「本日のおすすめは、まだ決まっていない」
⸻
朝の店というのは、開けたばかりの瞬間だけ少しだけ世界から切り離されているように見えることがあって、まだ誰の会話も積もっていない空気と、誰にも触れられていない机の表面と、何かが始まる前の匂いだけがそこにきれいに残っているものだから、出勤してきたばかりの店員はいつもその時間が少しだけ好きだった。
駅から徒歩七分。
大通りから一本外れたところにある小さなカフェ。
店名は洒落ているが、近所の人たちはだいたい「角の店」で通している。
朝八時二分。
「……今日も来るかな」
店員はエプロンの紐を結びながら、小さくそう呟いた。
別に、来てほしいわけではない。
来なかったら来なかったで平和だ。
だが、たぶん来る。かなりの確率で来る。むしろ来ない日のほうが少ない。
その“来る人”の顔を思い浮かべた瞬間、厨房の奥から店長が声をかけてきた。
「おはよ。今日は雨降るらしいよ」
「へえ」
「あと豆ちょっと少ないから、変な注文きたらやんわり断って」
「変な注文ってなんですか」
「この店で普通に通らない注文全部」
それはもう、かなり広い。
「……了解です」
店員は返事をしながら、カウンターを拭く。
右から順に拭くか、左から順に拭くか、一瞬だけ迷って、結局いつもと同じように右から始めた。
その動きを見ていたわけでもないのに、背後のドアベルが鳴る。
「おはようございます。いつもの席、空いてますか」
来た。
開店してまだ五分も経っていない。
なのに、今日もまた同じタイミングで現れた。
「……空いてますけど、開店したばっかりですよ」
「だからいいんです」
そう言って、常連客は窓際の二人席に迷いなく向かう。
年齢は二十代後半くらいに見える。
服装は普通。髪型も普通。顔も、整ってはいるが印象が強すぎるわけではない。
それなのに、なぜかこの人だけは店の空気から少しだけ浮いて見える。
「ご注文は」
「まだ決めてません」
座るなりそう言う。
「いや、聞いてないです」
「でもたぶん聞くじゃないですか」
「聞きますけど」
「だから先に答えておこうかなって」
にこやかである。
悪気がないのが一番厄介だった。
「じゃあ、決まったら呼んでください」
「たぶん、三分後に決まります」
「ずいぶん具体的ですね」
「だいたいそのくらいで、あなたが水を置いて、そのあと奥で一回だけ困った顔をして、戻ってくるので」
店員の足が止まる。
「……なんですかそれ」
「予想です」
「嫌な予想ですね」
「当たりますよ」
常連客は当たり前みたいに言う。
その言い方が妙に堂々としているせいで、冗談なのか何なのか判断がつきにくい。
とりあえず水だけ置いて、店員は厨房に下がった。
「どうした、朝から渋い顔して」
店長が笑いながら聞いてくる。
「いや、いつもの人が」
「ああ、あの“こっちが言う前に言うこと言ってくる人”」
「そんな呼び方なんですか、店長の中では」
「あとで『ほらね』って顔する人」
「だいぶ的確です」
思わず少し笑う。
その瞬間、自分が本当に一回だけ困った顔をしたことに気づいて、店員はなんとも言えない気分になった。
「……三分後に決まるらしいです」
「なにが」
「注文です」
「占い?」
「予告です」
「やだなあ」
店長は楽しそうだ。
完全に他人事である。
⸻
結果から言えば、注文は二分四十秒後に決まった。
アイスコーヒーと卵サンド。
いつもとほぼ同じ。違うのは、今日は卵サンドのマヨネーズ少なめを指定してきたことくらいだった。
「よくそんな細かい予想できますね」
会計を打ちながら店員が言うと、常連客は少し考えるように首を傾げた。
「予想というより、見覚えがある感じですかね」
「前にも同じことあった、みたいな?」
「それに近いです」
「昨日も来てましたしね」
「いや、そういう近さじゃなくて」
常連客は窓の外を見る。
「もっと、前」
その言い方が少しだけ引っかかったが、深く聞く前にまたベルが鳴った。
入ってきたのは、一人の客だった。
雨が降る前の湿った風をまとって、静かにドアを閉める。
年齢も性別も、一瞬では判断しづらい。
ただ、見た目に特別な派手さはないのに、なぜか視線が一度引き寄せられると外しづらい感じがある。
