はわがまま勝手に振る舞うくせに、ずいぶん物わかりのいい答えだった。
「……してはいけない事ほどしたがるのが子どもでしょう」
「そうね。でもそれは、その結果何が起こってしまうのかちゃんと知らないからできてしまうことなのよ」
初めて会った日に見たのと同じ、からっぽの表情だった。全てを諦めたような、冷めた瞳。いつか見た、鏡の中の自分。
そうか、ただ暑かっただけじゃない。アディナは悲しみ、思い悩んでいる。けれどその理由は、私の触れられないところにあるのだった。