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宿生奇縁  作者: vastum
22/24

「正しいことを言えない夜」


 真実というものが最初から一つの形を持って人の前に置かれているのではなく、むしろそれを見た者がどのような順番で理解し、どのような言葉で外へ出すかによって、同じ出来事ですら別々の輪郭を持ちはじめるのだとしたら、嘘とは事実と反対にあるものではなく、理解と表現のあいだに生まれるわずかなズレのことなのかもしれないと、そう考えたことが一度だけではなかったことを、彼はなぜかはっきり覚えていた。


 夜の帳が落ちきる直前の町は、昼間よりも静かなはずなのに、耳を澄ませばむしろ余計なものがよく聞こえる。遠くで閉じる扉の音、石畳を蹴る靴音、裏通りの風の抜け方、どこかの窓辺で小さく触れ合う食器の音。どれも意味を持たないようでいて、今夜に限ってはすべてが何かの予兆みたいに思えた。


 町の中央から一本外れた細い通りの先に、今は使われていない宿屋がある。


 看板は傾き、窓枠の塗装は剥げ、扉の蝶番も少し錆びていた。だが中へ入れないわけではない。むしろ、何かを隠すにはちょうどいい程度には人目がなく、何かを見つけるには少しだけ広すぎる、そんな半端な場所だった。


「……やっぱりここか」


 最初に中へ入った男は、そう小さく呟いた。


 彼は嘘しかつかない。


 少なくとも、自分ではそう決めていた。

 決めてしまった、というほうが近いかもしれない。

 何を聞かれても本当のことは言わない。

 名前も、出身も、昨日どこにいたかも、何を見たかも。

 全部ずらす。反転させる。関係ない形にする。

 それが長い間、彼の身を守ってきたし、いつしかそれは癖というより呼吸に近いものになっていた。


「初めて来る場所だ」


 誰もいない空間に向かってそう言い、彼は自分で少しだけ笑った。


 もちろん嘘だ。

 ここに来るのは初めてではない気がする。

 はっきりとした記憶があるわけではない。

 だが、足が迷わずに床板の軋む位置を避け、暗がりの中で階段の最初の段差を知っているように上がっていくのを見れば、それはもう十分すぎるほどの既視感だった。


 二階の一番奥の部屋。

 扉は半開きだった。


 中に入ると、窓辺に一人立っていた。


「遅いですね」


 その人物は振り返らずに言った。


「十分早いだろ」


 嘘つきは答える。


「待ってたのか」


「はい」


 振り返った顔には、奇妙なくらい迷いがなかった。

 年齢のわからない、静かな顔だった。

 嘘がつけない人間、というのは本当にこういう目をするのかもしれないと、嘘つきは場違いに思った。


「あなたはここへ来る」


 その人物は言う。


「だから、待っていました」


「来ないつもりだった」


「それは嘘です」


 即答だった。


 嘘つきは肩をすくめる。


「便利だな」


「不便ですよ」


 嘘がつけない人は、窓の外へ一度だけ視線をやった。


「本当のことしか言えないのは」


 その返事があまりに素直だったせいで、嘘つきは少しだけ言葉に詰まった。


 こういう相手は苦手だ、と彼は思う。

 いや、そう思うのも半分は嘘かもしれない。

 苦手というより、自分がずれて見えるのだ。

 相手が真っ直ぐであればあるほど、自分の歪みがやけに鮮明になる。


「で」


 嘘つきは部屋の中央に置かれた古い机に寄りかかる。


「何を待ってる」


「三人目です」


「三人目?」


「まだ来ていません」


「来ないだろ」


「来ます」


「来ない」


「来ます」


 しばらくその応酬が続いてから、嘘つきは先に視線を逸らした。


「……まったく、会話が進まないな」


「進んでいますよ」


 嘘がつけない人は言う。


「あなたが否定したということは、来る可能性が高い」


「便利すぎるだろ、その解釈」


「便利ではありません」


 真顔で返されて、嘘つきはため息をついた。



 外の風が少し強くなる。

 緩んだ窓枠が、かすかに鳴る。


 その音とほとんど同じタイミングで、廊下の向こうから足音がした。急いでいるわけではない。迷っているわけでもない。ただ、一直線にここへ向かってくる足音だ。


「ほら」


 嘘がつけない人が言う。


「……偶然だ」


 嘘つきが言った次の瞬間、扉がもう少しだけ開いた。


 三人目は、何も言わずに部屋へ入ってきた。


 若いようにも見えるし、ひどく古いものを抱えているようにも見える顔だった。服装に特徴はない。だが、その目だけは妙に静かで、何かを探しているというより、すでに見つけている者の目をしていた。


