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宿生奇縁  作者: vastum
20/24

「進み続けるものの名前」


 老いというものが失われた世界を想像するとき、多くの人間はまず失われる側の不安よりも、残される側の幸福を先に思い描くらしいのだが、それはたぶん、時間というものを「減っていく何か」としてしか見ていないからであって、もしそれが、ただ一方的に積み上がり続けていくものなのだとしたら、不変とは祝福ではなく、むしろ終わることのできない蓄積として人間の上に重く沈んでいくのかもしれない――と、古い記録の中にそう書かれていたのを読んだとき、時を測る役目を任された者は、なぜかその文章に見覚えのようなものを覚えた。


 塔は高かった。


 街の中心に建つその石塔は、役所でもあり、記録所でもあり、ある意味ではこの国の時計そのものでもあった。鐘の鳴る時間、季節の記録、出生と死亡の届け、災害の履歴、収穫量の推移、誰がいついなくなり、誰がいつ生まれたか。ありとあらゆるものが、ここでは「流れたもの」として記される。


 その最上階に、時記官はいた。


 人々は彼のことを、単に「時間」と呼ぶこともあった。もちろんそれは本名ではない。だが、本名よりも役目のほうが長く残る場所では、その呼び方のほうがむしろ自然だった。


「……また、同じところか」


 時記官は古い記録帳のページをめくりながら、小さく呟いた。


 同じところ、というのは同じ文面という意味でもあり、同じ違和感という意味でもあった。


 同じ季節に、同じ病が流行る。

 同じ年回りに、同じような事故が起きる。

 同じ広場で、同じような噂が燃え広がる。

 同じ角で、人が一瞬立ち止まる。


 もちろん、完全に同じわけではない。

 記録は少しずつ違う。人数も、日付も、名も、動機も。

 だが、その“少しずつ違う”の内側に、どうしても同じ形が見えてしまうことがある。


「気のせい、か」


 そう言い聞かせることも、もう何度目かわからなかった。


 机の端には、まだ処理の済んでいない報告書が積まれている。

 その一番上の一枚には、ある人物の名が書かれていた。


 年齢欄は、空白。


 正確には、毎年同じ数字が書かれ、毎年同じように線で消されていた。

 そして横に、誰かの手でこう書き足されている。


 変化なし。



 塔を訪れたその人物は、昼の鐘が鳴るより少し前に現れた。


 扉の前に立っているだけで、なぜか周囲の空気の流れがゆるやかになるように見える人間だった。若く見える、と言ってしまえばそれまでだ。だが、若いのではなく、“変わっていない”という印象のほうが強い。


