『私の名はライラ』初稿
ライラ・スヴァンホルムは小一時間馬車に揺られていた。誰も近寄らない場所へ向かっているため、乗っているのはライラだけだ。
ギルド長が手配した馬車は作りが悪く、ひどく揺れる上に座席が硬い。扉の立て付けも悪く、走っている間、耳障りな音が鳴り続けていた。車輪が外れそうなほど軋んでいる。しかし、何よりもライラを苦しめているのは馬車の中に漂う腐敗臭だった。小動物の死骸がどこかに紛れているのかもしれない。もっと悪条件の依頼をこなしてきたライラでも、つい顔を歪めてしまう。
少しでも気を紛らわそうと窓の外に目を向けた。
まだ王都から出てはいないが、中心街ほどの賑わいはない。大森林に近づいたからか、石造りではなく木造の家が増えてきた。かろうじて道は石畳だが、もう少し中心部から離れれば舗装もなくなるだろう。そうなれば馬車がさらに揺れると気づき、ライラの表情は曇った。
ガラス窓をよく見ると、端にヒビが入っている。この揺れだといつ割れてもおかしくない。ライラは元の色がわからないほど色褪せたカーテンを閉めた。馬車の中は一気に薄暗くなった。指先に、得体の知れないベタつきを感じ、すぐに手を離す。カーテンの襞に溜まっていた埃が辺りに舞い散った。呼吸しただけで喉が刺激され、咽せた。
ライラは気が滅入って俯いた。落とした視線の先に、くすんだ花模様のドレスがあった。柄は流行遅れながら生地は極上の絹だ。形は今の流行に合わせて、胸元が大きく開き、袖の肘から先がフリルになっている。ライラは没落した伯爵家の娘を装っているため、流行遅れの質の良いドレスをわざわざ仕立て直してあった。ライラの所属するギルドはどんな依頼でも細部にこだわる。
ライラはたとえ薄汚れた服を着ていても、白金の髪と抜けるような白い肌で人目を引く。瞳は、新緑を思わせる鮮やかな緑色だ。今までの依頼では、髪を染め野暮ったいメイクを施していた。しかし今回は、ライラの美しい容姿も含め、任務の遂行に適しているのだという。
ライラの行く先は、ヘールストレーム伯爵家だ。王都の外れにある大森林の奥にひっそりとたたずむ屋敷は、長い年月謎に包まれている。主であるマルクス・ヘールストレーム伯爵は、王の呼び出しがない限り屋敷からは出ないという。伯爵が人前に出たのは、爵位の継承時が最後だった。今から十八年前、ライラが生まれる前の話だ。
大森林に入ってからは道が悪く、あまりの揺れに背中や頭を何度も打ちつけた。ライラは心の中で、「荷馬車の旅の方がよほどましだった」と不満を漏らした。
外からは、激しい馬車の軋みにもかき消されず、獣とも鳥ともつかない何かの鳴き声が聞こえてくる。唸るような声も甲高い悲鳴のような声もある。
ライラは、いざという時のためドレスに隠してある短剣を、布の上から何度も確認した。
ようやく伯爵邸の前に着いた。馬車は敷地内には入れないらしく、ライラは馬車を降りた。邸宅の入り口には巨大な黒鉄の門扉がある。
ライラを降ろすと馬車はすぐに元来た道を戻り始めた。樹齢の見当がつかないほどの巨木が作り出す影に、馬車は吸い込まれるようにして消えていった。
荷物は旅行カバン一つだけだ。これから必要なものは全て、伯爵家で用意してくれるという。
冷たい空気が肌に触れ、ライラは軽く身震いした。巨大な門をおずおずと見上げる。
依頼内容は“潜入調査”だった。ライラは“誰が”“何を”“なぜ”知りたがっているのか、教えられていない。ただ伯爵家の使用人となり、数ヶ月間、日々の仕事をこなす。不満はないが疑問はあった。簡単そうに聞こえるが、実に厄介な依頼だ。依頼人の意図はもちろんのこと、ギルド長が何を考えているかもわからなかった。いっそのこと、伯爵を暗殺しろと言われた方が悩まずに済む。
今、何よりも問題なのは、門を開けてもらう方法がわからないことだ。ライラは門の前に立ったまま、周辺に視線を走らせる。呼び鈴も見当たらない。大声で叫んだとして、屋敷まで届くとは思えなかった。
突如、地鳴りが聞こえ、門がゆっくりと開いていく。向こう側には、黒いコートを身につけた執事と思しき壮年の男性が立っていた。
「あなたの名は“ライラ”で間違いありませんね」
男性は、少し離れた場所にいるにも関わらず、よく通る声をしている。
「ライラ・スヴァンホルムと申します」
「ここでは、名字は関係ありません。名が、“ライラ”であれば良いのです」
「ライラで間違いございません」
「では、お入りください」
男性に促され、ライラは足を一歩前に出す。途端に、悪寒が走った。おびただしい数の気配がある。殺気でないだけましだった。ライラは表情には出さずに、警戒を強めながら、足を伯爵邸の敷地に下ろした。わずかに泥濘んでいて、かかとが土に沈む感覚があった。落ち着くために空気を深く吸い込む。血の臭いにむせそうになった。かなりの出血量がなければこれほどの臭いはしない。
