「理解できないことを、理解しようとする理由」
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教室の空気は、特別なことが起きているわけでもないのに、どこか一定の温度に保たれているように感じられて、その安定が心地いいと思うと同時に、ほんのわずかに息苦しさのようなものを伴っていることにも、気づいていないふりをしている自分がいる。
窓際の席は、外の光が入りやすい。
だから選んだはずなのに、どうしてここに座っているのかを正確に思い出そうとすると、理由がいくつも浮かんでは消えて、結局どれも決め手にはならない。
「……まあ、ここでいいか」
小さく呟く。
選んだ、というよりは、選ばなかった結果として残った場所。
そんな気がする。
黒板の前では、教師が何かを説明している。
内容は難しくない。
むしろ単純だ。
だが、なぜか集中が続かない。
視線が、自然と別の方向へ流れる。
教室の中央。
少し前の席。
そこに座っている人物は、ノートを取っているようでいて、どこか別のことをしているようにも見える。
手は動いている。
だが、書かれている内容は、授業とは関係がなさそうだった。
「……あいつ」
名前は知らない。
同じクラスであることは知っている。
それだけだ。
なのに、なぜか目が離せない。
理由はない。
ただ、なんとなく。
しばらくして、教師が問題を出す。
「これ、わかる人」
教室が静かになる。
誰も手を挙げない。
難しいわけではない。
だが、すぐに答えを出すには、少しだけ考える必要がある。
その“少し”が、重い。
沈黙が続く。
その中で。
「はい」
さっきの人物が、手を挙げる。
迷いがない。
まるで、すでに答えを知っているかのように。
「どうぞ」
教師が指す。
その人物は、立ち上がる。
黒板に向かい、迷うことなくチョークを走らせる。
数式が、ほとんど一瞬で完成する。
途中で止まらない。
考える間がない。
最初から、最後まで決まっていたような動き。
「……正解」
教師が、少しだけ驚いたように言う。
教室に、小さなどよめき。
「すごいな」
誰かが呟く。
それに対して、その人物は特に反応しない。
席に戻る。
何事もなかったかのように。
その姿が、妙に引っかかる。
「……なんなんだよ」
思わず口に出る。
隣の席のやつが、肩をすくめる。
「天才ってやつじゃね?」
「天才、ね」
言葉だけは納得できる。
だが、それで説明がついた気はしない。
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昼休み。
屋上は、いつもより人が少なかった。
風が強いからかもしれない。
フェンスにもたれて、街を見下ろす。
特に何かを考えているわけではない。
ただ、ぼんやりと。
「ここ、よく来るの?」
後ろから声がする。
振り返ると、見覚えのある顔。
さっきの人物ではない。
だが、どこかで見た気がする。
「……たまに」
曖昧に答える。
「そっか」
その人物は、隣に並ぶ。
距離は近くも遠くもない。
「なんか、ここって落ち着くよね」
「そうか?」
「うん」
即答。
「同じ景色なのに、毎回ちょっと違う感じがする」
その言葉に、少しだけ考える。
「……変わってるのは、こっちじゃないか」
「かもね」
あっさりと肯定する。
「でも、それでもいいと思う」
風が、強く吹く。
フェンスがわずかに揺れる。
「さっきの見てた?」
不意に話題が変わる。
「……ああ」
「どう思った?」
「どうって」
言葉を探す。
「早すぎるだろ」
結局、それしか出てこない。
「だよね」
軽く笑う。
「でもさ」
少しだけ、声のトーンが変わる。
「あれ、考えてないんだよ」
「は?」
「答えを出すっていうより、辿ってるだけ」
意味がわからない。
「最初から、そこにあるものをなぞってる感じ」
その表現が、妙に引っかかる。
「……それって」
「うん」
先に頷く。
「間違えることもある」
「あるのかよ」
「あるよ」
少しだけ視線を落とす。
「でも、ほとんど同じになる」
その言い方に、違和感。
「……なんでそんなことわかるんだ」
「なんとなく」
軽く返す。
だが、その“なんとなく”が、軽くない。
「……お前、何なんだ」
思わず聞く。
「さあ」
少しだけ笑う。
「ただの人だよ」
その答えは、どこか逃げているようで、同時に嘘でもない気がした。
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放課後。
教室には、数人しか残っていない。
窓の外は、少しずつ暗くなっている。
帰るかどうか、迷う。
特に理由はない。
ただ、どちらでもいい気がする。
「……まあいいか」
立ち上がる。
そのとき。
「まだ帰らないの?」
声がする。
振り返ると、あの人物。
ノートに何かを書いている。
「帰るつもりだった」
「だった?」
「……今もそうだ」
言い直す。
なぜか少しだけ引っかかった。
「ふーん」
興味があるのかないのか、よくわからない返事。
「ねえ」
顔を上げる。
「さっきの問題」
「ああ」
「別の解き方、思いついた?」
「いや」
正直に答える。
「一つで十分だろ」
「そうかな」
少しだけ首を傾げる。
「他にもあるよ」
「あるのか?」
「うん」
ペンを走らせる。
さっきとは違う形の数式が、紙の上に並ぶ。
だが、結果は同じ。
「……なんでそんなに出てくるんだよ」
「選び方が違うだけ」
あっさりと言う。
「どれを通るかで、途中が変わる」
その言葉が、妙に残る。
「……でも、結果は同じだろ」
「そうだね」
頷く。
「ほとんどは」
“ほとんど”。
その言い方が、わずかに引っかかる。
「……違うこともあるのか」
「あるよ」
少しだけ、間を置く。
「でも」
視線を上げる。
「そのときは、大体同じところで迷う」
心臓が、少しだけ強く打つ。
「……誰が」
「さあ」
また、それだ。
だが、今度は少しだけ静かだった。
「たぶん、決める人」
その言葉に、なぜか息が止まる。
一瞬だけ。
理由はわからない。
「……俺は、違う」
思わず言う。
「そんなのじゃない」
「そう?」
否定しない。
肯定もしない。
「でも」
ゆっくりと言う。
「さっきも、ちょっと迷ってたよね」
「……何を」
「帰るかどうか」
言い当てられて、言葉が詰まる。
「別に」
誤魔化すように言う。
「大したことじゃない」
「うん」
あっさりと頷く。
「大したことじゃないよ」
その一言が、妙に重い。
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校門を出る。
道は、二つに分かれている。
右に行けば、いつもの帰り道。
左に行けば、少し遠回り。
理由はない。
ただの分岐。
足が、少しだけ止まる。
ほんの一瞬。
それだけ。
「……」
考えるほどのことではない。
どちらでもいい。
そう思う。
思うのに。
なぜか、少しだけ迷う。
そして。
気づいたときには、足は動いている。
いつもと同じ方向へ。
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その選択が、自分の意思だったのかどうか。
確かめる方法はない。
ただ一つ。
ほんのわずかに、
別の道を選べた気がするという感覚だけが、
理由もなく、残り続けていた。




