「捨てられなかったものの名前」
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遺されたものを片づける仕事をしていると、人が生きていた証拠というものは案外大げさな形では残らないのだと知る。むしろ、そういう証拠は使いかけの爪切りとか、何度も洗われて少しだけ薄くなったタオルとか、輪ゴムでまとめられた説明書の束みたいな、持ち主の死とは釣り合わないほど地味な姿で部屋の隅に置かれていることが多い。だからこそ、それを捨てるか残すかの判断は、金目の物を仕分けるよりずっと難しいことがあるのだった。
「……ここからですね」
遺品整理士は、開けたばかりの部屋を見回してそう言った。
古い団地の一室。
部屋はきれいだった。
整頓されている、というより、長いあいだ大きく動かされていない静けさがそのまま積もっている感じだ。小さな机、本棚、食器棚、押し入れ。どれもちゃんとそこにあるのに、住んでいた人の輪郭だけが薄く消えているように見える。
「依頼人は?」
後ろで鍵を閉めた青年が、少しだけ声を低くして尋ねた。
「本人です」
遺品整理士は答える。
「正確には、“本人だった人”と言ったほうがいいのかもしれませんが」
青年はそれ以上聞かなかった。
聞かなくても、なんとなくわかることがある。
部屋の窓際に、一人の男が立っていた。
年齢は三十代半ばくらいに見える。服装も整っているし、表情も落ち着いている。だが、何かが決定的に欠けている顔だった。疲れているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、自分の輪郭の一部をどこかに置いてきたみたいに見える。
「……本当に、全部見てもらえるんですか」
男は振り向いて言った。
「ええ」
遺品整理士は頷く。
「残すものと処分するものを決めるために来ました」
「決める、か」
男はその言葉を小さく繰り返した。
その響きに、青年――記憶視能力者はほんの少しだけ目を細める。
“決める”という言葉に反応する人間は、だいたい二種類しかいない。決めたい人間と、決めたくない人間だ。目の前の男がどちらなのかは、まだわからない。
「……あなたの持ち物で間違いないんですね」
遺品整理士が確認する。
「そう、らしいです」
男は答える。
「らしい?」
「ここに住んでいたのは俺らしい。これも、俺の物らしい」
机の上の古い腕時計に視線を落とす。
「でも、何も思い出せない」
部屋の中に沈黙が落ちた。
風が少しだけ窓を鳴らす。
「事故のあとからですか」
遺品整理士が聞くと、男はゆっくり頷いた。
「そう言われました」
「言われた?」
「自分では覚えてないので」
その答え方は妙に静かだった。
やけに落ち着いているのは、もう何度も同じ説明をしてきたからだろう。あるいは、説明されることに慣れすぎて、自分のことを他人事みたいに扱うしかなくなっているのかもしれない。
「……つまり」
記憶視能力者が、ようやく口を開いた。
「あなたは、自分の過去を整理するために、他人を呼んだんですね」
男は少しだけ苦く笑った。
「そうなるのかもな」
「変な話だと思いませんか」
「思うよ」
即答だった。
「でも、自分じゃ判断できない」
その一言に、遺品整理士は小さく息を吐く。
遺品を整理する。
本来なら死んだ人間の残り物に対して使う言葉だ。
だが今目の前にいる男は、生きているのに、自分の過去だけが死んだみたいな顔をしている。
「では始めます」
遺品整理士はそう言って、机の引き出しを開けた。
⸻
最初に出てきたのは、封を切っていない便箋の束だった。
次に、古びた鍵。
少しだけ角が削れた写真立て。
中には風景写真が入っている。海辺の防波堤と、白い空。
「……見覚えは?」
遺品整理士が問う。
男は写真を受け取る。
じっと見る。
だが、首を横に振る。
「ない」
記憶視能力者は、そのやり取りを黙って見ていた。
見ようと思えば見えてしまう。物に触れた人の記憶の断片が。残り方には差があるし、全部が鮮明なわけでもない。それでも、強く残ったものはどうしても流れ込んでくる。
「……それ、見ないのか」
男がふいに青年へ聞く。
「何をです」
「見えるんだろ」
遺品整理士は作業の手を止めなかったが、耳だけはこちらへ向いていた。
記憶視能力者は少しだけ黙る。
「見えます」
「なら、見れば早い」
