「選ばれた者の、選ばれなかった理由」
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空は、焼けているわけではなかった。
ただ、夕焼けがやけに長く続いているだけで、終わるはずの色が終わらずに残り続けていることに、誰も疑問を持たないまま慣れてしまっているだけだった。
城壁の上から見下ろす大地は、どこまでも静かで、あれほど繰り返されてきた戦いの痕跡すら、時間に均されて消えているように見えた。
「……遅いな」
低く、抑えた声が風に溶ける。
黒い外套を纏った男は、振り返らずに言った。
「来るとわかっていても、待つのは好きではない」
「逃げればいいのに」
背後から返ってきた声は、子供のものだった。
だが、その響きには妙な落ち着きがある。
「どうせ、ここに来るんでしょう?」
魔王は、わずかに目を細めた。
「お前は、いつもそう言う」
「いつも?」
子供は、首を傾げる。
「初めて会った気がするけど」
「……そうか」
魔王は、それ以上は何も言わなかった。
風が、少しだけ強くなる。
子供は、城壁の縁に腰をかけ、足をぶらつかせながら空を見上げる。
「ねえ」
「何だ」
「勇者って、本当に来るの?」
魔王は、すぐには答えなかった。
答えを選んでいるのか、それとも思い出しているのか、その区別はつかない。
「来る」
やがて、短く言った。
「必ず」
「どうして?」
「選ばれているからだ」
子供は、小さく笑った。
「じゃあさ」
ゆっくりと、顔を向ける。
「選ばれてない人は、どうなるの?」
その問いに、わずかな沈黙が落ちる。
「……選ばれないだけだ」
魔王の声は、変わらない。
「存在しないのと同じ?」
「近いな」
あっさりとした肯定だった。
子供は、少しだけ考えるように視線を落とす。
「じゃあ僕は、どっちなんだろうね」
その言葉に、魔王は何も返さない。
ただ、わずかに視線を逸らす。
「――君は、選ばれているよ」
別の声が、空気の隙間に差し込む。
いつの間にか、もう一人。
白い鎧を纏った青年が、そこに立っていた。
「勇者」
魔王は、振り返る。
その表情には、驚きはない。
「やっぱり来た」
子供は、どこか楽しそうに言った。
「当たり前だろ」
勇者は、剣を肩に担いだまま答える。
「呼ばれてるんだから」
「誰に?」
「さあな」
軽く笑う。
「でも、いつも同じだ」
その言葉に、魔王の視線が一瞬だけ鋭くなる。
「……何がだ」
「ここに来るまでの道のり」
勇者は、遠くを見た。
「森を抜けて、川を渡って、崖を越えて、最後にこの城」
淡々とした口調だった。
「全部、同じ順番だ」
子供が、少しだけ顔を上げる。
「それ、変じゃない?」
「変だよ」
勇者は、あっさりと言う。
「でも、変えようとは思わなかった」
「どうして?」
「それが“正しい”って、わかってたからだ」
風が、止まる。
いや、止まったように感じただけかもしれない。
「正しい、か」
魔王は、静かに繰り返す。
「それを決めているのは誰だ」
「知らない」
勇者は、笑う。
「でも、間違えたことはない」
子供が、ゆっくりと立ち上がる。
「ねえ」
二人を見る。
「もしさ」
少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。
「その“正しさ”が間違ってたら?」
勇者は、一瞬だけ言葉を止めた。
「……考えたことはないな」
「だろうね」
子供は、どこか納得したように頷く。
「だって君、選ぶ必要ないもんね」
その言葉に、勇者の眉がわずかに動く。
「……どういう意味だ」
「だって、全部決まってるんでしょ?」
子供は、ゆっくりと歩き出す。
「順番も、行動も、ここに来ることも」
魔王の隣に立つ。
「だったら君は、“選ばされてる”だけだ」
静かな言葉だった。
「選んでるのは、別の誰か」
その瞬間、空気が歪む。
ほんのわずかに。
「……面白いことを言うな」
魔王は、低く言った。
「では、お前はどうだ」
視線を落とす。
「お前は、何を選ぶ」
子供は、少しだけ考えるように目を閉じる。
「僕は——」
一度、息を止める。
理由はわからない。
ただ、それが自然だった。
「まだ、決めてない」
ゆっくりと、目を開く。
「でも、多分」
勇者を見る。
「君を殺す」
静かな宣言だった。
勇者は、笑わなかった。
「……それが、お前の役割か」
「役割、ね」
子供は、肩をすくめる。
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
魔王が、わずかに目を細める。
「誰に決められた」
「さあ」
子供は、空を見上げる。
長く続く夕焼け。
「でも」
小さく、続ける。
「見られてる気がするんだよね」
その言葉に、誰もすぐには反応しなかった。
「ずっと」
子供は、笑うでもなく、怯えるでもなく言う。
「僕たちのこと」
勇者が、剣を握る手に力を込める。
「……気のせいだ」
「そうかもね」
あっさりと認める。
「でもさ」
ゆっくりと、視線を下ろす。
「もし本当なら」
その目は、どこか遠く。
けれど、確かにこちらを向いていた。
「今のこの会話も、選択も、全部」
風が、また吹く。
「もう見られてる」
沈黙。
長く、静かな沈黙。
そして。
勇者が、一歩踏み出す。
「……いいさ」
剣を構える。
「それでも、やることは同じだ」
魔王も、動く。
「そうだな」
低く、応じる。
二人の間に、距離が生まれる。
その間に、子供がいる。
「……さて」
子供は、小さく呟く。
「今回は、どうなるかな」
その言葉が、誰に向けられたものなのかは、わからない。
ただ一つだけ。
この光景も、この選択も、これから起こるすべても。
どこかに、残る。
記録されるかもしれないし、されないかもしれない。
それでも。
確かに、見られている。
その確信だけが、なぜか消えなかった。




