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第1話 七の月 三青の日(1)

 履き慣れた靴を履いて、歩き慣れない道を歩く。

 けれどそのうちこの道にも慣れるはずだった。これからしばらく、聖休日以外は毎日通ることになるのだから。そういえば――具体的にいつまで、というのは聞かなかった。ただ、夏の間としか。これは後で確かめなければいけない。

 ともかく今は初めてのこの道を、私は歩く。片手には一応、詳しい場所の記されたメモを持っていたが、すでに目を落とすことすらしていない。なぜって、どうしようもなく一本道だったからだ。

 無意味なメモの代わりに私は景色を楽しんだ。樅の林の風は心地よく、日の光さえ緑に染まっている。目の前に飛びだしたウサギを視線だけで追いかけると、ちょうど紫の花が集まって咲いているところに入っていった。近づいたらなんの花か判るだろうけれど、あいにく寄り道をしている余裕はない。初日に遅刻なんて、するわけにはいかないのだ。

 ペチコートが太ももにまとわりついてざわざわするのを我慢しながら歩き続けると、やがて林を抜けた。山を背にした赤い屋根の建物が見える。あれだ。ゆるやかな坂をのぼって、ようやくたどりついた門をくぐる。郵便受けには、フライヘル・フォン・ボルマンとあった。間違いない。

 屋敷の扉を前にして、私は深呼吸をした。目を閉じて、一度、二度。けれどその程度のことで鼓動は静まらなかった。

 とく、とく、自分の心臓の音を聴く。

 決してあの程度の距離で歩き疲れたなんて事はない。そう、要するに私は緊張しているのだ。このまま現実を遮断しているわけにもいかないので、目を開けて辺りを見回す。広いアプローチは色違いのタイルが規則的に並べられており、見た目にも美しい。通路の両端には樹木が植えられていて、ちょうどいい日陰になってくれていた。

 じわりと汗がにじむのは、夏の陽気のせいだけではない。もう一度深く息を吸い込んでみたが、どうにも心をなだめることはできそうになかった。

 ただ立ちつくしているだけなんて、広場で祈りを捧げられるだけの天使像みたいじゃないか。私はそんな意味のない存在ではなく、自分で考えて、動くことのできる人間だ。だから、だから呼び鈴を鳴らさなくては。

 扉に一歩近づき、それから思い直してハンドバッグに手を伸ばす。探り出したコンパクトを開けて――情けないことに手が震えて、少し手間取ってしまったが――私は鏡の中を覗き込んだ。うっすらと化粧を施した、不安そうな少女の顔。ああ、いやだ。

 落ち着いて、カトリーネ。

 コンパクトを近づけ、眉も紅も整っていてどこもおかしくないことを確認する。大丈夫。どこから見ても、「これ」は良家のご令嬢だ。

 ひとつ息を吐くと、私は丁寧に蓋を閉め、コンパクトを元通りにしまった。

 いまさらじたばたしたって、どうにもならない。気持ちで負けてしまっては失敗する可能性が高くなる。胸を張っていくしかないのだ。

 私は呼び鈴に手を伸ばした。思ったよりも澄んだいい音がした。

 笑顔で挨拶をして、屋敷の人に気に入られなくてはいけない。いい印象を与えて、せいぜい休憩に美味しいお茶と、そしてできればお菓子を出してもらえるようにしなくてはいけない。そんな余計なことを考えながら待ったが、返事はなかった。

「……?」

 どうして誰も出ないんだ。

 念のため、もう一度紐を引いた。残響が消えると、あとは鶏の鳴き声くらいしか聞こえてこなかった。たぶん、家畜小屋で飼われているんだろう。いや、今はそんなことはどうでもいい。

 人がわざわざこんな辺鄙な場所まで歩いてきたというのに、指定時刻の少し前という模範的な到着の仕方をしたというのに、一体どういう事だろうか。時間を勘違いしたなんてことはないはずだ。記憶力には自信がある。貼り付けておいた笑顔を溜め息と一緒に放り出し、私は黙ったままの扉をにらみつけてこぶしを作った。

 力任せに叩きたい気分だったが、そこはぐっとこらえながら細かく三度ノックをして、大きく息を吸い込む。

「あのう。ご紹介いただいて参りました、カトリーネ・エルス・マクシウスです」

 いまいましい扉は沈黙しか返さなかった。

 まさか間違ってはいまい。一本道だったし、郵便受けの名前も確認したし、確かにここはボルマン男爵所有の別荘のはずだ。

「すみません。いらっしゃいませんか?」

 少し間をおいてから再びノックをし、声を張り上げたが、反応がない。

 首筋を汗が伝ってきて気持ちが悪かった。やはりここはこの無愛想な扉を蹴りつけてやるべきだろうか。そう思った瞬間、哀れな犠牲者となるはずだった扉が怯えたような音をたてて開いた。

