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断罪の口上、途中ですが——では私が娶ります ―戴冠式の誓いは覆せない―

 鐘が七つ、重ねるたびに、胸骨の奥で空気が震えた。

 王都大神殿。戴冠式の主祭壇は、昼の太陽をそのまま形にしたような白金で、床面のモザイクは、古王朝の紋と条文の並びを描いている。


「——これをもって、王太子ヴァロールは、リヴィア・エルンとの婚約を破棄し、王家の名誉を守る」


 司礼官ではない。壇上で声を張ったのは本人、王太子だった。

 私は膝の上で指を握り、ほどいた。掌に残っているのは冷たい汗だけ。何もしていないのに、有罪の形に手が馴染んでいくのが嫌だった。


 参列席がざわめいた。羽扇がひらめき、誰かがのけぞり、誰かが笑った。

 けれど、式は止まらない。

 司礼官は一礼し、静かに巻物を繰る。壇の脇、記録係たちの水晶ペンが、光を飲み込んでは吐き、音のない文字を紙へと沈めていく。


 鐘が、八つ目を拒むように長く響いた。

 鐘楼の下、司礼官が宣言する。


「——戴冠誓詞、読み上げに入る。第一条、王位継承の承認。第二条、国家守護の誓い。第三条、法の尊重。第四条、血統の保護。第五条、諸侯の忠誠。第六条、信仰の自由。第七条、王の保護指定——」