「久しぶりですね」


 その人物は、そう言って笑った。


 時記官は手元の記録帳から目を上げる。


「……あなたがそう言うと、どのくらいぶりなのか判断に困る」


「私にも、そこは曖昧です」


 椅子を勧める前から、その人物――不老者は自然な動作で向かいの席に腰を下ろした。まるで何度もそうしてきたみたいに、ためらいがない。


「また記録ですか」


「役目ですから」


「律儀ですね」


「あなたに言われたくはないな」


 時記官がそう返すと、不老者は少しだけ肩をすくめた。


「私だって律儀ですよ。こうして毎年来ている」


「来なくても、結果は同じだ」


「それでも、確認したくなることはあります」


 確認。

 その言葉が、時記官の中で少しだけ引っかかった。


「……何を」


「私がまだ“変わらないまま”なのかどうかを」


 不老者は自分の手を見る。指先、爪の縁、皮膚の張り。そこにはたしかに時間の痕跡が薄い。いや、薄いというより、見当たらない。


「変わっていませんよ」


 時記官は記録帳を閉じる。


「去年も、その前も」


「ええ」


 不老者は頷いた。


「それが問題なんです」


 静かな言い方だった。

 不満とも嘆きとも違う。だが、祝福ではないのは明らかだった。


「世の中は勝手に積み上がっていくのに、私だけどこにも積もらない」


「それを望む者も多い」


「知っています」


 不老者は答える。


「だからこそ、説明が難しい」


 窓の外では、広場を行き交う人々が見える。子どもが走り、荷車が通り、年老いた女が杖をついて歩いている。どの動きにも終わりがあり、次がある。だから流れになる。


 不老者は、その流れから少しだけ浮いていた。



「――それは、あなたが止まっているからではありませんよ」


 声は、部屋の奥からした。


 時記官は振り向く。

 そこには、少し前まで誰もいなかったはずの場所に、一人の老人が立っていた。


 痩せている。

 背は高くない。

 衣服も地味だ。

 けれど、その姿には妙な強さがあった。立っているだけで、年月そのものが輪郭を持っているように見える。


「……勝手に入るな」


 時記官が言うと、老人は笑った。


「勝手に入るのは、お互いさまだろう」


「何の話だ」


「お前たちは、いつも私の中にいる」


 意味がわからない。

 だが、不老者のほうは老人を見た瞬間、ほんの少しだけ表情を変えた。


「……来たんですね」


「来るとも」


 老人は言う。


「お前が毎年同じことを言うからな」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ止まる。


 毎年。

 同じことを。


「……知り合いか」


 時記官が問うと、不老者はゆっくりと答えた。


「たぶん、ずっと前から」


 老人は塔の窓辺まで歩き、外を見下ろした。


「人は私を嫌う。怖がる。急ぎもするし、引き延ばそうともする。なのに、私がなければ何も決められない」


「……何者だ」


 時記官が聞く。


 老人は振り返る。


「老いだよ」


 あまりにあっさりと言うものだから、冗談にも聞こえた。

 だが、その瞬間、時記官は妙な既視感に襲われた。こういう“役目そのもの”みたいな自己紹介を、どこかで何度も聞いてきた気がする。


「お前は人に刻まれる」


 不老者が呟く。


「ええ」


 老人――老いは穏やかに頷いた。


「私は減らすのではなく、残す」


「残す?」


「昨日と今日の違いを」


 老いは言った。


「選ばなかったものの重みを」


 その言葉に、時記官はなぜか喉の奥に乾きを覚えた。


 選ばなかったもの。

 その響きは、この塔の膨大な記録の中に何度もあった。

 右へ行った者。左へ行かなかった者。

 火をつけなかった夜。

 削除が間に合わなかった言葉。

 戻った者。戻らなかった者。

 記録されるのはいつも結果だけだ。だが、その背後には必ず、選ばれなかったものがある。


「私は進みます」


 時記官は、半ば無意識に言っていた。


「私の役目は、流れを数えることだ」


「そうだな」


 老いは頷く。


「お前は進ませる側に見える」


「見える?」


「だが、違う」


 その言葉に、時記官は眉をひそめる。


「……何が言いたい」


「お前は進んでいない」


 老いは静かに言った。


「お前は、見届けているだけだ」


 その言葉は、ひどく不快なはずだった。

 だが、否定する言葉がすぐには出てこなかった。


 時記官は、記録する。数える。並べる。記す。

 たしかに、それは流れの中にいる行為ではある。

 だが、いつからか彼は、自分自身がその流れのどこに立っているのかを考えなくなっていた。



 昼過ぎ、塔の下で小さな騒ぎが起きた。


 時記官が窓から見下ろすと、階段の脇で一人の男が転んでいた。年齢は五十を越えているように見える。荷を抱えて急いでいたらしく、散らばった紙片が石畳の上に広がっている。


