給水 o。⋰⋱ 隠し通路の向こう側
──しまった。
裸婦の描かれた絵画の額をずらしたドリーは、己の過ちに気付いた。
昼間の任務は思うよりずっと自分を疲弊させていたらしい。隠し扉の向こうにいる人の気配に気が付かなかったとは。
銀糸の髪の青年が、切れ長の目を驚愕に見開いてこちらを見ていたのだ。
「──貴様、何者だ」
誰何する声に、深々と頭を下げる。
「王太子殿下におかれましては、御機嫌麗しゅう。お目汚し平にご容赦願います」
「メイドが、なぜ王家の隠し通路から出てくる」
当然だが、誤魔化されてくれる気配はない。重ねて尋ねる青年の手は剣の柄に架かっている。ドリーは顔を隠すように、ますます深く頭を下げた。
「少々近道をしておりまして。急いでおりますので、これにて御免」
次の瞬間、ドリーは手に持った洗濯籠からシーツをつかむと、ばさり。
視界を塞がれた青年が一瞬の逡巡ののちシーツを叩き落としたが、そのときには既にメイドの姿はどこにもなかった。
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数日後。
趣味の悪い夜会に身を投じたリーンハルトは、己の眉間に深い皺が刻まれていくのを感じていた。
天井からは巨大なシャンデリアがぶら下がっている。あしらわれた無数の小さな装飾のせいで、光は屈折して散乱し、却って会場の印象をくすませて見せていた。
やけに太い柱は、奇抜な彫刻のところどころに金箔があしらわれ、シャンデリアの光を乱反射して目の奥に刺すような痛みを残した。
悪趣味ながらも気合いの入った館の設えとは裏腹に、急ごしらえで集められたらしい使用人たちは指導がいきわたっておらず、動きがぎこちない。今も王太子が空のグラスを手に佇んでいるというのに、代わりを差し出しに来る気配もない。
伯爵風情が、図々しくも新邸完成披露の夜会に招待状を寄こし、王太子リーンハルトは嫌々ながらもそれに応じた。
──そんな筋書きなどなくとも、リーンハルトはもう既にうんざりしていた。年若いながらも苦み走ったその表情は、彼を殊更に威風堂々と見せていた。
伯爵家の夜会には子爵家や男爵家の者も多く、めったに目通りの叶わない美貌の王太子に熱い視線を注いでいる。令嬢たちの絡みつくような秋波に喉の渇きを覚え、リーンハルトはワゴンを押して通りかかった給仕の女を呼び止めた。
「おい。──お前は」
ピンク髪の給仕が振り返った。
しかし、ちょうどそのとき、杖をついた紳士がリーンハルトに話しかけてきた。
「王太子殿下におかれましては、拝謁叶いまして恐悦至極に存じます」
大げさなほどへりくだって口上を述べる老紳士は、装いは高価だが爵位が高そうには見えない。成金のにおいがぷんぷんする。
「よろしければ、白ワインなど如何でしょうか?」
「──結構だ。私はそろそろ失礼致す」
すげなく断ったリーンハルトだが、ちらと目だけで紳士と頷きあう。
成金紳士が辞したときには、先ほどの給仕の姿はどこにもなかった。




