第16話 七の月 四藍の日(2)
「ふざけんな!」
思い切り部屋の壁を蹴りつけてやったら、かなり痛かった。平気な顔をして家まで歩いてきたが、人目のないところまで来て少しずつ思い出したら、どんどん苛立ちが募ってきて――手近な物にあたらなければ気が済まなかったのだ。
音に驚いたのか、ギルがやってきた。珍しく、ちゃんとした汚れのない服を着ている。
「おかえり。ご立腹だね、可愛い生徒がなにかしでかしたのかい」
かわいい? どこがだ。
「ああ、しでかしてるよ。あのガキ、勉強しないどころか悪戯ばっかりしやがって、今日なんて爪で引っかかれた」
いっそ殴ってやろうかと考えたくらいだ。さすがに思いとどまったが。
「ずいぶんやんちゃなご令嬢だ」
ギルは芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「ところで、エル。僕と話す時でもちゃんとテニエスの言葉を使うようにと言わなかったかい」
「……あ」
しまった。ひっかけられた。
私は途端に冷静になった。
なんて迂闊なんだろう。こんなだからさっきも、うっかりアリアーガの言葉で怒鳴ったりしたんだ。子どもが相手で良かった。きょとんとして「今なんて言ったの?」って聞かれた時には冷や汗をかいたけど。
それにしても、わざわざアリアーガの言葉で話しかけてきたギルも相当意地が悪いと思う。テニエス語だったならきっと、すぐに頭を切り換えられたのに。
私の話すテニエスの言葉は、フィリーネのお嬢さんがたに染めていただいたものだ。どこから聞いても上品な、女性特有の喋り方。私は普段から、カトリーネらしくあるために、思考すらテニエスの言葉でするように心がけている。
一方で私のアリアーガの語彙といえば、片田舎の、乱暴なものだった。それしか知らないというわけではないが、話すとなると身に染みついた田舎言葉の方が出てきてしまう。
「申し訳ありませんでした」
うん、とギルが頷く。なぜか嬉しそうに。
「おまえがそんな風になにかに憤るところを初めて見たよ」
「……すみません」
感情的になりすぎだ。子ども相手に。
「いや、悪いとは言っていないよ。それより、ずいぶん苦戦してるようだね」
「はい。いろいろと方法を考えてはいるのですが……、どんどん悪化していくみたいです。今日はなにひとつ進みませんでしたし」
そう言うとまた落ち込んできた。やっぱり、家庭教師として別荘に出入りするなんて無理があったんじゃないか。
「クラスで他の女生徒たちに勉強を教えたりしたんだろう」
「学院のみなさんは私より年上で、少なくともあのお子様よりは落ち着きがありました。第一、お嬢様方は教えて欲しいと自分から来るんですから、やる気があります。そう、あの子にはそのやる気が全然ないんですよ! だから、人の話を聞かないし、席に着こうともしないんです」
「じゃあ、やる気を起こさせればいいわけだ。ひとつ解決したね」
そんな簡単なことじゃないんです、と反論しようとしたが、ギルがそれより早く話題を変えてしまった。
「そうそう。今日、フローエの旦那さんに会ったよ」
「え、ダニエラの?」
「うん。ちょっと気分転換に散歩したくなったんでね、ハーブ園まで行ってそれとなく聞いたんだ。あの子どもだけど、体が弱いから夏の間涼しいところにっていうんで親がこっちによこしたらしいよ。それが本当かは知らないけどね」
それでは、あの日は本当に具合が悪かったのだろうか。確かにかなり痩せてはいるけど、普段は元気いっぱいで健康そうに見えるぞ、あの子。
「それから、ダニエラがおまえのことを礼儀正しいいいお嬢さんだって褒めてたってさ」
「……はあ。それはよかったです」
そうか、情報収集で町に出かけていたから、今日のギルはまともな格好をしているのか。
「で、ここからが面白いんだが」
意味深に前置きをして、ギルは椅子に座った。どうも長い話になるようだ。ギルの意図を了解して、私も椅子を引いた。
「裏山の所有者はやはりボルマンだそうだよ。あの辺一帯、全部だ。それとね、あの別荘の元の持ち主もわかったよ。これがずいぶん古い話で……」