「書かれていないことは、存在しないのか」
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目を覚ましたとき、最初に思ったのは、ここがどこなのかという単純でありながら妙に重たい疑問ではなく、自分がその疑問を何度も繰り返してきたような、説明のつかない既視感に似た違和感だった。
白い天井は、どこにでもあるはずなのに、どこにも属していないように見えた。
そして、自分が誰なのかは、当然のように思い出せなかった。
「……また、ここか」
思わず口に出たその言葉が、自分の意思で選ばれたものなのか、それともどこかで用意されていたものなのか、判断がつかなかった。
「ええ、少なくとも“あなたにとっては”」
静かな声が、右側から差し込む。
振り向くと、椅子に座って何かを書き続けている人物がいた。
紙に、ペンで、ゆっくりと。
無駄のない動きで。
「……誰だ」
「記録者です」
顔を上げることなく、その人物は答えた。
「あなたの状態と、発言と、選択を記録しています」
「俺の……?」
違和感が、また一つ増える。
“俺”という言葉が、自然に出たことに対する違和感。
「名前は?」
「現時点では、未定義です」
さらさらと、紙の上で音が続く。
「……ふざけてるのか」
「いいえ、事実です」
記録者は、ほんの少しだけペンを止めた。
「あなたは毎回、ここで同じ質問をします」
その言葉は、軽く置かれたはずなのに、妙に重く沈んだ。
「……毎回?」
「ええ」
短い肯定。
「ですが、記憶は引き継がれません」
当然のことのように言われる。
「だから、あなたは毎回“初めて”だと思う」
沈黙。
自分の呼吸音だけが、やけに大きく感じられる。
「……証拠は」
「ありません」
即答だった。
「ただ、記録はあります」
記録者は、ようやくこちらを見た。
その目には、感情がほとんど乗っていない。
「あなたは、同じ順序で部屋を見て、同じタイミングで質問をして、同じ言葉を選ぶ」
言い終わると同時に、再びペンを動かし始める。
「……なら、未来も決まってるってことか」
「可能性は高いです」
そのとき、別の声が混じった。
「――決まってるわけないじゃないか」
軽い、どこか楽しんでいるような声。
振り返ると、壁にもたれかかるようにして立っている人物がいた。
最初からいたのか、それとも今現れたのか、わからない。
「……誰だ」
「嘘つきだよ」
その人物は、笑って答える。
「僕は、嘘しかつかない」
あっさりとした宣言だった。
「……意味がわからない」
「そのままの意味さ」
肩をすくめる。
「今のも嘘かもしれないし、本当かもしれない」
頭が少しだけ重くなる。
「やめろ、混乱させるな」
「混乱してるのは君の方だろ」
嘘つきは、楽しそうに続ける。
「だって君、自分が誰かも知らないのに、“自分で考えてるつもり”でいる」
その言葉に、言い返せない。
「……記録者」
助けを求めるように呼ぶ。
「こいつは何だ」
「観測対象の一部です」
淡々とした答え。
「あなたの判断に影響を与える存在として、記録されています」
「……影響?」
「ええ」
ペンが、また少しだけ止まる。
「あなたは毎回、この人物の発言に対して、一定の反応を示します」
「どんな?」
「信じない」
短く。
「ですが、そのあとで」
わずかな間。
「一度だけ、揺らぐ」
嘘つきが、笑う。
「ほらね」
心臓が、ほんの少しだけ速くなる。
「……何をだ」
「選択をさ」
嘘つきは、ゆっくりと近づく。
「君は、選ぶ側なんだろ?」
その言葉に、何かが引っかかる。
「……何を選ぶ」
「簡単だよ」
耳元で、囁く。
「この記録を、信じるかどうか」
静かに、部屋が沈む。
記録者は、何も言わない。
ただ、書いている。
ずっと、同じリズムで。
「……もし信じたら」
「君は、ここから“進める”かもしれない」
嘘つきは言う。
「でも、それは嘘かもしれない」
軽く笑う。
「信じなかったら?」
「君は、ここに“留まる”」
少しだけ間を置く。
「それも、嘘かもしれない」
思考が、まとまらない。
だが、一つだけ確かなことがある。
自分は、選ばなければならない。
「……記録者」
もう一度、呼ぶ。
「この記録は、正しいのか」
ペンが、止まる。
ほんの一瞬だけ。
「正しさは、定義されていません」
ゆっくりと、顔を上げる。
「ただ、残っているだけです」
その言葉は、逃げのようでいて、否定できない。
「――観測されています」
誰が言ったのか、わからなかった。
記録者か、嘘つきか、それとも。
「あなたの選択も、この迷いも」
視線が、どこか外側へ向く。
「すべて」
その瞬間、理解しかける。
自分は、ここにいるだけじゃない。
見られている。
どこかから。
ずっと。
「……なら」
言葉を、選ぶ。
いや、選ばされているのかもしれない。
「俺は——」
一度、息を止める。
理由はわからない。
ただ、それが自然だった。
そして。
口を開く。
その言葉が、これまでと同じなのか、違うのか。
確かめる術はない。
ただ一つ。
この瞬間も、どこかに記録されていることだけは、
なぜか、はっきりとわかっていた。




