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セインは湯気の立つマグを両手で包み、僕の向かいに座った。
喫茶店の二階、彼女の部屋。カーテンの隙間から射す光が、本棚の背に斜めの線を作っている。
「順番に話すね、シオン君。私と君は、バンガードの第一部隊でドルフェリア前線にいたの。
君は速くて、正確で、そして容赦がなかった。
敵に情を与えず、味方にも妥協しない戦い方はロクサリエンにとって大きな結果を出してた。
でも同時に、周囲から距離を置かれていったの。暴走するんじゃないか、って噂もあった」
僕は否定しなかった。あの頃の自分を、言い訳で薄めるのは卑怯だ。
「私は君の恋人だったの。だから、終戦後に君が空っぽになる未来を怖れた。
そこで“仮想現実で人と関わる機会”を設計することで回避しようとしたの。
他人に触れて、違いに触れて、君の視野を増やすために。
ある技術者と組んで、君の記憶や願いから人格モデルを作ったの。
ミカロちゃん、エイビスちゃん、シャルルローズちゃん、オラクリエ君。
皆、精巧な擬似人格として活躍してくれたよ」
「ペンダントは?」
僕は胸元の重みを指で押さえる。
「他人と協力する“きっかけ”として用意した道具。方向を示す以上の意味は持たせてないの。
象徴に過ぎないよ、シオン君」
セインは掌サイズの本を撫でる。
「君が彼らと十分に関わって、怒って、笑って、譲って、支える姿を見届けた時点で、実験を終わりにするには十分だと判断できた。
本から出るポータルを開いたのは私。もちろん、区切りを付けるためにね」
そこで彼女は席を立ち、僕の前に来た。油断した僕の呼吸の間へ、ためらいなくキスを差し入れてくる。オレンジの香りが鼻をくすぐる。
「おめでとうシオン君。これは、ご褒美だよ」
驚きはしたが、拒むほどの理由が見当たらなかった。腕が自然に彼女の背に回る。
頭を撫でられ、胸の奥の硬い塊が小さく崩れる。
「君の中に閉じこもっている記憶がある。君は今うまく認知できていないけど、私たちは恋人だった。それは現実だよ」
心拍が上がる。取り戻せていない記憶の話題に、焦りが顔へ出るのを止められない。
ミカロたちに会えない空洞が疼く。その穴を埋めるみたいに、僕はもう一度セインと口づけを交わした。彼女は僕の頬を包んで下火の瞳を見せる。
夜は時計を見ぬ間に過ぎていき、扉の外が静かになった頃、僕らは互いの体温で眠った。
窓を蠢く雨音のような声が聞こえる。何を言っているのかは分からない。
足を進めると桃の香りが頭を突いた。
「シオン、私のことはどうでも良かったの?」
「シオン様、私もでしょうか」
この声は偽物だ。答えたところでどうしようもない。
僕が静かに耳を塞ぐと彼女たちは僕を責め立てるように耳元で葉を投げる。
いつまで待っても彼女たちは止まることがない。瞳を開けてはいけない。
開けてしまえばもう戻ることはできないだろう。
ごめん。何度でも謝ろう。僕の邪魔をしないで欲しいなんてご都合主義な話はしない。
僕の目の前に来たら、その時は話をしよう。
目を開けると、腕の中でセインが静かに眠っていた。頬は穏やかで、まつ毛の影が白いシーツに落ちる。
僕は髪を整えてやり、そっと抜け出す。頭の奥で浮き出した囁き声を深呼吸で追い払い、身なりを整えて喫茶店周辺を見回った。通りは落ち着いている。
バンガードの巡回はこのブロックには入っていないのかもしれない。
戻る頃、寝台の上でセインが目を開いた。
「おはよう、シオン君。ねえ、車でも聞いたけれど、これから君は改めて何をするの?」
「正直言うと、まだミカロやエイビスたちのことは綺麗さっぱり理解できたわけじゃない。
だから、戦いとは別のことをして気分転換したいと思ってる」
「うん、いい答え」
セインは素直に笑いつつ支度を整えていく。
両手で髪を絞る仕草を終えると、彼女は僕と目線を合わせ直した。
「じゃあ今日だけは猶予期間にしよ。ここまで頑張った君と私に一日だけのご褒美。安全は私が保証してあげるから」
「嬉しい提案だけど、バンガードが黙っちゃいないさ」
「そしたら、本を使ってみるのはどうかな」
掌にある昨日とは別の小さな本が開き、紙片の奥に淡い光が生まれる。
「今日は二人だけの場所へ行こうよ」
ためらいはあったが、僕は彼女の手を取った。光を越えると、静かな洋服店に立っていた。
店員はおらず、鏡とマネキンだけがこちらを見ている。
「まずはデートの服から整えるよ、シオン君。ちゃんと選べる?」
「こう見えてもバンガードにいた頃はファッションセンスを磨くことに力を入れてたんだ。心配いらないよ」
「その自信なら問題なさそうだね。私は向こうで探すよ。オフショルダーにミニスカートのマネキン前で集合ね」
冗談めかす声に苦笑しつつ、ラックを辿る。
オレンジのニット、グレーのロングパンツ、黒のスニーカー。
指先が生地に触れた瞬間、頭のどこかでエイビスの澄んだ声が響く。
――よくお似合いです、シオン様。
僕は一度手を引っ込め、セインの「仮想現実」の説明を思い出す。
もう一度、今の自分の判断として選び直し、鏡の前でサイズを確かめた。肩線は過不足がない。
色の出も悪くない。袖を通し、軽く肩を回してから、指定のマネキン前でコインを弄びながら待った。
ヒールの音に振り向くと、セインが現れた。
白のワンピースは深めのスリットで脚線をきれいに見せ、上に羽織ったベージュのコートが全体を柔らげる。手首には白の腕時計。歩みは落ち着き、視線はまっすぐだ。
「緊張してない? いつもと違うシオン君だけど、似合ってるね」
「・・・ありがとう。それで、どこに行くんだい?」
僕が視線を逸らすと、彼女はステーキを味わう時みたいな満足顔になり、そのまま手を取る。
次の瞬間、赤い絨毯とシャンデリアが広がる映画館のロビーに立っていた。
非現実的な装飾なのに、揺らめく温度とバターの焦げた匂いは確かだ。
「ポップコーンは塩? キャラメル?」
問いながら、セインは片方のカップを僕の口元へ押しやってきた。どうやら選ばせる気はないらしい。
「キャラメルにしよう」
舌に残る甘さを笑いで流し、渡されたコーラで喉を潤す。
「セインはレモネードですか」
「うん。好きだからね―」
珍しく彼女は飲み物を飲みつつ返事を伝える。彼女は二本目の飲み物に手を付けた。
どうやら猶予を待っていたのは僕だけじゃないみたいだ。さすがに三本目は止めさせた。