 すぐに数人が駆け寄る。

 若い娘が一人、男を支え起こす。

 近くの少年が、落ちた紙を拾っている。

 小さな、どこにでもある光景だ。


 だが、不老者はその光景から目を逸らさなかった。


「……ああいうのを見ると」


 彼は小さく言う。


「少し羨ましい」


「転ぶことがか」


「違う」


 苦笑する。


「昨日までと同じ身体ではいられないことが、あんなに自然に起きているのがです」


 老人は黙って聞いている。


「傷もつく。治りも遅くなる。階段を上るのに前より時間がかかる。できないことが増えて、わかったつもりだったことが外れていく」


 不老者は指先を見つめる。


「そうやって変わったあとでしか、選べないことがある」


 その言葉に、時記官はふと、先ほど見た古い記録の一文を思い出した。


 終わりがあるから決められる。


 誰が書いたのかはわからない。

 だが、その文字だけは何度も上からなぞられていた。まるで、忘れないために。


「あなたは、変わりたいのか」


 時記官が問うと、不老者は少し考えてから答えた。


「たぶん」


 その曖昧な返事は、かえって正直に聞こえた。


「でも、失うのも怖い」


「当然だ」


 老いは言う。


「私は優しくないからな」


「知ってます」


「それでも人は、私の中でしか次へ行けない」


 時記官は、また記録帳に目を落とす。

 出生、婚姻、病、失踪、和解、裏切り、火災、赦し。

 どの頁にも“前と同じではない”ことの証拠が詰まっている。

 もし誰も老いなければ、これらはもっと薄いものになっていただろうか。あるいは、重なりすぎて読めなくなっていただろうか。



「一つ、頼みがある」


 不老者が言った。


 時記官は顔を上げる。


「次の頁に、こう書いてほしい」


「何を」


 不老者は少しだけ笑った。

 どこか諦めにも似た、けれど完全には沈まない笑い方だった。


「変化なしじゃなくて」


 そこで言葉を切る。


「揺らぎあり、と」


 時記官は、すぐには答えなかった。


 その言葉を、軽く扱ってはいけない気がしたからだ。

 揺らぎ。

 これまでの記録にも、似たような余白がいくつもあった。

 ほとんど同じ。だが、少しだけ違う。

 違いがあるから残るもの。


「……根拠は」


 ようやくそう聞くと、不老者は窓の外を見る。


 さっき転んだ男が、今度はゆっくりと立ち上がり、拾い集めた紙を抱え直して歩き出している。先ほどよりも慎重な足取りで、だが確かに前へ。


「あれを見て、羨ましいと思った」


 不老者は言った。


「去年は、そんなこと思わなかった」


 老いが、静かに目を細めた。


「それで十分だ」


 まるで判定を下すような言い方だった。


 時記官は羽根ペンを取る。

 インク壺の縁に一度だけ触れ、余分な雫を落とす。

 ほんの一瞬、息が止まる。


 そして、年齢欄の横に、新しい文字を書き足した。


 揺らぎあり。


 その瞬間、何かが大きく変わったわけではなかった。

 塔は揺れず、鐘も鳴らず、外を歩く人々も変わらない。

 不老者の顔にも皺は刻まれない。


 それでも、書かれたという事実だけが、妙に重く残る。


「……それで?」


 時記官は聞く。


「次はどうする」


 不老者は立ち上がった。


「右じゃなくて、左から帰ってみます」


 何でもない調子でそう言う。


 時記官は思わず顔を上げる。

 その言葉にもまた、覚えがあった。


「それに意味があるのか」


「たぶん、少しは」


 不老者は肩をすくめる。


「少しで十分なこともある」


 老いは、それを否定しなかった。

 ただ、窓の外を見たまま、ぽつりとこう言った。


「進むというのは、大きく変わることじゃない」


 時記官が視線を向ける。


「昨日と違う迷い方をすることだ」


 その一言は、記録帳のどの文よりも深く、時記官の中に残った。



 夕方、鐘が鳴るころには、不老者は塔を去っていた。

 帰り道で本当に左を選んだのか、時記官には見えなかった。


 だが、机の上に残された記録には、たしかに新しい一行がある。


 揺らぎあり。


 たったそれだけ。

 年月というには短すぎ、変化というには曖昧すぎる。

 それでも、その曖昧さだけが、なぜか嘘ではない気がした。


 老いはいつの間にか姿を消していた。

 まるで最初から部屋にいなかったみたいに。

 だが、窓辺の石床には、杖の先で軽く叩いたような跡が一つだけ残っている。


 時記官は記録帳を閉じる。

 そして何とはなしに、次の空白の頁を開いた。


 まだ何も書かれていない頁。

 これから起こることのための場所。


 そこに、なぜか最初から一つだけ薄い線が引かれているように見えた。

 右から左へではなく、左から右へ。

 あるいはその逆かもしれない。


 どちらでもよかった。

 大切なのは、まだ決まっていないということだった。


 時記官は、ほんの少しだけ笑った。


「……進んでいるのかもしれないな」


 誰に向けた言葉でもない。

 だが、それは確かに、ここにいない二人へ向けられていた気もした。


 塔の外では、人々がまた一日ぶん老いていく。

 子どもは背を伸ばし、老人は少しだけ歩幅を失い、昨日迷わなかった角で今日は一瞬だけ立ち止まる。


 時間は、減っていくものではない。

 積み上がるものだ。

 そして、その積み上がりの中に、ごくわずかな揺らぎが混じるたび、人はようやく“同じではない今日”を手に入れる。


 それを記すことが、自分の役目なのだとしたら。


 その役目は、見届けるだけではなく、たぶん少しだけ、選び取ることにも似ている。


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