 空気の粒が、私の頬を撫でて過ぎた。

 王座に座るはずの男——現王アルクレインが、ゆっくりと立ち上がる。年輪を刻んだ眼差しは湖面のように静かで、しかし底は深い。


「第七条は、生涯に三度まで。公衆の前で、人ひとりを王の保護に置く条。刃も、非難も、法も、その日からその身に届かぬ」


 司礼官が頷く。「右の通りでございます、陛下」


 王は壇の中央、王太子と私の間に立った。

 会場のざわめきが沈み、衣擦れの音が聖句のように整列する。

 王太子が、唇の端で笑った。「父上。今は私の——」


「式次第は王より強い」

 王は声を重ねて言った。誰にも怒気は向けない。けれど言葉それ自体が秩序で、通路の石を一枚ずつ正位置へ戻していくような感触がした。


 王は私を見た。

 逃げなかった。逃げる足は、こういう床の上では音が大きすぎる。


「リヴィア・エルン。汝を問う。汝、謀反・背徳・虚偽の罪を負うや」


 私は首を横に振る勇気を持てなかった。かわりに、喉で小さく呼吸を立てた。「——負いません」


 王太子の従者が掲げている、告発の証憑。封蝋の色は王家の金。

 だが、壇の脇に座る記録係が、目を上げるでもなく、細い声で言った。「公証、進行中。筆致不一致。封蝋、後押し痕」


 ざわめきが一段低くなる。

 王太子が顔を顰める。「記録係風情が、何を」


 記録係の机に並ぶ道具は、羽ペンも砂時計も、昔ながらのものだ。けれど、水晶ペンの軸には刻印がある——“式次第の権能下、公証は人に優先する”。

 人は嘘をつくが、式は記録する。

 私は幼い頃、母に教わった。「大事なことは、誰が言ったかではなく、どこで言ったかで決まるのよ」


 王は頷くと、司礼官へ視線を送った。司礼官が章句を繰る。


「第七条、読み上げ。王は王位の権能により、公衆において一名を保護指定となし、誹謗中傷・不当訴追・不法の加害より遮断する。王印をもって施行。」


 王は私の前に右手を差し出す。その掌は、剣に強い男の手ではなかった。

 式を持つ男の、手だった。


「……では、私が娶ろう」


 言葉は、鐘ではないのに鐘のように響いた。

 私は目を閉じた。涙は零れなかった。泣くのは判決のあとにしたい。


 王太子が半歩踏み出す。「父上、それはあまりに——」


「ヴァロール」

 王は名を呼ぶだけで、息子を止めた。「おまえは式を軽んじた。だから、その軽さで人を傷つけた。式は、弱い者のためにある。強い者が己のために使うものではない」


 記録係の机から、わずかな破裂音が立った。封蝋が割れ、内から薄片が舞う。

 公証結果が読み上げられる。「証憑、後日追記。署名、第三者の手。王太子執務室、窓側机の筆圧との一致を検出」


 王太子の顔から血の気が退いた。会場が凍る。

 訓練された近衛たちが目だけで動き、誰にも刃を抜かせない。代わりに、司礼官の声が処罰の代わりとして流れた。


「偽証により公衆を騒擾させた罪、式内警告。王家条、汝に一年の沈黙を命ず(政務発言の禁止)。」


 王太子は歯を噛み、膝を折った。

 それでよかった。血は要らない。式が罰を与え、式が救う。


 王は私の手を取った。掌が触れたところだけ、温度の単位が変わったようだった。

 王は私を見て、ゆるやかに笑った。「怖かったろう」


「……いいえ。怖いのは、終わったあとに来ますから」


「なら、終わったあとも、私がいる」


 王印台が運ばれてくる。金の板に薄い螺鈿が埋め込まれ、中央に空白の円がある。

 王は私の左手の甲を取ると、印台に触れた。温い光が短く鳴り、王印が、痛みも血も伴わずに肌へ沈む。

 刺繍のような模様。輪の下に、小さな第七条の符号が光って消えた。


「これで、法は君を離さない」


 会場に、ようやく拍手が生まれた。最初は遠くから、次第に近くへ。誰の顔にも大仰な感情はない。ただ、秩序が元へ戻っていく音がした。


 式が続く。私たちは壇を降りない。

 私は王太子の横顔を見た。彼の視線は床に落ち、握りしめた拳は震えていた。誰も彼を責めない。式がもう責めたのだ。人の責めは、重ねると残酷になる。


 司礼官が、最後の条を読み上げる。「戴冠誓詞・終結。以後、王の言葉は法の形に従う」


 王が小さく息を吐いた。「リヴィア。君に、私の弱さを見せることがある。王であっても、弱い日がある。そのとき、君に式を貸してくれ。私の言葉が迷いそうなとき、条文を読んでくれ」


「私は、読むことしかできません」


「読むことが、王を救う」


 私はうなずいた。

 王の隣に並ぶという現実は、まだ体の中に収まらない。けれど、式はもう私の体の外を囲ってしまった。なら、その内側に自分を置くしかない。


 広場に出ると、風が王都の匂いを運んだ。焼き菓子、石灰、鳩。

 庶民たちが膝を折り、あるいは膝をつかず、こちらを見る。敬意は形だけで十分だ。形は人を守る。

 私は母の言葉を思い出した。「誰がではなく、どこで」


 どこで……ここで。

 私は王の袖をそっと摘んだ。王は少し目を細める。

 指先の布地は厚い。けれど、温度は伝わった。


「陛下」

「アルでいい」

「……アル。第七条は、生涯に三度まで、ですね」


「うむ。あと二度、残っている」


「ではその一つを、ご自身にお使いください。いつか、王が王であれなくなりそうな日が来たら——あなたをあなたの言葉から守るために」


 王は驚いたように、そして少しだけ、少年のように笑った。「それは、いい使い道だ」


 私は笑い返した。

 式は固いが、固いものは、預けることができる。

 人の腕はいつか疲れるけれど、条文は疲れない。

 その疲れないものが、今日、私たちをつないだ。


 鐘が、遅れてもう一つ鳴った。数には入らない、風の音のような鐘。

 王都は午後に傾き、影が長くなる。

 王印は肌の下に沈黙し、私の名の上に薄い輪を残していた。


 それは所有の印ではない。

 保護の輪だ。

 そこに、私の指を通しておく。抜けないように。


   ◇


 夜、寝台の上で、私はようやく泣いた。

 恐怖の涙でも、屈辱の涙でもない。ただの、人間の涙。

 扉の外で控える侍女が、気づかぬふりをしてくれる。気づかれないという優しさもあるが、気づいていて気づかぬふりという、もっと難しい優しさもある。


 灯を落としてから、扉の向こうで短いノック。

 声がした。「アルだ」


 私は起き上がり、扉を開いた。

 王は寝衣ではなく、薄手の外套だった。手に薄い書板を持っている。


「新しい誓いの草稿だ。第零条を足そうと思う」


「第零条?」


「式が王を縛るように、王も式を守る。——“王は式に従うことを誓う”。それを、最初の行に置く」


「それは、誰のための条ですか」


「今日の、君のために」


 私はうなずいた。

 王は書板を差し出し、私の手を取らず、ただ言った。「読んでくれ」


 私は読む。声に出して、ゆっくりと。

 言葉は、誰のものでもあり、誰のものでもない。

 けれど、どこで読むかで、世界の形が少し変わる。


 読み終えて顔を上げると、王が安堵したように目を閉じた。

 その横顔は、昼間より少しだけ、人の顔に近かった。


「おやすみなさい、アル」


「おやすみ、リヴィア。君の声で、今日が終わる」


 扉が静かに閉じ、私は寝台に戻る。

 明日は、違う朝になる。

 私は左手の甲を見た。王印の薄い輪が、暗闇のなかで微かに灯っている。


 式は、恋を作らない。

 恋を守る。

 私は輪の内側に、胸を置いた。


— 完 —

〔同系統のおすすめ〕

・「婚約破棄を宣告された瞬間、国王陛下が『では私が娶ろう』と言い出しました」(N6148LD):宣言一発逆転系

・「婚約破棄の瞬間、隣国の王子が私をさらっていきました」(N6144LD):その場劇的回収

・「監視妃の監査報告書は公証ざまぁ」(N0502LE):公証×ざまぁ系


あとがき

読んでくださってありがとうございます。制度に恋が勝つのではなく、制度が恋を守る話を書きたくて第七条を据えました。条文の遊びが好きな方は感想欄で「好きな条文」を教えてください。次回は「誓約の余白」をテーマに短編予定です。

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