「遅くなりました」


 三人目は言う。


「道に迷った」


「嘘ですね」


 嘘がつけない人が即座に言う。


「……そうかもしれない」


 三人目はあっさり認めるでもなく、否定するでもなく答えた。


 それが妙に引っかかった。


「お前はどっちだ」


 嘘つきが尋ねる。


「嘘をついてるのか、本当を言ってるのか」


 三人目は少しだけ考えるように間を置いた。


「見えたことを言っただけです」


「何が見えた」


「この部屋に来る前に、いくつかの曲がり角があった」


「それは道だろ」


「ええ」


「じゃあ迷ったんじゃないのか」


「迷ったかどうかは、選んだあとにしかわかりません」


 その返しに、部屋が一瞬だけ静かになる。


 嘘つきは眉をひそめた。

 嘘がつけない人は、少しだけ視線を落とす。

 どこかで聞いたような響きだった。

 だが、思い出せない。


「……で、お前は何者だ」


 嘘つきが言う。


「見えるものしか見えない人です」


「答えになってない」


「真実しか見えません」


 その言葉は、妙にあっさりしていた。


「だから困っていることも多い」


 嘘がつけない人が小さく頷く。


「それは、わかります」


「お前は困ってないだろ」


「困っています」


 即答だった。


「嘘がつけないので」


「俺は嘘しかつけない」


 嘘つきが言う。


「なら、ちょうどいいのかもしれませんね」


 三人目が静かに言う。


「何が」


「足りないものが、互いに少しずつある」


 その言い方は、ずいぶん整いすぎていた。

 まるで最初からその場に置かれることを想定していた言葉みたいに。



 部屋の中央の机の上には、小さな木箱が置かれていた。


 誰が持ってきたのか、最初からあったのか、三人ともわからない。少なくとも、誰一人それを机に置いた記憶を口にしなかった。


「……これ、前からあったか?」


 嘘つきが聞く。


「ありました」


 嘘がつけない人が答える。


「最初から」


「いや、なかった」


 嘘つきが言う。


「見てないだけでは?」


 三人目が言う。


「そこに置かれる前から、見えていたかもしれない」


「意味がわからないな」


「私にも、全部はわかりません」


 三人目は木箱に手を触れず、その輪郭だけを見るようにして言った。


「でも、開ける前から中身を知っている気がするものって、ありますよね」


「ない」


 嘘つきが言う。


「あります」


 嘘がつけない人が言う。


 そのやりとりがあまりにもそのままで、なぜか少し可笑しかった。嘘つきは自分でも意外なくらい小さく笑った。


「……開けるのか」


 誰にともなく問う。


「あなたが」


 嘘がつけない人が言う。


「お前が?」


「いいえ」


 はっきりと返す。


「私ではありません」


「なんでわかる」


「わかるからです」


 そこで三人目が口を開く。


「たぶん」


 少しだけ間を置く。


「前も、あなたが開けた」


 その一言で、空気が変わる。


「……前?」


 嘘つきが目を細める。


「初対面だろ、俺たちは」


「たぶん、そうです」


 三人目は言う。


「でも、初めてではない」


「それ、矛盾してるぞ」


「見えているものが矛盾しているなら、言葉も少し遅れて歪みます」


 ひどく面倒な説明だったが、不思議とわからなくもなかった。


「……で」


 嘘つきは木箱に手を伸ばす。


「開けたらどうなる」


「何かが確定します」


 三人目が言う。


「何が」


「今はまだ、見えません」


「真実しか見えないんじゃないのか」


「ええ」


 頷く。


「だから、まだ決まっていないものは、はっきり見えない」


 その答えに、嘘つきは少しだけ黙る。


 まだ決まっていない。

 その響きが、妙に胸に残る。

 今まで、何度も同じような場面があった気がした。

 右に行くか左に行くか。

 書くか書き換えるか。

 火を認めるか、認めないか。

 戻るか、進むか。

 同じような分岐の手前で、いつも一瞬だけ息が止まっていたような感覚。


「……お前ら」


 嘘つきは木箱に触れたまま言う。


「俺が開けると思ってるんだな」


「はい」


 嘘がつけない人が答える。


「思ってる」


 三人目も言う。


「じゃあ、開けない」


 嘘つきは笑った。


 ほとんど反射だった。

 いつもと同じように、逆を言う。

 逆らう。ずらす。


「それも嘘です」


「ええ」


 三人目が静かに続ける。


「でも、その嘘を言ったあと、一瞬だけ迷う」


 嘘つきの手が、そこで止まった。


「……なんで知ってる」


「見えるから」