「早いですね」
「じゃあ」
「でも」
青年は写真立てを受け取らずに言った。
「見えたものが、そのままあなたの過去になるとは限らない」
男は眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「見えるのは、残った結果です」
静かな声だった。
「その瞬間に何を考えていたか、その前に何を選ばなかったか、そこまでは全部わからない。見えるのは、残った側だけです」
その説明に、遺品整理士が小さく頷く。
「整理も同じです」
彼は言った。
「残っている物には意味があります。けれど、それだけで全体が決まるわけじゃない」
男は写真立てをもう一度見る。
海。白い空。防波堤。
「……じゃあ、どうすればいい」
その問いは、小さかった。
「決めるしかありません」
遺品整理士は言う。
「残すか、手放すか」
「わからないから呼んだんだ」
「ええ」
遺品整理士は頷いた。
「だから、わからないまま決めるんです」
その言葉に、男の手が止まる。
ほんの一瞬。
そして、なぜか息まで止まる。
記憶視能力者はその瞬間を見逃さなかった。
まただ、と思う。
この“決める前に息を止める”癖を、どこか別の場所でも見た気がした。
⸻
押し入れの奥から、小さな箱が出てきた。
木箱だった。古びているが、丁寧に使われていたのがわかる。
男はそれを見た瞬間、わずかに表情を変えた。
「……それは」
「覚えがありますか」
「いや」
そう言いながら、男は箱に手を伸ばす。
迷う。
やはり、ほんの一瞬だけ。
「開けますか」
遺品整理士が聞く。
「……ああ」
男は答えた。
蓋を開く。
中には、鍵が一本と、折りたたまれた紙片が入っていた。
紙には、短い文字だけ。
右じゃなくてもいい。
それだけだった。
男の目が、その一文の上で止まる。
「……なんだ、これ」
記憶視能力者は、その紙からわずかに流れ込んでくるものを感じていた。
強い感情ではない。
むしろ、何度も迷った末にようやく残したみたいな、静かな決意に近いもの。
「あなたが書いたものです」
そう言ったのは遺品整理士だった。
「見なくてもわかるんですか」
男が問う。
「整理していると、たまにあります」
遺品整理士は答える。
「これは残されるためにここにある、という物が」
記憶視能力者も、今度は小さく頷いた。
「ええ。たぶんこれは、あなたが“あとで自分で見るために”残した」
「俺が?」
「過去を失う前のあなたが」
その言葉に、男はしばらく何も言えなかった。
右じゃなくてもいい。
たったそれだけの文なのに、妙に重い。
何かの答えみたいで、でも問いのほうは書かれていない。
「……これ、残します」
男がそう言った。
遺品整理士は、手元の紙に印をつける。
残す。
その文字を書きながら、彼はなぜか少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
これが正解かどうかはわからない。
でも、誰が選んだかは残る。
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作業が終わるころには、窓の外の光は少し傾いていた。
処分するものと、残すもの。
積み方の違う二つの山。
その差は大きいようで、実際は紙一枚ぶんの判断の積み重ねでしかない。
「……こんなもんか」
男が言う。
「はい」
遺品整理士は答える。
「全部戻ったわけではありませんが」
「それでも」
記憶視能力者が続ける。
「少しは違うはずです」
「何が」
「これからです」
男は、小さく笑った。
「それ、便利な言い方だな」
「そうですね」
青年はあっさり認める。
「でも、本当です」
嘘のない声だった。
⸻
部屋を出る前に、男はもう一度だけ振り返った。
さっきまでより、ほんの少しだけこの部屋との距離が近くなっているように見えた。思い出したわけではない。ただ、“自分と無関係ではない場所”として見られるようになった、それだけの違い。
「……また、迷うかな」
誰にともなく呟く。
「迷いますよ」
遺品整理士が言う。
「たぶん何度でも」
「でも」
記憶視能力者が続ける。
「前とまったく同じにはならない」
男は、そこで一度だけ深く息を吸った。
そして、今度は止めなかった。
「……なら、いいか」
その声は、さっきまでより少しだけ、自分のものに聞こえた。




