干す ⋰⋱ 洗濯物じゃないから動かせませんo。
暮れ泥む空を仰いで、リーンハルトは騎馬の歩を進めた。
港までは距離がある。急いで制圧し、ヴォルフが事を動かす前に戻らねばならない。
しかし突如王城から吐き出される大量の兵士に、城下町はざわついている。見物人も多く、全速力などすれば事故が起きかねない。軍隊はパレードのようにじりじりと進み、手を振れば周囲から歓声があがる。
薄い唇に笑みを貼り付けながら、リーンハルトの胸に焦燥が募っていった。
「殿下、どうなさいましたか」
ドリーに声をかけられ、思考の沼に沈んでいたリーンハルトは息をついた。煌びやかな王子と兵士の隊列に、洗濯籠を積んだ馬に跨がるメイドは異質だ。
「……いや。あいつらが、私が戻るまで大人しくしているだろうかと」
「ラジェシュですからね」
肩を竦めるドリーにリーンハルトは苦笑いした。
「お前は付き合いが浅いからまだ知らないか。こういう時に無茶をするのは、……むしろヴォルフだ」
関所を抜けて城下町を出ると、人通りが減り道が開けた。リーンハルトは、よく通る声を張り上げ号令した。
「皆の者、行くぞ! 全速前進だ!」
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「……いたぞ。あれか」
異国の女神像を船首に据えつけたその船は、遠目からでもよく見えた。一見なんの変哲もない貨物船のようだが、その大きさは際立っている。
しかし、目立つのはこちらも同じのようだ。100を超える兵団の襲来を見て取ってか、船が出航の準備を始めた。帆が張られ、舫いが切られ、船はゆっくりと岸から離れていく。
「ドローン隊、前へ!」
合図と共に幾らかの兵士が空を舞う。
しかしその他の者たちは、岸壁を前に蹈鞴を踏むしかない。
「ドリー、あの船を動かすことはできるか」
「無理です」
「では、あの舫いをこちらに戻せ。固定している間に、艀で向かう」
「無理です」
歯噛みしながら指示を下すリーンハルトに、ドリーは短く答えた。
「何故だ。物を動かす魔法を使えるんだろう」
「洗濯物じゃないから動かせません」
「……は?」
一瞬、意味を掴みそびれた王太子の顔に、ドリーはやけっぱちで叫んだ。
「洗濯物じゃ、ないから、動かせません! わたしに動かせるのは、お洗濯に関するものだけ!」
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想定外の告白に呆気にとられたリーンハルトの脳裏に、ひらひらとジョーゼットのリボンが舞った。
「……洗濯物が、あればいいんだな」
リーンハルトは己の肩から紺のマントをむしり取り、海へ放った。
ドリーはあの時、ラジーのリボンをわざわざ一度投げ捨てた。
「お前らみんな、服を脱げ! 上衣を脱いで海へ投げ捨てろ!」
兵たちは訳が分からないながらも、指示に従って服を脱ぎ、我先に海へと放り込んだ。
一度着て脱いだ、汗の染み込んだ、投げ捨てられて塩水を吸った衣類の山。
紛うかたなき「洗濯物」だ。
リーンハルトは今度こそ自信満々にドリーに命じた。
「ドリー! あの舫いをこちらに戻せ!」
「御意!」
それは大きなうねりとなって、ぎちぎちと絡まり、巨大な1本の綱となった。
切れた舫いに喰らいつき、他方はボラードにぐるぐる結ばれ、岸と船とを強固に結んだ。
そのまま綱を手繰り寄せる。魔力の量には自信があったドリーだが、船一艘を動かしたことはさすがにない。踏ん張るとあまりの重さに顔が紅潮し、ガンガンと殴られるような頭の痛みに、ぐぅ、と喉の奥が鳴った。
「引け!」
リーンハルトの怒号で幾人もが綱に取り付き、渾身の力で引き寄せる。
ドローン隊が上から帆を裂き、船員たちと切り結ぶ姿が遠くに見える。
誰かが操舵を奪ったのか、舳先がゆっくりとこちらを向き出す。
「洗濯魔法……面白いな!」
自らも綱に取り付きながら、リーンハルトが破顔するのが見える。
ーー玩具を貰った子供みたいだ。
その顔があんまり眩しくて、ドリーは瞼をきつく結んで力を込めた。
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勢いづいた船が岸壁に叩きつけられ、轟音と共に大穴を開けた。
兵たちは躊躇いもせず悪魔の顎に飛び込んでいく。
「長くは保たん! 沈没する前に民を逃がせ!」
鋭く指示を飛ばしてから、リーンハルトはへたり込んでいるドリーを覗き込んだ。
「よくやった。あとは任せて、少し休め」
「いえ! まだやれます!」
その声にぱっと顔を上げると、リーンハルトは薄い唇をへの字に曲げて、懐から手巾を取り出した。
それから、少し躊躇って──ドリーの鼻に押し付けた。
「はひゃっ。……殿下、手巾に血が!」
それでやっと、ドリーは自分が鼻から血を流していることに気が付いた。
「構わない。その為の手巾だ」
それだけ言うとリーンハルトは立ち上がり、ドリーに背を向けて抜刀した。
「……洗濯して、お返しします」
「ああ。頼む」
戦いに身を投じた彼の姿は、すぐに見えなくなった。
ドリーは手のなかの手巾を広げてみた。
拙い刺繍の施された、女物の、古びた手巾を。
ドリーも大きく深呼吸すると、リーンハルトの後を追った。




