「聞こえているのは、誰の声だ」
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雨は、最初から降っていたわけじゃない。
気づいたときには、すでに濡れていた。
「……で、あんたが“見える側”か」
男は、煙草に火をつけながらそう言った。
名乗りは受けたが、覚える気はないらしい。
「ええ。あなたよりは、少しだけ」
向かいに座る女は、笑っていない。
視線は、男ではなく――その“隣”にあった。
男は気づいていない。
いや、気づかないようにしている。
「被害者はここで刺された。凶器はまだ見つかってない。防犯カメラも死んでる。証言もなし。……だから、あんたが呼ばれた」
「“証言”はありますよ」
女はそう言って、カップに触れた。
中身はすでに空だ。
「ただ、あなたが聞くかどうかは別ですけど」
男は、煙を吐いた。
「……聞くさ。聞くだけならな」
女は、ゆっくりと頷いた。
「――彼女は、あなたを知っています」
その言葉で、空気が少しだけ重くなる。
「初対面だ」
「そうですね。“あなたは”」
男の眉が、わずかに動く。
「意味のわからない言い方はやめろ」
「意味は、あとでわかります」
女はようやく、男の目を見た。
「彼女は言っています。“また同じ選択をした”と」
沈黙。
雨の音が、少し強くなる。
「……ふざけるな」
男は吐き捨てる。
「被害者は、あの時間まで生きてた。俺は現場にいない。関係ない」
「ええ、今回のあなたは」
女は、あっさりと肯定した。
「ですが、“前”のあなたは違ったようです」
男の手が、止まる。
煙草の灰が、落ちる。
「……何の話をしてる」
「あなたは、選ぶ側の人間です」
女の声は、静かだった。
「いつも、最後に“決める”。引き金を引くか、見逃すか。助けるか、切り捨てるか」
「……ただの刑事だ」
「ええ、今回は」
また、その言い方だ。
男は舌打ちした。
「で、被害者は何て言ってる」
女は、一瞬だけ視線を横にずらした。
そこに“いる”。
「――あなたに、礼を言ってます」
「……は?」
「“あの時、殺してくれてありがとう”と」
空気が、凍る。
「……冗談も大概にしろ」
「冗談ではありません」
女は、初めて少しだけ眉を寄せた。
「彼女は、あなたに何度も殺されています」
沈黙。
長い、長い沈黙。
「……証拠は?」
男の声は、低い。
「ありません」
「だろうな」
「ただ」
女は言葉を切る。
「あなたの癖は、毎回同じです」
男の視線が鋭くなる。
「左手で銃を持つ。引き金を引く前に、一度だけ息を止める」
男の指が、無意識に動いた。
「……それが何だ」
「今回も、同じでしたよね?」
女は、確信している顔だった。
「撃っていない、という“記憶”の前に」
雨が、止む。
いや、止んだように感じただけかもしれない。
「――彼女は、まだここにいます」
女の隣で、誰かが笑った。
聞こえるはずのない、声で。
「……なあ」
男は、ゆっくりと立ち上がる。
「その“彼女”は、今どこを見てる?」
女は答えない。
代わりに、同じ方向を見る。
あなたの方だ。
「――観測されています」
女は、静かにそう言った。
「あなたも、私も、彼女も」
そして、少しだけ微笑む。
「だから、同じことが起きる」
男は振り返らない。
振り返ったら、終わる気がしたからだ。
ただ一つ、確かなことがある。
さっきからずっと、
自分は誰かに“見られている”。
そして――
その視線は、今も外れていない。




