第27話 八の月 一藍の日(2)
「カリン、暑いわ」
そう言われても、暑いのは私のせいではないから困る。
昼食を済ませたばかりで、これからが遊ぶ時間なのだが、アディナはぐったりと机に顎をつけて両腕を投げ出すという変な姿勢をとっていた。
「あたし、今日は水になりたい気分だわ。ねえ、カリンはどうしてそんな長袖を着ていて平気なの?」
「ここは外に比べればだいぶ涼しいですよ。それに私、暑いのには慣れていますから。南方のネーフェで育ったんですよ、アリアーガとの国境付近――だったところです」
今はもう国境とはいえないだろう。アリアーガは国でなくなったのだから。
「ああ、知ってるわ。アリアーガって暑いんでしょう。冬も雪が降らないって書いてあったわ」
「外つ国訪問記、ですか」
「それよ。確か、カリンに似た名前の人が出てきてたわ。なんだったかしら」
「そんなことを思い出すより、歴史の人物名でも覚えてください」
アディナは鳥のように唇をつきだす。それが不満を訴える時の彼女のいつもの仕草なのだ。予想通りのその表情が現れて、私は笑った。
「なんで笑うのよ」
アディナは体をまっすぐに起こした。
「内緒です」
「くすぐっちゃうわよ?」
「やめてください」
私は両手を前に出して防御の姿勢を取った。
「あの本は好評だったので、今度続編が出るそうですよ。週に一回、新聞に連載されているらしいです」
「本当? 詳しいのね、カリン」
「まわりの女生徒たちが話していたもので。私は、読んでません。あの著者が、あまり好きじゃなくて」
「ふうん」
アディナはまた背を曲げて、今度は頬を机にあてた。
今日は本当に、元気がない。朝からずっとこんな調子だ。
「楽しみだけど……あたし、買いに行けないわ」
「出たら送ってあげましょうか。エーレンフェストの住所を教えていただければ」
さりげなく言ってみたが、アディナの答えはなかった。
「……秘密、でしたね」
アディナがそのまま動かないので、私はウィーダのいる窓辺に目をやった。相変わらず、これでもかという具合に晴れている。こう暑い日が続いちゃ、参るのもわかる気がするな。何のための避暑地なんだか。
午前中も勉強に身が入らない様子だったし、このままではいけない。どうにかして気分を変えさせる必要があるだろう。そうだ、野外学習なんてどうだろうか。近くに林もあることだ、あそこならいくぶん涼しいから気持ちよく過ごせるだろう。植物を観察したり、そう、絵を描くのは好きみたいだからスケッチでもさせてみようか。
「アディナ様、今日はせっかくのいいお天気です。いつも部屋の中ではつまらないでしょう? 今から外に出かけませんか」
学院の令嬢たちが秘密を打ち明けるときのように、軽く身を乗り出しわずかに声を潜めて、私は提案した。アディナはつられたように顔を私に近づけたが、まばたきを繰り返した後で椅子の背にもたれた。
「……あたし、行きたくない。外に出ちゃいけないの。駄目だってユーリエが。だから無理よ」
すまなさそうにアディナは言った。
行きたくないのと行けないのとでは大きな差があるのだが、どちらの比重が大きいのかは量りかねた。
「どうして駄目なんですか?」
「……知らない人に会うからだと思う。それに、具合が悪くなるかもしれないし」
ちらりと外を見て、それからアディナはまた机に伏せた。
「でも、私の知る限り、あなたは一度もこの屋敷の屋根の下から出ていないでしょう。それじゃあ気が詰まるのも当たり前です。大丈夫ですよ、最近のあなたは顔色もいいし――そうだ。いいことを思いつきましたよ、アディナ様」
「うー?」
へばったままのアディナから、力の抜けきった声が返った。
「私、とても涼しい場所を知っているんです。そこなら大丈夫、絶対に人に会ったりしません」
「でも……」
「要は見つからなければいいんでしょう? ダニエラとユーリエは午後から教会で話し合いだと言っていたし、今頃きっとコックさんとメイドさんはお片づけの真っ最中です。それに今日は藍の日ですから、庭師さんもいません。スヴェンのおじさんは朝から出かけていましたよね」
「門番の人は?」
私は立ち上がって窓を開けた。ウィーダのいる方ではなく、東の山に面した入り口近くの窓だ。タンスの上に鎮座したお人形が邪魔だったが、床の方にご遠慮願って足場を確保する。
「ご心配なく、門は通りません」
見下ろすと、そこがちょうど、納屋の真上。思った通り、いい距離だ。
私は机のそばまで戻り、念のため、私の帽子をアディナにかぶせてリボンを結んでやった。アディナは例によってそれが似合うかどうか気になるらしく、本棚のガラスに自分の姿を映しながら右を向いたり左を向いたりした。
「さあ、出かけましょう」
返事を待たず、私は開け放した窓から飛び降りた。納屋の平たい屋根に着地して振り返ると、アディナがこわごわとこちらをのぞいていた。