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宿生奇縁  作者: vastum
9/24

「理解できないことを、理解しようとする理由」


 教室の空気は、特別なことが起きているわけでもないのに、どこか一定の温度に保たれているように感じられて、その安定が心地いいと思うと同時に、ほんのわずかに息苦しさのようなものを伴っていることにも、気づいていないふりをしている自分がいる。


 窓際の席は、外の光が入りやすい。


 だから選んだはずなのに、どうしてここに座っているのかを正確に思い出そうとすると、理由がいくつも浮かんでは消えて、結局どれも決め手にはならない。


「……まあ、ここでいいか」


 小さく呟く。


 選んだ、というよりは、選ばなかった結果として残った場所。


 そんな気がする。


 黒板の前では、教師が何かを説明している。


 内容は難しくない。


 むしろ単純だ。


 だが、なぜか集中が続かない。


 視線が、自然と別の方向へ流れる。


 教室の中央。


 少し前の席。


 そこに座っている人物は、ノートを取っているようでいて、どこか別のことをしているようにも見える。


 手は動いている。


 だが、書かれている内容は、授業とは関係がなさそうだった。


「……あいつ」


 名前は知らない。


 同じクラスであることは知っている。


 それだけだ。


 なのに、なぜか目が離せない。


 理由はない。


 ただ、なんとなく。


 しばらくして、教師が問題を出す。


「これ、わかる人」


 教室が静かになる。


 誰も手を挙げない。


 難しいわけではない。


 だが、すぐに答えを出すには、少しだけ考える必要がある。


 その“少し”が、重い。


 沈黙が続く。


 その中で。


「はい」


 さっきの人物が、手を挙げる。


 迷いがない。


 まるで、すでに答えを知っているかのように。


「どうぞ」


 教師が指す。


 その人物は、立ち上がる。


 黒板に向かい、迷うことなくチョークを走らせる。


 数式が、ほとんど一瞬で完成する。


 途中で止まらない。


 考える間がない。


 最初から、最後まで決まっていたような動き。


「……正解」


 教師が、少しだけ驚いたように言う。


 教室に、小さなどよめき。


「すごいな」


 誰かが呟く。


 それに対して、その人物は特に反応しない。


 席に戻る。


 何事もなかったかのように。


 その姿が、妙に引っかかる。


「……なんなんだよ」


 思わず口に出る。


 隣の席のやつが、肩をすくめる。


「天才ってやつじゃね?」


「天才、ね」


 言葉だけは納得できる。


 だが、それで説明がついた気はしない。



 昼休み。


 屋上は、いつもより人が少なかった。


 風が強いからかもしれない。


 フェンスにもたれて、街を見下ろす。


 特に何かを考えているわけではない。


 ただ、ぼんやりと。


「ここ、よく来るの?」


 後ろから声がする。


 振り返ると、見覚えのある顔。


 さっきの人物ではない。


 だが、どこかで見た気がする。


「……たまに」


 曖昧に答える。


「そっか」


 その人物は、隣に並ぶ。


 距離は近くも遠くもない。


「なんか、ここって落ち着くよね」


「そうか?」


「うん」


 即答。


「同じ景色なのに、毎回ちょっと違う感じがする」


 その言葉に、少しだけ考える。


「……変わってるのは、こっちじゃないか」


「かもね」


 あっさりと肯定する。


「でも、それでもいいと思う」


 風が、強く吹く。


 フェンスがわずかに揺れる。


「さっきの見てた?」


 不意に話題が変わる。


「……ああ」


「どう思った?」


「どうって」


 言葉を探す。


「早すぎるだろ」


 結局、それしか出てこない。


「だよね」


 軽く笑う。


「でもさ」


 少しだけ、声のトーンが変わる。


「あれ、考えてないんだよ」


「は?」


「答えを出すっていうより、辿ってるだけ」


 意味がわからない。


「最初から、そこにあるものをなぞってる感じ」


 その表現が、妙に引っかかる。


「……それって」


「うん」


 先に頷く。


「間違えることもある」


「あるのかよ」


「あるよ」


 少しだけ視線を落とす。


「でも、ほとんど同じになる」


 その言い方に、違和感。


「……なんでそんなことわかるんだ」


「なんとなく」


 軽く返す。


 だが、その“なんとなく”が、軽くない。


「……お前、何なんだ」


 思わず聞く。


「さあ」


 少しだけ笑う。


「ただの人だよ」


 その答えは、どこか逃げているようで、同時に嘘でもない気がした。



 放課後。


 教室には、数人しか残っていない。


 窓の外は、少しずつ暗くなっている。


 帰るかどうか、迷う。


 特に理由はない。


 ただ、どちらでもいい気がする。


「……まあいいか」


 立ち上がる。


 そのとき。


「まだ帰らないの?」


 声がする。


 振り返ると、あの人物。


 ノートに何かを書いている。


「帰るつもりだった」


「だった?」


「……今もそうだ」


 言い直す。


 なぜか少しだけ引っかかった。


「ふーん」


 興味があるのかないのか、よくわからない返事。


「ねえ」


 顔を上げる。


「さっきの問題」


「ああ」


「別の解き方、思いついた?」


「いや」


 正直に答える。


「一つで十分だろ」


「そうかな」


 少しだけ首を傾げる。


「他にもあるよ」


「あるのか?」


「うん」


 ペンを走らせる。


 さっきとは違う形の数式が、紙の上に並ぶ。


 だが、結果は同じ。


「……なんでそんなに出てくるんだよ」


「選び方が違うだけ」


 あっさりと言う。


「どれを通るかで、途中が変わる」


 その言葉が、妙に残る。


「……でも、結果は同じだろ」


「そうだね」


 頷く。


「ほとんどは」


 “ほとんど”。


 その言い方が、わずかに引っかかる。


「……違うこともあるのか」


「あるよ」


 少しだけ、間を置く。


「でも」


 視線を上げる。


「そのときは、大体同じところで迷う」


 心臓が、少しだけ強く打つ。


「……誰が」


「さあ」


 また、それだ。


 だが、今度は少しだけ静かだった。


「たぶん、決める人」


 その言葉に、なぜか息が止まる。


 一瞬だけ。


 理由はわからない。


「……俺は、違う」


 思わず言う。


「そんなのじゃない」


「そう?」


 否定しない。


 肯定もしない。


「でも」


 ゆっくりと言う。


「さっきも、ちょっと迷ってたよね」


「……何を」


「帰るかどうか」


 言い当てられて、言葉が詰まる。


「別に」


 誤魔化すように言う。


「大したことじゃない」


「うん」


 あっさりと頷く。


「大したことじゃないよ」


 その一言が、妙に重い。



 校門を出る。


 道は、二つに分かれている。


 右に行けば、いつもの帰り道。


 左に行けば、少し遠回り。


 理由はない。


 ただの分岐。


 足が、少しだけ止まる。


 ほんの一瞬。


 それだけ。


「……」


 考えるほどのことではない。


 どちらでもいい。


 そう思う。


 思うのに。


 なぜか、少しだけ迷う。


 そして。


 気づいたときには、足は動いている。


 いつもと同じ方向へ。



 その選択が、自分の意思だったのかどうか。


 確かめる方法はない。


 ただ一つ。


 ほんのわずかに、


 別の道を選べた気がするという感覚だけが、


 理由もなく、残り続けていた。


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