「いらっしゃいませ。お一人ですか」
「ええ」
その客は、店内を一度ゆっくり見回した。
まるで初めて来る場所のようにも、どこか確認作業のようにも見える視線だった。
「おすすめはありますか」
穏やかな声で聞かれる。
店員は一瞬だけ迷う。
プリンは今朝ちょっと出来がいい。
でもチーズケーキも昨日の分がまだある。
雨の日はホットのカフェラテも出る。
こういうとき、何をすすめるかでその日の会話の流れが変わる気がして、毎回ほんの少しだけ迷う。
「……本日のおすすめは、まだ決まってなくて」
口から出たのは、そんな妙な言葉だった。
客は少しだけ笑った。
「店員さんが決めるんですか」
「いえ、勝手に出るものだと思ってました」
「でも、今決められる」
穏やかに返される。
「そうですね」
「では、決めてみてください」
なぜか試されている気分になって、店員は一度だけ息を止めた。
ほんの一瞬。
理由はない。ただ、何かを選ぶ前にそうしてしまうことが、ときどきある。
「……じゃあ、カフェラテで」
「それにします」
客は迷わず頷いた。
「甘いものは?」
「あなたが今日はプリンを勧めたかったなら、それも」
店員は思わず固まる。
「……顔に出てました?」
「少しだけ」
たぶん嘘ではない。
でも、全部それだけでもない気がした。
⸻
その日、店はなぜか午前中から妙に混んだ。
近くの会社の会議がずれたらしく、見慣れないスーツ姿の人たちが何人も入ってくる。
テイクアウトも増える。
店長は豆の残量を見て明らかに顔色を変えた。
「まずい、今日ほんとに足りないかも」
「早く言ってください」
「さっき言ったよ!」
「ふわっと!」
厨房とホールの往復で、店員の頭はだんだん空っぽになっていく。
そういうときに限って、常連客は静かに窓際からこっちを見ている。
手伝うわけでもなく、急かすわけでもなく、ただ「今から何か起こる」とわかっている人の顔で。
そして実際、起こった。
「すみません、注文いいですか!」
三人組の女性客がカウンターで呼ぶ。
同時に別の席で「お冷やお願いします!」と声が上がる。
さらに店長が奥から「ミルクどこ!?」と叫ぶ。
情報量が多い。
「はい! 今!」
店員は反射で動いた。
だがその瞬間、足元に置かれていたミルク缶に気づかず、つま先が軽く引っかかる。
「あ」
転ぶ、と脳が判断するより先に、身体がわずかに傾く。
そのとき。
「右です」
窓際の常連客が、はっきりとそう言った。
意味がわからない。
なのに、店員は反射的に身体を右へひねった。
結果、転ばなかった。
ギリギリでカウンターに手をついて、ミルク缶だけが床を滑っていく。
しばし沈黙。
「……え?」
店員が振り向くと、常連客は静かに水を飲んでいた。
「今、なんて」
「右です、って」
「聞こえてました」
「よかった」
「よくないですよ、なんでわかったんですか」
「左だとコップ割れてました」
あっさりと言う。
「右なら缶だけで済むので」
「済むので、じゃないんですよ」
怖い。
妙に具体的すぎて怖い。
だが、まわりの客は「危なかったですね」で流している。
たぶん、自分が思っているほどこの違和感は共有されていない。
カウンターの客から「あの、大丈夫ですか」と控えめに声をかけられ、店員は慌てて仕事に戻った。
⸻
少し落ち着いた昼過ぎ。
店長が休憩に入り、店内には一時的に店員一人と客が二人だけになった。
窓際の常連客。
そして、さっきの“おすすめを決めさせた客”。
妙に静かな店内で、その二人だけが別のテンポで息をしている気がした。
先に話し出したのは、カフェラテの客のほうだった。
「あなた、少し先が見えてますね」
いきなりだった。
店員は奥でカップを拭く手を止めた。
盗み聞きするつもりはなかったが、内容が内容である。
常連客は驚いた様子もなく、卵サンドの最後の一口を飲み込んでから言った。
「少し、というより何度か見てる感じです」
「それは先を見るのとは違う」
「そうかもしれません」
「巻き戻しでは?」
「そこまではわかりません」
二人の会話が普通の顔で進んでいくのが一番困る。
店員は心の中だけで盛大に困惑した。
なに?