「マクシウス様ですね? ようこそおいでくださいました」

 顔を見せたのは、グレイの髪をした上品そうな老女だった。

「遅くなってしまって申し訳ありません。どうも最近、聞こえが悪くて……」

「ああ、いえ。お気になさらないでくださいな」

 急いで笑顔を作りながら、私は帽子を外すために首元のリボンをほどいた。

「私、このお屋敷の管理を任されております、ダニエラ・フローエと申します。お嬢様がお待ちになってますから、どうぞこちらへ」

 礼を言って邸内に入ると空気が涼しく、呼吸も楽になったような気がした。ダニエラはひどくゆっくり歩く。そして、話す速度もやはり遅かった。

「本当に、かわいらしい娘さんだこと。評判通りのようで、安心いたしました」

 紹介状を確かめることもしないなんて、私がニセ者だったらどうするのだろう。

「まあ、どんなことをお聞きになっているのかしら。恥ずかしいですわ」

 むずがゆい気持ちを抑えて答える。訊きたいことは山ほどあったが、さて、どこに通されるものやら。こちらの心配をよそに、ダニエラはなかなか本題に入ろうとしてくれない。ただでさえ、ゆるゆる話すのに。

「とんでもない。皆さん褒めていらっしゃいましたよ。フィリーネ女学院も歴史は古いですけど、これほどお若くいらっしゃって――おいくつでしたかしらねえ」

「十三です」

 帽子を手に持ったまま、先導されてホールを抜け、階段を上る。外から見たときは古い建物だと思ったが、中はかなり整えられていて綺麗だ。

「そうそう、そうでした。特例で入学が許されることはままありますけれど、最年少だったのですって? しかも抜群の成績でいらっしゃるとか。まあ、まったく、すばらしい才能をお持ちですのねぇ」

 曖昧に微笑みながら、これまで何度聞かされたかしれない賛辞を受け止める。確かに私は周りの女生徒よりはるかに年下だし、首席も獲ったが、学院で学ばされることはそれほど難しい内容ではないのだ。こんな風に言われるとむずがゆい。

「あの、フローエさん。それより、お仕事のことなのですけど」

「ええ。なんでしょう?」

 耳が遠いとのことなので、できるだけはっきりと発声するように心がけながら訊く。

「カペル夫人からご紹介いただいて、すぐに準備をしましたけど、肝心なことを聞き忘れていましたの。私の教えることになる生徒の名前は、何というんですの?」

「アディナ様と。九つになられたばかりです」

「アディナ……様」

 変わった響きの名前。家名は何だろうか。それとなく尋ねようとした時、階段を上り終わってしまい、白いワンピースを着た婦人がひとり立っているのが見えた。

「お嬢様、先生がいらっしゃいました」

「ええ、そのようね」

 彼女は進み出て、丁寧に挨拶をした。

「はじめまして。わたしはユーリエ・ボルマン。カトリーネさんね?」

「はい。お初にお目にかかります」

 私は軽く頭を下げた後、彼女を観察した。

 ユーリエは今年で三十六になると資料に書いてあったが、とてもそうは見えない。きっとあまり苦労をしていないからだろう。行きすぎない薄化粧の顔は三十前と言われたって驚かないし、肌は白く手は柔らかそうで、太ってはいないが健康的な丸みをおびた体をしていた。

「お願いするのは、さる方からお預かりしている大切な娘さんです。くれぐれも失礼のないようにしてください」

 声は顔つきと同じように穏やかで、少し低めだ。私は心得ましたと答えながら、やはり子どもの素性に関しては本人の方にそれとなく訊き出すしかあるまいと考えていた。

「今までは他の先生に来ていただいていたのですけど、年の近い方のほうがアディナ様のためにはいいと思いましたの。退屈していらっしゃいますから、仲良くしてさしあげてくださいね。……それから、あの……」

 灰色の瞳を泳がせて、ユーリエは言いよどんだ。

「田舎というのは、噂が変にこじれて広まってしまうことも少なくないと聞きます。ですから」

「わかっております。ここで見聞きしたこと、軽々しく話したりはいたしません」

 学院で先生に向かってするような優等生の顔で応じると、ユーリエはほっと息をついて微笑み、後をお願いするわとダニエラに言い置いて部屋に引っ込んだ。貴族の割にあまり偉そうなところのない人だな。服も地味だし。変わってる。


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