第19話 七の月 四紫の日(3)
「帰ってって言ったじゃない」
アディナは手のひらでごしごしと顔をこすったが、その結果は真っ赤になった頬じゅうに涙を広げただけだった。
「私は、あなたのことを嫌いじゃありませんよ。ちゃんと言うことを聞いてくださればもっと好きですけど」
潤んだままの青い目が私を見ていた。
「それに、私を大嫌いなのはあなたの方でしょう」
「あんなのウソよ。信じないで」
はじめからそうして素直にしていればかわいいのに。
アディナは鼻をすすりながらもう一度涙を拭い、それから私の腕に触れてきた。
「あの、痛かった? ごめんね……ごめんなさい」
「ああ」
昨日のことを、アディナは彼女なりに気にしていたらしい。私は一晩眠ったらすっかり忘れていたというのに。
「あたしもひっかいていいわよ」
少し考えるようにしてから、覚悟を決めたような表情でアディナはそう言った。
「できません、そんなこと」
「人に痛みを与えたら、自らもそれを受けなさいって。対等にならないといけないんですって」
どこの教会長のありがたいお言葉だ、それは。
「対等じゃないですよ。だって、私はもう怒っていませんから」
「じゃあ、明日からも来てくれる?」
「それは無理です」
アディナはまた泣き出しそうな顔をした。
「明日は聖休日ですから。赤の日になったら、また来ます」
「ほんと?」
「仕事ですから」
私は乱れたままの金の髪を撫でた。ギルがしてくれたことを思い出しながら。
「カリンって、お母様みたい……」
それはかなり嫌だ。
そう思ったけれど、膝の上にすり寄ってきたのを放り出すわけにもいかないので、結局私の手はアディナの柔らかい髪に触れたまま。
「でも、時々は遊んでね、カリン」
仕方ないなぁ、もう。
「悪魔が出るらしいね」
その夜、突然部屋にやってきたギルは、予想もしない話題を口にした。
「は?」
私の間抜けな声とほぼ同時に、しゃきんと音をたててハサミが布を切り落とした。
「いや、町で噂になってるんだよ。夜中に怪しい人影を見た、悪魔に違いない、ってね」
「はあ。どうしてそうとわかるんですか?」
「天使と違って悪魔はわかりやすいよ。僕は研究熱心だからね、ちゃんと調べたんだ」
悪魔はテニエスにはいないはずだ。なんといっても天使の守護する国だから。少なくとも、教団はそう主張している。
私は針刺しから一本抜いて、糸の先を舐めた。
「悪魔に関してはいろんなイメージが出回っているが、ひとつだけ共通している部分があるんだ。これは確からしい」
注意深く針に糸を通しながら、ギルの演説に適当な相づちを打つ。
「ツノでもあるんですか」
「いや、目が赤いんだそうだよ。本当に知らなかった?」
「悪魔の特徴なんて学院では教えませんよ。天使のことなら嫌というほど聞かされますけど」
「なるほど」
無事に糸が通ったので、私は布きれをとりあげた。
「まあ、噂されてる悪魔っていうのは要するに、その怪しい人物っていうのが顔を隠していたってだけの話らしいけど」
「なんですかそれ」
「だから、目が赤いのを見られないために、悪魔はいつも顔を隠してるって話なんだよ」
その理論だと、目深にフードをかぶっている人物は全員悪魔だということになってしまう。要するに、くだらない噂だということはよくわかった。
「白ウサギでも怖がっていればいいんですよ」
本気で面白いと思ったかどうかは知らないが、ギルは軽く笑った。
「どっちにしても、怪しい人物がうろついてるってのには違いない。要注意だね。ところで」
ようやく本題だろうか。
「おまえは何を作ってるんだい」
違った。なんだ、ただ暇を潰しに来ただけか。
「クッションです。アディナ様が今使っている椅子、低いんですよ。どうも集中力が続かないと思ったら、テーブルが高すぎて肩がこるみたいなんです。だからこれを敷いて座らせようと」
ナネッテに分けてもらった端切れは、大きさも色も柄もまちまちだったが、パッチワークにすればそれなりに派手になり、アディナも気に入ってくれるのではないかと思えた。
「ふーん。学院では裁縫も教えているんだっけ? まったく、おまえは器用だね」
「そうですか? 私、実技は苦手です。手芸の先生にはセンスがないと言われたこともあります」
今度こそギルは大笑いしてくれたが、あまりうれしくなかった。