「真実しか、ですか」


 嘘がつけない人が、小さく尋ねる。


「はい」


「では」


 少しだけ間。


「今、見えている真実は何ですか」


 三人目はすぐには答えなかった。

 部屋の空気がわずかに重くなる。


「……三人とも、少しずつ同じところに立っている」


 ようやく出た答えは、奇妙に抽象的だった。


「それは事実か?」


 嘘つきが聞く。


「はい」


「じゃあ、もっと具体的に言え」


「言葉にすると、少し嘘になります」


 その一言に、嘘つきは思わず息を飲んだ。


 嘘がつけない人も、初めてはっきりと表情を変えた。


「……そんなことがあるんですか」


「あります」


 三人目は静かに答える。


「見えた形を、そのまま言葉にできるとは限らない」


 それは、どこか救いにも似ていた。

 真実しか見えない人間ですら、言葉にする段階で少し歪む。

 なら、嘘と本当の境界は思っていたよりずっと曖昧だ。


「じゃあお前も、嘘をつくのか」


 嘘つきが問う。


「結果的には」


「私は、嘘をつけません」


 嘘がつけない人が言う。


「ですが、言葉が足りないことはある」


「それも、似たようなものです」


 三人目が言った。


 誰もすぐには否定しなかった。



 外で風が鳴る。

 古い宿の壁が、小さくきしむ。


 嘘つきは、木箱の蓋に指をかける。

 わずかに引けば開く。

 たぶん、それだけだ。


「中身、見えてるのか」


 三人目に尋ねる。


「見えています」


「何だ」


「空です」


「……空?」


「はい」


 即答だった。


 嘘つきは眉を寄せる。


「それが真実か?」


「今のところは」


 その言い方が妙に引っかかる。


「じゃあ開ける意味ないだろ」


「あります」


 嘘がつけない人が、珍しく先に言った。


「空だと確認することにも意味はある」


「確認?」


「はい」


 静かな声だった。


「自分で選んで、自分で見ることに」


 その言葉に、部屋がまた静かになる。


 たぶんそれは、今までどこかでずっと言われ続けていたことだった。

 結果がほとんど同じでも、誰が選んだかは残る。

 どれだけ小さな揺らぎでも、記録される。

 見届けられる。

 繰り返されるとしても、その手前の一瞬だけは確かにその人のものだ。


「……そうかよ」


 嘘つきは小さく呟く。


 そして、一度だけ息を止めた。


 ほんの一瞬。


 それから、木箱を開ける。


 中にはたしかに、何も入っていなかった。


 空だ。

 拍子抜けするくらい、本当に空だった。


「……なんだ、それ」


 思わず笑う。


「これのために集まったのか?」


「たぶん」


 三人目が言う。


「でも、少し違います」


「何が」


「開ける前と後では」


 嘘がつけない人が、木箱の中を見る。


「空だとわかっていることと、空だったと確認したことは同じではありません」


 また、ひどくまっすぐな言葉だった。


「……なるほどな」


 嘘つきは木箱を閉じる。


「じゃあ、俺は今、空を見たわけだ」


「はい」


「で?」


 誰にともなく問う。


「次はどうする」


 三人目は窓の外を見る。


「たぶん、帰ります」


「どっちへ?」


 嘘つきが何気なく聞くと、三人目は少しだけ目を細めた。


「右に行くか、左に行くかは」


 そこで言葉を切る。


「まだ、見えません」


 その答えに、嘘つきはなぜか少しだけ笑った。


「そうか」


 そして、今度は嘘ではない声で言う。


「それなら、まだ決まってないんだな」


「はい」


 嘘がつけない人が答える。


「まだ」


 その“まだ”は、妙にやさしく響いた。



 宿を出ると、夜風が少しだけ冷たかった。


 三人は並んで歩き出す。

 誰も同じ歩幅ではない。

 誰も同じ見方をしていない。

 なのに、今だけはたしかに同じ場所を歩いている気がした。


 通りの先で、道が二つに分かれている。

 右と左。

 それだけの違い。


 嘘つきはそこで立ち止まり、少しだけ笑ってから言った。


「俺は右へ行く」


 たぶん嘘だ、と自分で思う。


 嘘がつけない人は何も言わず、ただその横顔を見ていた。

 三人目は、まだ先を見ようとするみたいに細く目を開いていた。


 どちらへ進むのか。

 その結果がどれほど大きな違いを生むのか。

 まだ誰にもわからない。


 だが、少なくとも一つだけ確かなことがある。


 今夜のこの迷い方は、前とまったく同じではない。


 そして、その違いだけが、たぶん次へ残る。


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