何の話?
今日この店、そういう集まりだった?
「店員さん」
突然、呼ばれる。
「はいっ」
変な声が出た。
「プリン、もう一つ追加してもいいですか」
カフェラテの客が穏やかに聞く。
「もちろんです」
「あと、できればあの人にも」
視線の先は常連客だ。
「奢りですか?」
「そうなりますね」
常連客は目を瞬いたあと、少しだけ笑った。
「神様みたいなことしますね」
店員はその言葉に「いや比喩だよな」と思った。
思ったのだが。
カフェラテの客は、ほとんど間を置かずに答えた。
「たまに言われます」
店員は危うくプリン皿を落としかけた。
「えっ」
「冗談です」
「ですよね」
「たぶん」
「たぶん!?」
思わず声が出る。
しまった、と思ったが二人とも気にした様子はない。
むしろ常連客のほうがちょっと楽しそうだった。
「この店、面白いですね」
「そう見えるのはお二人のせいです」
店員が言うと、常連客は肩をすくめる。
「僕はただ、来る時間と注文がだいたい同じなだけです」
「それがすでに変なんですって」
「でも今日は少し違いましたよ」
「卵サンドのマヨネーズですか」
「いえ」
常連客は店員を見る。
「あなたがプリンをすすめるの、少し早かった」
その一言に、店員はなぜか言い返せなかった。
確かに今日は、あの客にカフェラテをすすめる前から、先にプリンのことを考えていた。
ほんの少しだけ。
何が違うと言われても説明できない程度の、わずかな順番のズレ。
「そういうの、気にするんですね」
店員が返すと、常連客は一瞬だけ真面目な顔になる。
「そういうのしか、変わらないこともありますから」
カフェラテの客――神様みたいなことを言われて「たまに」と返した人は、その言葉に小さく頷いた。
「揺らぎは大事です」
その単語に、店員はまた少しだけ引っかかる。
「……揺らぎ?」
「ほんの少し違うことです」
穏やかな説明だった。
「大きくは変わらなくても、そこにしか残らないものがある」
「なんか急に深いですね」
「カフェはときどき、深い話が似合います」
「それ、雰囲気で押し切ろうとしてません?」
「少し」
そこは認めるんだ、と思って店員は笑ってしまった。
⸻
夕方、雨が降り出した。
ぽつぽつというより、最初からそれなりの勢いで。
通りを歩いていた人たちが軒下に駆け込む。
窓の外が白っぽくにじんで、店内の明かりが急にあたたかく見えた。
客は減った。
店長は「助かった、豆ギリギリ」と言っていた。
「じゃ、俺ちょっと買い出し行ってくる」
「この雨でですか?」
「牛乳ない」
「終わりですね」
「終わる前に行ってくる」
店長が傘をひっつかんで出ていく。
残された店員は、なんとなく窓際の二人を見た。
常連客は雨を見ている。
もう一人は、冷めかけたカフェラテの泡をスプーンで静かにすくっていた。
「お二人って、知り合いなんですか」
聞いてみたくなって、聞いた。
「今日が初対面です」
常連客が答える。
「たぶん」
「たぶん、をやめてください」
「でも、初めてじゃない感じもあるので」
その言い方に、店員は一瞬だけどこか遠い既視感を覚えた。
初対面なのにそう思うこと自体は珍しくない。
なのにこの人が言うと、単なる気のせいで片付けづらくなる。
「店員さんは、毎日同じことの繰り返しって嫌いですか」
唐突に、カフェラテの客が問う。
「え」
「たとえば、同じ時間に開けて、同じ場所を拭いて、同じ人が来て、同じ注文を取る」
「いや、まあ……」
考える。
「同じだと楽な部分はあります」
「でも」
「でも、少しは違ったほうが面白いです」
自分でも、するっと出た答えだった。
「たとえば今日みたいに?」
常連客が言う。
「今日は違いすぎます」
