第18話 七の月 四紫の日(2)
アディナはむくれて黙り込んだが、決して座ろうとはしなかった。ただ小刻みに震えながら絨毯の柄を睨みつけているだけだ。怒っているのか、泣きそうなのか。もうどっちだって構いはしない。好きにすればいいのだ。
私は閉じていた本をもう一度開いた。どこまで読んだっけ。
と、目的のページを開くより先に、訪問記はひったくられた。
「これはあたしの本よ!」
ああ、やっぱり怒ってるんだな。
「それは、どうもすみません」
アディナは本を胸に当てるようにして抱え込んだ。別に取り返そうとも思わないので、私は今日初めて筆記具と教科書を取り出し、机の上に置いた。いつもの倍くらいの時間をかけて。
「……あたし、今日はお勉強しないわ。だってカリンは私を見つけられなかったでしょう。約束だものね」
一方的に宣言されたものは断じて約束とは言わない。
「でも、もう一度だけチャンスをあげてもいいわよ。あたし、また隠れるから、見つけてくれれば許してあげる」
私はカモミールのお茶を口に運んだ。まろやかな舌触りとさわやかな香り。少し冷めてはいたが、かえって飲みやすかった。すっきりした後味と一緒に気持ちが落ち着いていく。カップをソーサーに戻し、息を吐いてから、私ははっきり言った。
「あなたがどれだけサボったって、どんなに頭が悪くなったって、私は困りません。こうしておいしいお茶をいただけて、座っているだけでお給料がもらえるのですから、こんなに楽な仕事はないでしょう」
別に、始終見張られているわけでもなし、なにをどこまで教えましたと毎日報告してるわけでもなし。だいたい本業じゃないのに、勉強を教える段階で苦労するならまだしも、授業をはじめることにここまで手こずらされるなんてのは、契約外だと思う。
「あたしが全然勉強してないってわかったら、クビになるんじゃないの?」
「私をクビにしたいのならすればいいですよ。なにも椅子に縛りつけてまで勉強させようなんて思っていませんから、勝手にしてください」
もう一度カップを手にして、お茶を飲む。なんだか少し暑くなってきた。雨のせいで空気が湿っているんだ。汗が気持ち悪い。
「あなたがお勉強しないのは、私が気に入らないからですか。それとも、お勉強自体が嫌なのですか? 誰が教えたって勉強しないなら、替えても無駄でしょう。私は毎日来てこうしてここで黙って座っていますから、好きに遊んでください。もし他の先生であれば勉強するというなら、すぐに探してもらえばすむことです。どちらにしますか」
できるだけ冷たい目でアディナを見ると、彼女はうつむいたまま、さっきと変わらない姿勢で立っていた。腕の中に守られた本は、奪われてはならない宝物のように見えた。
「だって、カリンはあたしのことが嫌いだわ」
小さな声だった。それはどちらの答えでもなかった。しずくが落ちて、ほんの小さな部分だけ絨毯の色を染め変えた。
「……そんなこと言ってません」
だいたい、それが泣くほどのことか。
「言わなくても思ってるわ。だったらもう帰ってよ。あたしだって嫌いになるから!」
アディナは本を投げつけ、また大きな音をたてて寝室の方に引っ込んでしまった。本は私の肩にあたって落ちた。
……なんだそれ。
私は、嫌がらせをされていたんじゃなかったのか?
これじゃあまるで、こっちがいじめたみたいじゃないか。
本を拾って机の上に置くと、伝言のカードが目に入った。よくわからないが多分、あの子は私に追いかけてきてほしいんだろう。それだけはわかった。
寝室に踏み入るのは気が進まなかったが、仕方ない。そっとドアを開けてみると、アディナは大人が体をうんと伸ばしてもはみ出すことのないような大きなベッドの真ん中に埋もれて――正確には、うつぶせていた。
「入りますよ」
返事はなかった。断られないのをいいことに、私はベッドの端に腰掛けた。うわ、柔らかすぎる。
よく見ると、室内は以前のぞいた時とはずいぶん違っていた。なんというか、あちこちが変なのだ。姿見の位置がずれていて壁との間に妙な空間があるし、タンスの隙間から服の裾がはみ出しているし、カーテンが妙にふくらんでいるし、ベッドの横にはいつもなら本棚の隣に座っているはずの人形が転がっている。
おそらく、これは偽装工作だ。隠れている場所をすぐに知られないために、アディナがわざわざ準備したのだろう。
カードの凝り方といい、なんて暇なんだ。ひとりでいそいそとこの小細工にいそしんでいるアディナを想像して、私は思わず笑ってしまった。
「なにがおかしいのよっ!」
アディナが勢いよく体を起こして、涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せた。
「お目覚めですか? おはようございます」
その情けない表情を目にしたらますます笑いがこみ上げてきたが、どうにかこらえた。こんな子どもを相手に本気で憤っていたことが馬鹿らしかった。