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宿生奇縁  作者: vastum
12/24

「飛ばなかった理由」


 空は、どこまでも高く続いているように見えるのに、そこを飛ぶものは決して自由ではなく、見えない境界のようなものに沿って軌道をなぞるように動いているのだと、初めてそれに気づいたとき、なぜか少しだけ安心したことを、研究者は今でもはっきりと覚えていた。


 観測塔の最上階。


 風は強く、常にどこかから吹き込んでくる。


 それでも、この場所が一番よく見える。


「……今日も同じか」


 手元の記録板に視線を落とす。


 線は、滑らかに引かれている。


 乱れはない。


 むしろ、整いすぎている。


「理想的な飛行、ね」


 小さく呟く。


 理想的であることと、自然であることは、必ずしも一致しない。


 むしろ逆だ。


 自然なものほど、どこかに歪みがある。


 だが、この軌道には、それがない。


 だからこそ、気になる。


「……なぞってるみたいだ」


 誰に向けたわけでもない言葉。


 だが、それが一番しっくりきた。



 遠くの空に、影が現れる。


 大きく、ゆっくりとした動き。


 翼が、空気を押し広げる。


 ドラゴンだ。


 その背には、一人の人影。


 竜騎士。


 この国では珍しくもない光景。


 だが、研究者の目には、それはいつも同じものに見えた。


 同じ高さ。


 同じ角度。


 同じ旋回。


「……また同じ」


 記録板に、新しい線が重なる。


 前のものと、ほとんどずれない。


 重なって、見えなくなるほどに。


「誤差、ほぼゼロ」


 それは異常だ。


 だが、誰もそれを異常とは言わない。


 むしろ、優れた技術の証として称賛される。


「……本当にそうか?」


 問いは、宙に消える。



 着地は、塔のすぐ近くの広場だった。


 土埃が、ゆっくりと落ち着いていく。


 ドラゴンは、静かに翼を畳む。


 その動きすら、どこか一定だ。


「お疲れ」


 研究者は、軽く手を挙げる。


「今日も観測か」


 竜騎士が、兜を外しながら言う。


「まあな」


「変わったことは?」


「ない」


 短く答える。


「いつも通り、完璧だ」


 その言葉に、竜騎士は少しだけ笑う。


「それはいいことだろ」


「……そうだな」


 研究者は頷く。


 だが、その頷きはわずかに遅れていた。


「なあ」


 研究者は、少しだけ声を落とす。


「お前、自分で飛んでる感覚あるか?」


 竜騎士の手が、わずかに止まる。


「……どういう意味だ」


「そのままの意味だ」


 記録板を見せる。


「毎回、同じ軌道なんだよ」


 竜騎士は、目を細める。


「訓練の成果だ」


「それにしては、正確すぎる」


「正確で何が悪い」


「悪くはない」


 研究者は言う。


「ただ、不自然だ」


 風が、少し強く吹く。


 ドラゴンが、低く息を吐く。


「……俺は、飛んでる」


 竜騎士は、ゆっくりと言う。


「自分の意思で」


「そう思ってる、か」


 研究者は、小さく繰り返す。


「思ってるじゃなくて、そうだ」


 強く言い切る。


 だが、その声にはほんのわずかな揺らぎがあった。



「――違いますよ」


 別の声が、割り込む。


 振り向くと、ドラゴンのすぐそばに誰かが立っていた。


 いつからいたのか、わからない。


 白い衣服。


 風に揺れているはずなのに、ほとんど動かない。


「……誰だ」


 竜騎士が、警戒する。


「観測している人間の一人です」


 あっさりと答える。


「あなたたちの“飛行”を」


「研究者は俺だ」


「ええ」


 軽く頷く。


「あなたは記録している」


 視線が、研究者に向く。


「私は、少しだけ違う角度から見ている」


「……何を言ってる」


 竜騎士の声が、低くなる。


「簡単なことです」


 その人物は、空を指さす。


「あなたは、選んでいない」


 その言葉に、空気が止まる。


「……何を」


「軌道です」


 即答だった。


「あなたは、毎回同じ経路をなぞっている」


「だから訓練だと——」


「違います」


 遮る。


「訓練ではなく、“再現”です」


 その言葉に、研究者の指がわずかに動く。


「……再現」


「はい」


 静かに頷く。


「すでに決まっている動きを、なぞっているだけ」


「……ふざけるな」


 竜騎士は、一歩前に出る。


「俺は——」


 言葉が止まる。


 ドラゴンが、わずかに首を動かす。


 その動きは、さっきと同じだった。


 ほんの少しだけ、遅れて。


「……違う」


 小さく呟く。


「違うはずだ」


「では」


 その人物は、淡々と続ける。


「次の飛行で、変えてみてください」


「……何を」


「どこでもいい」


 軽く言う。


「高さでも、速度でも、旋回のタイミングでも」


 沈黙。


 風の音だけが響く。


「……簡単に言うな」


「簡単です」


 即答だった。


「選ぶだけですから」


 その言葉に、研究者が目を細める。


 それは、どこかで聞いたような響きだった。



 再び、空へ。


 ドラゴンの背に乗る。


 いつもの手順。


 いつもの動き。


 体は、迷わない。


 だが。


「……変える」


 小さく呟く。


 誰に聞かせるでもなく。


 ドラゴンが、翼を広げる。


 空へ。


 浮かび上がる。


 高度が上がる。


 いつもと同じ位置。


 同じ感覚。


「……ここで」


 ほんの一瞬。


 息が止まる。


 理由はわからない。


 ただ、いつもそうしている気がした。


「……違う方へ」


 手綱を引く。


 ほんのわずかに。


 進路が、ずれる。


 はずだった。


 だが。


「……」


 気づいたときには、元の軌道に戻っている。


 何もしていないかのように。


「……なんでだ」


 声が、震える。


 もう一度、試す。


 同じ。


 何度やっても。


「……なぞってる」


 その言葉が、自然に出る。


 理由はわからない。


 だが、それしかない。



 地上。


 研究者は、記録板を見つめる。


 線は、やはり同じだった。


 わずかな揺らぎすらない。


「……変わらない」


 小さく呟く。


「でも」


 指先で、線をなぞる。


「変えようとはした」


 それだけは、わかる。


 なぜか。



 そのとき。


 あの人物が、静かに言う。


「それで十分です」


「……何がだ」


「揺らぎがある」


 空を見上げる。


「それは、記録されています」


 その言葉に、研究者はわずかに眉を寄せる。


「……誰が」


「さあ」


 軽く笑う。


「見る人がいれば、残るでしょう」


 その言い方に、説明はない。


 だが、否定もできない。



 空は、変わらず高い。


 ドラゴンは、また同じ軌道を描く。


 竜騎士は、それをなぞる。


 研究者は、それを記録する。


 すべては、同じように繰り返される。


 はずなのに。


 ほんのわずかに、


 前とは違う気がするという感覚だけが、


 理由もなく、残り続けていた。


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