「それもそうか」
三人で少し笑う。
その空気が、店内の雨音と妙に馴染んだ。
「じゃあ」
カフェラテの客がスプーンを置く。
「今日は、いい日だった」
「いきなりまとめに入りますね」
「まとめておいたほうが、あとで見やすいので」
「何をですか」
「今日を」
その返事は、少しだけ変だった。
でも変だと思った次の瞬間には、なぜか「そういう人なんだろうな」と納得もしていた。
⸻
閉店間際、常連客が立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。雨、まだ強いですよ」
「知ってます」
言ったあと、常連客はほんの少しだけ考える顔をした。
「たぶん、このあと角で一回だけ止まります」
「なんでですか」
「止まるからです」
「答えになってないんですよ」
「でも今日は、そのあと左に行こうかなと思ってます」
その言葉に、店員は妙に引っかかった。
「……いつもは右なんですか」
「ええ」
「じゃあ左に行けばいいじゃないですか」
「そうですね」
常連客は笑った。
「そう言われると、少し行けそうな気がします」
その言い方が、変に記憶に残る。
「じゃあ、また」
「はい。また」
外へ出ていく背中を見送る。
ドアベルが鳴って、雨音が少しだけ強くなる。
ほんの十秒ほどしてから、店員はなぜか窓の外を見た。
角のところで、常連客が一度だけ立ち止まる。
本当に止まった。
「……うわ」
小さく声が出る。
そしてその背中は、少し迷ったあと――右ではなく、左へ曲がった。
それだけのことなのに、なぜか店員の胸の奥に、言葉にしづらい感覚が残る。
何かがほんの少しだけ、いつもと違った。
その違いがどれほどの意味を持つのかはわからない。
でも、見てしまった以上、なかったことにはできない気がした。
「変わりましたね」
背後から、カフェラテの客の声。
振り向くと、その人も立っていた。
「……見てたんですか」
「ええ」
穏やかに頷く。
「こういうのは、見届けたほうがいいので」
「……なんなんですか、本当に」
半分笑いながら、半分本気で聞く。
すると、その客は少しだけ考えてから言った。
「偶然居合わせた人ですよ」
「それ、たぶん一番信用できない言い方です」
「そうかもしれません」
その人は会計を済ませ、静かにドアへ向かう。
「おすすめ、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「次は、もっと早く決められるかもしれませんね」
「何をですか」
「本日のおすすめです」
そう言い残して、外へ出る。
傘もささずに歩き始めるものだから、店員は思わず追いかけそうになった。
けれど、ドアの外に出たときには、通りの向こうにもう姿がない。
「……嘘でしょ」
雨はまだ降っている。
隠れる場所も少ない。
なのに、いなくなっている。
店員はしばらくそこに立ち尽くしてから、ゆっくりと店の中へ戻った。
⸻
閉店作業をしながら、カウンターを拭く。
今度は左から拭いてみた。
それで何かが大きく変わるわけではない。
でも、今日くらいはそうしてみようと思った。
窓の外では雨が少しだけ弱くなっている。
「……本日のおすすめ、か」
店員は一人で呟く。
誰が決めるものなんだろうと思う。
店の流れか。天気か。気分か。
それとも、ほんの少しだけ迷って、結局選んだ誰かの手なのか。
明日もたぶん、店は開く。
同じ時間に。
同じように。
そして、たぶんまた誰かが来る。
でも今日見た“左に曲がる背中”だけは、少しだけ長く残る気がした。
たぶん、こういう小さな違いを覚えていることが、あとで何かになる。
何になるのかは、まだわからないままでも。




