第2話 七の月 三青の日(2)
こちらです、と、ようやく案内されたのは、廊下の突き当たり、屋敷の一番南に位置する部屋だった。
ダニエラがノックをして声を上げる。
「アディナ様、アディナ様。先生がいらっしゃいましたよ」
「待って。開けないで。少しだけ!」
よく響く高い声が返った。しばらくどたばたと音がしていたかと思うと静かになり、やがて「いいわ」と声がかかった。ダニエラがノブを回す。
まっさきに視界に飛び込んできたのは子どもの群れだった。一瞬ぎょっとして体を硬くしてしまったほどだ。いや、よく見ればそれは精巧な人形だったのだが、目にガラス玉を嵌められ、ふんだんにレースの使われた色とりどりのドレスをまとった人形が、床はもちろん棚やら机の上にまでぞろりと座っていては、かわいいとか綺麗だとか感じるより先に気持ち悪いと思ってしまう。それどころか、十数体はありそうな人形たちの中で一番大きいのがまばたきして笑ったので、一歩どころか三歩ほど後じさるところだった。
いや、待て。人形が笑うわけあるか。落ち着け。やっぱりこれは子どもだ。
一番大きな人形――否、アディナ様とやらは、部屋に置かれたどの人形よりも美しかった。眉は短く、くるっとした瞳は青玉の輝きを放っていて、長いまつげがいっそう目の全体を大きく見せている。肌はひたすら白く、かといって血色が悪いのかというとそれほどでもなくて、唇なんかなにも塗ってないくせにアーモンドのつぼみみたいに綺麗なピンクだ。レースのリボンでまとめられた金の髪は綿毛のようにふわりと浮かび上がろうとしていて、実際彼女が動くとつられて揺れた。しゃらしゃら音がしないのが不思議なくらいに。
「はじめまして、アディナです」
彼女が目の前に立った。
わあ、かわいい。とりあえずまとめて手放しでそう思ってしまった。完全に負けてる。やっぱり本物は違うな――いや、学院にだってこんなとびきりのお嬢さんはいなかったけど。
ダニエラの視線を感じる。しまった、ここは私が挨拶を返すところだ。
「こんにちは、お嬢さん。カトリーネ・エルス・マクシウスです」
「ふうん……」
青玉の瞳がきらきらとこちらを見上げてくる。彼女の背丈はだいたい私の胸の辺りといったところだ。
「あなたはいくつ?」
「じ、十三になります」
「そう。じゃあ四つ違うのね。あたしは九歳よ」
計算できるんですねとか言うのも失礼な気がして返す言葉がなかった。そうか、四つ下。九歳というのはちょうどこのくらいなのか。
「ねえ、ダニエラ。ほんとにこの人が新しい先生なの?」
やっと彼女の凝視から解放されて、溜まっていた息を吐き出す。なんだかどっと疲れた。
「ええ、とても優秀な方なんですよ。フィリーネ女学院の首席でいらっしゃって」
「その話はもう聞いたわ」
金の髪をふわっと揺らして、彼女がまた私を見る。
「それじゃあ、よろしくね。カリンと呼んでもいい?」
「あ、はい。もちろんです」
「それで、あたしのことは、アディナと呼んでね」
「はい、アディナ様」
「……では、わたくしはお茶の準備をして参りますので、これで失礼いたします。アディナ様のこと、よろしくお願いします、マクシウス様」
ダニエラが行ってしまうと、アディナは私の手を引いて室内へ導き、扉を閉めた。
そのまま椅子に座るのかと思えば――ひとつの机に二つの椅子が向かい合わせに準備されており、いかにもここで教えるのだなという感じだったので――彼女は机を迂回して窓際まで突き進んだ。
「紹介するわ。あたしのお友達、ウィーダよ」
人形の山に気を取られて気づかなかったのだが、そこには金色のワイヤーでできた鳥籠が吊してあり、中には彼女の目の色によく似た翼を持つ鳥が一羽、すまして立っていた。
差し入れられた指を、鳥は白いくちばしでつつく。アディナは嬉しそうに笑って、その鳥のくちばしをつまみ、親指で撫でた。
よく見れば、部屋のあちこちに羽が落ちている。さっき戸を開ける前に時間があったのは、こいつを籠の中に戻すためだったのか。そこまで納得したはいいものの、彼女は楽しそうに鳥と戯れるばかりで、いっこうにこっちを見てくれない。
ここは、さあ授業をはじめますよと言って椅子に座らせるべきなのだろうか。困った。家庭教師なんてやったことがないし、されたこともない。つまり、どうしていいのかよく知らない。この場合、彼女の方が経験者なのだからなんとかしてほしいと思うのだが、こちらが教える立場なのだからしてそれはまずいような気もする。
