「どっちでもいいのに、決めなきゃいけない日」
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その日、問題は突然発生したわけではなく、むしろずっと前からそこにあって、ただ誰もそれを問題として認識していなかっただけで、だからこそ気づいた瞬間にやけに重大なものに見えてしまうという、よくあると言えばよくあるが当事者にとっては全く笑えない類の事態として、教室の一角に静かに、しかし確実に存在していた。
「……で、どうする」
机の上に置かれているのは、二つのパン。
メロンパンと、焼きそばパン。
どちらも魅力的で、どちらもそれぞれの正義を持っている。
そして、どちらも今この瞬間に選ばれなければならない。
「いや、だからそれを今考えてるんだろ」
目の前に座るやつが、呆れたように言う。
「どっちでもいいだろ」
「よくない」
即答だった。
「こういうのはな、最初の選択がその日の全体を決めるんだよ」
「そんなわけあるか」
「ある」
断言する。
「朝、どっちの靴下履くかで運命変わるタイプだろお前」
「そこまでじゃないけど」
そこは否定しきれない。
実際、なんとなく右から履くか左から履くかで一日が違う気がしたことは、なくもない。
「……で、どっちがいいと思う」
「知らん」
投げやりに返される。
「自分で決めろ」
「それができたら聞いてない」
その通りである。
メロンパンは甘い。
焼きそばパンはしょっぱい。
甘いか、しょっぱいか。
人生の分岐としては、あまりにもシンプルすぎる。
だが、だからこそ難しい。
「……なあ」
少しだけ声を落とす。
「これ、どっち選んでも後悔するパターンじゃないか?」
「知らん」
「たとえばさ」
考えながら言葉を並べる。
「メロンパン選んだら、“あー焼きそばパンにすればよかった”ってなるし、逆もある」
「じゃあ両方買え」
「金がない」
即答。
「はい詰み」
「詰んでない」
まだ終わっていない。
終わらせてはいけない。
この選択には、何か意味がある気がする。
たぶん。
「……こういうときさ」
ふと、横から声が入る。
「別の基準で決めるといいよ」
振り向くと、同じクラスのやつが立っていた。
名前は、たしか……まあいい。
「別の基準?」
「うん」
軽く頷く。
「味じゃなくて、別の要素」
「例えば?」
「重さとか」
「重さ?」
「どっちが重いかで決める」
意味がわからない。
「……それ意味あるか?」
「あるよ」
あっさりと言う。
「選択に理由がつく」
その言い方が、妙にそれっぽい。
「……なるほどな」
なんとなく納得しかける。
「じゃあ持ってみるか」
メロンパンを持つ。
軽い。
焼きそばパンを持つ。
少しだけ重い。
「……焼きそばパンか」
「そうなるね」
頷く。
だが、その瞬間。
「いや待て」
手が止まる。
「それって、本当に正しい選び方か?」
「正しさって何?」
すぐに返される。
「……なんか難しい話になってきたな」
横のやつが呟く。
「ただのパンだぞ」
「ただのパンじゃない」
反射的に言う。
「これは分岐だ」
「何の?」
「知らん」
でも分岐だ。
たぶん。
いや、きっと。
「……じゃあさ」
その“別の基準のやつ”が、少しだけ考えるように言う。
「逆に考えてみたら?」
「逆?」
「選ばなかった方が、どれくらい気になるか」
「……なるほど」
確かに。
メロンパンを選ばなかった場合。
焼きそばパンが気になる。
焼きそばパンを選ばなかった場合。
メロンパンが気になる。
「……どっちも気になるな」
「だろうね」
あっさり。
「詰みじゃねえか」
横のやつが言う。
「いや、まだだ」
諦めるわけにはいかない。
「こういうときは——」
言いかけて、止まる。
何か、言おうとしていた。
何度も言ったことがあるような気がする。
だが、思い出せない。
「……なんだっけ」
「知らんって」
「いや、なんかあるんだよ」
絶対にある。
こういうときの“決め方”。
いつも使ってるやつ。
なのに、思い出せない。
「……コイントスとか?」
横のやつが言う。
「それだ」
即答だった。
「それでいい」
「いやそれでいいのかよ」
「いいんだよ」
ポケットを探る。
コインは、あった。
「表がメロンパン、裏が焼きそばパン」
「逆でもいいだろ」
「よくない」
ここは大事だ。
「……で、どうするんだ」
「投げる」
そのままだ。
「決める」
コインを親指で弾く。
空中で回転する。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ、息が止まる。
理由はない。
ただ、なぜかそうなる。
コインが落ちる。
手で受け止める。
ゆっくりと開く。
「……」
沈黙。
「どっちだよ」
「……裏」
「焼きそばパンか」
「……」
なぜか、すぐに動けない。
「どうした」
「いや」
少しだけ考える。
「……これ、納得してないかもしれない」
「は?」
「コインで決めたのに」
「じゃあやり直せよ」
「それは違う」
即座に否定する。
「一回決めたら、それに従うべきだ」
「めんどくせえな」
「めんどくさいんだよ」
それはそうだ。
だが。
「……でも」
小さく呟く。
「たぶん、これでいい」
理由はない。
だが、なぜかそう思う。
「焼きそばパンでいい」
「最初からそうしろよ」
「最初は違ったかもしれないだろ」
「知らん」
呆れた声。
「……じゃあ、行くか」
立ち上がる。
焼きそばパンを持つ。
そのとき。
「ねえ」
“別の基準のやつ”が、また声をかける。
「うん?」
「それ、たぶん前も選んでるよ」
軽く言う。
「……は?」
「なんとなく」
肩をすくめる。
「同じ感じだった気がする」
「……知らないな」
即答する。
だが、少しだけ引っかかる。
「覚えてないだけかもね」
その一言が、妙に残る。
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購買に向かう。
人は少ない。
パンは、まだ残っている。
焼きそばパンを取る。
メロンパンも、まだある。
一瞬だけ、手が止まる。
ほんの一瞬。
それだけ。
「……」
何も考えないようにして、焼きそばパンを持つ。
レジに向かう。
それで終わりだ。
ただの昼飯。
ただの選択。
それだけ。
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席に戻る。
袋を開ける。
一口食べる。
「……うまい」
「だろうな」
横のやつが言う。
「普通にうまい」
「普通ってなんだよ」
「普通は普通だろ」
どうでもいい会話。
それでいい。
それで、いいはずなのに。
「……なあ」
「なんだよ」
「もしさ」
少しだけ考える。
「メロンパン選んでたら、どうなってたと思う?」
「知らんって」
「そうか」
それもそうだ。
わかるはずがない。
でも。
なぜか少しだけ、
そっちも知っている気がした。
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その感覚が何なのかはわからない。
ただ一つ。
この程度の選択ですら、
どこかで繰り返されている気がするという、
根拠のない確信だけが、
理由もなく、残り続けていた。




