「来なかった日の、続き」
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教室の時計は、いつも正しい時間を指しているはずなのに、そこにいる人間の感覚とは微妙にずれていて、そのズレが一日の中でどれだけ影響しているのかを正確に測ったことはないけれど、少なくとも“間に合っているはずなのに間に合っていない気がする”という感覚だけは、何度も繰り返しているような気がしていた。
「……今日も、か」
出席簿に視線を落とす。
空白のままの欄。
名前は、ある。
だが、そこに存在はない。
少なくとも、この教室には。
教師は、ペンを持ったまま一瞬だけ手を止める。
何かを書こうとしたのか、それとも消そうとしたのか、そのどちらでもない動きだった。
「……まあいい」
小さく呟く。
良くはない。
だが、それ以上どうすることもできない。
教室のざわめきは、いつも通りだ。
誰かが笑い、誰かが眠り、誰かがただ時間をやり過ごしている。
その中に、一つだけ欠けているものがある。
それが何かを、はっきりと認識しないまま、授業は進む。
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放課後。
職員室は、昼間よりも静かだ。
教師は、机の上に置かれた紙を見つめている。
家庭訪問の記録。
数日前のもの。
内容は、問題ないと書かれている。
生活に異常はない。
体調も問題ない。
ただ——
「……来ない理由が、ない」
それが一番困る。
理由があれば、対応できる。
だが、理由がないと、どこから手をつけていいのかわからない。
ペンを持つ。
何かを書こうとする。
だが、言葉が出てこない。
代わりに、机を軽く叩く。
リズムは一定ではない。
考えがまとまっていない証拠だ。
「……行くか」
結局、そうなる。
理由を探しに行く。
それしかない。
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その家は、特別な場所には見えなかった。
どこにでもあるような住宅街の一角。
表札も、郵便受けも、普通だ。
インターホンを押す。
少しだけ間があって、音が鳴る。
だが、返事はない。
もう一度押す。
同じ。
「……留守か」
そう判断しかけたとき。
玄関の扉が、わずかに開いた。
隙間から、目だけが覗く。
「……先生」
小さな声。
「来てたんですね」
「……ああ」
教師は、少しだけ安堵する。
「少し、話せるか」
沈黙。
数秒。
それが長く感じる。
「……いいですよ」
扉が、ゆっくりと開く。
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部屋の中は、静かだった。
テレビの音も、生活音もない。
ただ、外の音だけがわずかに入り込んでくる。
「……学校には、来ないのか」
単刀直入に聞く。
遠回しにする余裕はない。
「……はい」
短い返事。
それ以上は続かない。
「理由は?」
少しだけ間を置いてから聞く。
「……ないです」
その答えは、予想通りで、同時に困るものだった。
「ない、か」
繰り返す。
「でも、来ないって決めてるんだな」
「……決めてるっていうか」
少しだけ視線を逸らす。
「気づいたら、そうなってただけです」
その言い方に、わずかな違和感。
「気づいたら?」
「はい」
頷く。
「最初は、行こうと思ってたんですけど」
「けど?」
「……なんか、いいかなって」
曖昧な言葉。
だが、そこに嘘はないように見える。
「……それで、そのままか」
「はい」
また、短い返事。
会話が続かない。
教師は、少しだけ視線をずらす。
部屋の中を見回す。
特に変わったものはない。
ただ、整いすぎている。
生活の痕跡が、少ない。
「……退屈じゃないか」
「別に」
即答だった。
「外に出なくても、やることはありますし」
「例えば?」
「……考えることとか」
その答えに、少しだけ考える。
「何を」
「いろいろです」
具体的には言わない。
だが、それでいい気がする。
無理に聞き出すものでもない。
そのとき。
「――それ、壊せますよ」
突然、別の声が入る。
教師は、反射的に振り向く。
そこには、見覚えのない人物が立っていた。
いつからいたのか、わからない。
「……誰だ」
「通りすがりです」
軽く答える。
「ちょっと気になったので」
何が、とは言わない。
「……何を壊すって?」
教師は、警戒しながら聞く。
「概念です」
あっさりとした答え。
「“学校に行くべき”っていうやつ」
その言葉に、空気がわずかに変わる。
「……それは」
教師は、言葉を選ぶ。
「必要なものだ」
「そうですね」
あっさりと肯定する。
「でも、絶対ではない」
その一言が、妙に重い。
「……絶対じゃないからって、壊していいものじゃない」
「壊すというより」
少しだけ考えるように言う。
「外す、ですかね」
視線が、不登校の生徒に向く。
「あなた、別に困ってないですよね」
「……まあ」
少しだけ戸惑いながら頷く。
「じゃあ、問題ない」
即断。
「問題は“そう見えている側”にあるだけです」
教師の眉が、わずかに動く。
「……それは違う」
「違いますか?」
淡々とした問い。
「その状態が続いたら、後で困る」
「後で、ですか」
少しだけ笑う。
「それも、誰かが決めた基準ですよね」
言葉が詰まる。
間違っているとは言い切れない。
だが、納得もできない。
「……じゃあ、どうすればいい」
思わず聞く。
「簡単です」
軽く言う。
「決めればいい」
「何を」
「来るか、来ないか」
シンプルすぎる答え。
「もう決まってるだろ」
教師は言う。
「来ていない」
「ええ」
頷く。
「でも、それは“流れた結果”ですよね」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
「……違うのか」
「変えられる可能性はあります」
断定しない。
ただ、可能性だけを置く。
「……どうやって」
「決めるだけです」
また、それだ。
あまりにも簡単すぎる。
だが。
不登校の生徒が、ゆっくりと口を開く。
「……じゃあ」
少しだけ間を置く。
「明日、行ってみます」
静かな言葉だった。
大きな決意でも、小さな気まぐれでもない。
ただ、選んだ、という感じ。
教師は、少しだけ驚く。
「……いいのか」
「はい」
頷く。
「別に、行かないって決めたわけでもないので」
その言い方に、ほんのわずかな違和感。
だが、今はそれを深く考えない。
「……そうか」
短く言う。
それ以上は何も言わない。
言う必要がない気がした。
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帰り道。
教師は、一人で歩く。
さっきの会話を思い返す。
「……決める、か」
小さく呟く。
簡単な言葉だ。
だが、その中身は曖昧だ。
自分は、決めているのか。
それとも、決められているのか。
その違いは、はっきりしない。
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翌日。
教室の扉が、開く。
そこに立っているのは——
昨日、来なかった生徒。
静かに席に向かう。
特に何も言わない。
周りも、特に騒がない。
ただ、そこに“いる”という事実だけが、少しだけ空気を変える。
教師は、出席簿を見る。
空白だった欄。
そこに、印をつける。
ペンが、少しだけ止まる。
ほんの一瞬。
それだけ。
「……」
何かを考えかけて、やめる。
授業を始める。
それでいい。
それで、いいはずだ。
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ただ一つ。
昨日の選択が、初めてではない気がするという感覚だけが、
理由もなく、残り続けていた。