「……あの」
「なあに?」
アディナは相変わらず鳥に夢中だ。ちらりともこちらを見ない。
「このお人形には……名前はあるのですか?」
我ながらくだらない質問だが、思いついてしまったものは仕方ない。というか、よくできた人形に囲まれていると落ち着かなくて、見られているように感じて、さっきから私は結局人形のことばかり気になっているのだ。
「別に」
人形たちの主がようやくその目を私に向けた。
「全部もらいものなの。いっぱいあるからひとつあげましょうか?」
「あ……いえ。アディナ様のものを、私がいただくわけにはいきません」
もらった。誰にだろうか。全部同じ人物からか、それとも複数いるのか。
「そう?」
アディナはくりっと首をかしげた。リボンと柔らかい金の髪がふわりと踊った。
彼女は人形にさして興味がないらしい。いよいよ話すことがなくなった。話題をさがして広い部屋を見渡す。高そうなランプ、高そうなソファ、背も高い本棚、色とりどりの花が咲き乱れる絨毯、陶器のオルゴール、どれも当たり前のようにそこにあってとりたてて質問することがためらわれた。もし深い知識があったら、この絨毯を見てあらなんとか織りですね、とか言えたかもしれないのに。そういう本も少しくらい読んでおくんだった。
こんな子ども相手に情けないことだが、私は初対面の相手と打ち解けて話したりするのがそもそも苦手だった。いや、苦手だとかそんなことを言っていられない状況だというのは百も承知なのだが。
「……これも、贈り物ですか」
ふと覗き込んだ編み籠の中に、木彫りの馬や小さな帆船、きらきら光る糸でできた毬、ぜんまい仕掛けのブリキの王子様、ピンクに塗られた笛、造花のブーケなどが積まれていた。どれも思わず見入ってしまいそうな美しい品だ。これをひとつでも持っていたら、故郷のあの村では周りの子どもたちの羨望を集めたことだろう。
「そうよ。遊んでみる?」
「いえ……」
さすがにそれは遠慮したい。いや、そもそも今は仕事中なのだ。
私は机の側に歩み寄り、帽子を置いて、ハンドバッグの中から眼鏡を取り出した。とりあえず教科書を出して勉強を教える体勢になってしまえばなんとかなると思ったのだ。
ところが、そうそううまくは運ばなかった。眼鏡をかけたところではりつく視線を感じた。
「ねえ、それ貸して」
アディナはなんだか逆らえない魔力でもってお願いをしてくる。私が眼鏡を外すと、彼女はほとんどひったくるような勢いでそれを奪って、踊るようにくるりと後ろを向いた。一瞬うつむいて、そして、またかかとをつけたままターン。ドレープのとられたスカートがさっと広がった。
「似合う?」
私のための眼鏡は、彼女の小さな顔には合わなかった。全然似合ってませんなんて答えるわけにはいかないし、明らかに変なのだから「お似合いです」なんて言うのもご機嫌取りのようで気が引ける。それで逡巡しているうちに、少女は奥のドアを開けて部屋を出て行ってしまった。眼鏡をかけたままだったためか、軽くふらつきながら。
そこはどうやら彼女の寝室のようだった。それとわかったのはベッドがあったからだ。さすがに中にずかずかと入っていくのはためらわれたので、私は開け放しのドアの前に立って様子を見た。
アディナは大きな姿見の前で背伸びをしながら、顔を色々な角度に傾けていた。そして鈴が鳴るようにくすくすと笑った。
「あははっ。へんなの」
お愛想で似合ってますなんて言わなくて本当に良かった。アディナは駆け戻ってきて眼鏡を私の手の上に載せた。
「はい」
「ああ、ありがとうございます」
ちょっと待て。なんで私がお礼を言わなきゃならないんだ。逆じゃないのか。
「アディナ様」
「なあに?」
間違って答えてしまったのはこっちなので、ここはお礼を言うところですなんて説教するのも馬鹿馬鹿しい。どうしようか考えた結果、出てきたのはずっと言おうとしていた台詞だった。
「……では、お勉強をはじめましょうか」
アディナはまばたきをしてから、そうだったわねと椅子を引いてちょこんと着席した。
言えた。
ほっとしながら向かいに腰をおろしインクとペンを取り出す。さて、何からはじめたものだろうか、と考えながら。