男性は、「あなたは正真正銘の“ライラ”だったようですね」と微笑んだ。血の臭いは残っているが、気配は消えた。
「改めましてご挨拶いたします。私は、ヘールストレーム伯爵家にて執事を務めておりますクリストフェルと申します」
執事は、まるで客人を迎えるように振る舞う。ライラは不審に感じながらも、丁寧なお辞儀で応えた。
伯爵邸の敷地内に入ったものの屋敷まではまだ遠いらしく、馬車が用意されていた。小さいが美しい装飾が施されている。
内装は色調こそ抑えてあるが、上質な素材が使われていると一目でわかった。座り心地も良い。何よりも甘く良い香りがしていた。
執事がライラの正面に座った。くすんだ灰色の髪と淡褐色の瞳がどこか冷たい印象を与えるが、表情は常に柔らかだ。
「さぞかし戸惑われたことでしょう」
執事の言葉が何を指しているのか判断しかね、ライラは曖昧に微笑むに留めた。
「伯爵邸は常に人手が不足しておりまして、午前にも一人、使用人候補の女性が来たのです。しかし、その女性は名前を偽っていたため残念なことに……」
ライラは門の近くで嗅いだ血の臭いを思い出した。
「伯爵邸の敷地内に入れる女性は“ライラ”という名の者だけなのです」
ギルドの登録時、偽名にしたならば今頃命がなかったかもしれないと背筋が寒くなった。ギルド長に拾われた頃にはまだ、名前を偽る知恵がなかったおかげで命拾いした。
「お決めになるのは伯爵様ですが、あなたはきっと受け入れられるでしょう」
執事として使用人候補を繰り返し迎えてきた経験からの予想だろう。執事が微笑みの奥で何を考えているのか読み取れなかった。
ライラの心とは裏腹に、馬車の窓から見える庭園は色鮮やかな花で埋め尽くされている。道すがら、白い大理石の天使像をいくつも見かけている。大森林の奥に明るく開けた場所があるとは、思いも寄らなかった。
「間もなくお屋敷に着きます」
ライラは「はい」とだけ返した。膝の上に重ねた手は、いつの間にかじっとりと汗ばんでいる。与えられた情報があまりに少なく、何に備えるべきかすらわからない。平静を装いつつも全身の神経を尖らせながら、ライラは馬車を降りた。一人年若い侍従が控えており、ライラの荷物を運んでくれると言う。頼むほどの重さではなかったが、素直に荷物を手渡した。
屋敷は、ライラがこれまでに見てきたどんな建物よりも巨大で豪奢だった。染み一つない白亜の壁には、繊細な彫刻が施されている。あまりにも完璧で現実味のない美しさだ。
ライラは貴族の血を引きながら、貴族として育てられなかった。令嬢としての振る舞いは、ギルドで任務をこなすために身につけさせられた。上辺だけの貴族であるライラでも、今目の前にある屋敷は、“伯爵”には分不相応だとわかる。以前、任務で聖教国に行った際に見た、大神殿と変わらない。信仰の対象として、一点の曇りもなくその威光を世に知らしめる存在とよく似た清廉潔白さ。もし伯爵邸が、見た目の通りなのであれば、ライラが潜入を依頼されることもない。
執事が扉の前に立った途端、ゆっくりと開いていく。執事が足を進める。促され、ライラも後に続いた。
真っ白な大理石が敷き詰められたホールの中央に光が降り注いでいる。見上げると高い天井の真ん中に天窓があった。柱の一本一本に聖人や聖女が彫刻してある。
「最初は皆様、驚かれますが、すぐに慣れます」
靴音まで、神聖な響きに聞こえる。徹底して神聖な空間にライラは息苦しさを感じていた。
ライラは、ホールの奥の応接室に通された。落ち着いた色調のよく見かける程度の応接室で、ライラは内心胸を撫で下ろした。
「おかけになってお待ちください」
執事と入れ替わりで、メイドが二人入ってきた。純白の制服を身につけている。二人とも長い髪を後ろで一つに結ってある。頬はほんのりと色づき、唇は赤い花びらのようだった。そして執事の言葉に偽りがないのであれば、二人とも“ライラ”という名だ。伯爵の好みが垣間見え、ライラの背筋に悪寒が走る。
「間もなく、マルクス様がお越しになります」
「道具を用意いたしましたので、お茶をお淹れください」
ライラは「かしこまりました」と言って、立ち上がった。メイドが運んできたワゴンを確認する。保温性の高いポットに沸かしたての湯が入っている。茶葉も香りが高く品質の良さがわかる。
メイド二人は応接室を出て行った。
茶葉をスプーンですくい、ティーポットの蓋を開けた。その時ライラは、全身の産毛が逆なでられる感覚に襲われ、息を呑んだ。確かに近づいてくる強い殺気に瞬きもできずに立ち尽くす。
応接室の扉が開いた。